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断頭台の聖女


「偽聖女リディア。王国を欺いた罪により、ここに処刑──」


 王太子の声は、驚くほど他人行儀だった。

 かつて、私の手を取り「君を守る」と言った口で、今は終わりを宣告する。


 冷えた断頭台の木が、背中越しに脈のように響いている。

 夜風が首筋をなで、観衆のざわめきが、祈りの囁きと罵声に割れていく。


 ──そう。ここで終わる役だった。


 そう思うだけで胸が楽になるはずなのに、心臓は弱くならない。

 むしろ、前世の私が……残業の帰り道で、やり切れなさを飲み込んだ私が、喉の奥で笑っている。


 ──まったく。転生しても、結局仕事か。


 私は、前世ではただのOLだった。

 唯一の楽しみは、帰宅してからの恋愛シミュレーションゲーム。

 悪役で、『選ばれない』はずのサブキャラ魔王に、なぜか本気で心を奪われていた。


 ──なのに。


 この世界に来て、聖女に選ばれ、国のために祈り、癒し、耐え、そして奪われた。


 私の隣で、白い衣の少女が困ったように微笑んでいる。

 真の聖女と称され、光に包まれて。


 ──演技、上手ね。


 視線を向けると、少女の唇がほんの一瞬だけ吊り上がった。誰にも見えない角度で。

 私にだけ届く、前世と同じ勝者の顔。


 ──やっぱり、ここでもあの顔。


 今は、真の聖女エレノラと呼ばれる彼女は、前世では私を潰すことに情熱を注いだ同僚だった。

 仕事を押し付け、失敗を誘導し、上司の前だけでは善人を演じる。

 そして私が折れた頃に、平然と成果を持っていった。


 この世界でも同じだ。

 祈りの手順を盗み、言葉をすり替え、私が積み上げたものを自分の奇跡として光らせた。


 ──あの子、絶対に「自分が選ばれる物語」じゃないと気が済まない。


 処刑台の階段を上る足取りは、冷静だった。

 OLだった頃の私が言う。ここは泣く場面じゃない、って。

 泣けば喜ぶ人間がいる。


 ──それだけは、絶対に嫌だ。


 だが、刃が持ち上がる。

 月光がきらりと反射した瞬間。


 胸の奥で、何かが熱く灯った。


「……あ」


 忘れていた。

 名前でも、呪文でもない。

 私だけが覚えている、約束の音。


 ゲームの中で、誰にも選ばれないはずの魔王が、主人公にだけ教える言葉。

 あの声で、低く囁かれる一行。


 私は息を吸い込み、ほんの小さな声で、それをなぞった。


「──」


 空が、裂けた。


 まるで夜空に刃を入れたみたいに、黒が割れ、奥にさらに深い闇が覗く。

 風が逆流し、松明が一斉に揺れた。観衆の悲鳴が、遅れて響く。


「な……っ」


 王太子が青ざめ、後ずさった。

 兵士たちが槍を構えるが、構えた瞬間に膝が笑い、足が動かない。


 裂け目から降り立ったのは、影だった。

 巨大な翼。漆黒の外套。

 足元に落ちる影が、断頭台の広場そのものを飲み込むように広がっていく。


 ──嘘。


 息が止まった。

 サブキャラのはずの魔王は、ゲームの画面の中だけの存在、のはずだったのに。


 彼は、こちらを見た。


 夜より暗い瞳。

 その瞳に映った私は、断頭台に縛られた偽聖女ではなく……ただの、一人の女だった。


「……遅くなったな、俺の聖女」


 その一言で、世界がひっくり返る。


「ま、魔王だ! 魔王が来たぞ!!」


「聖女を返せ! その女は偽物だ!」


「違う、あの女が国を……!」


 怒号と祈りが混線し、広場が壊れたようにざわめく。

 王太子は叫んだ。


「討て! 討てぇっ! 化け物を討て!!」


 号令とともに矢が放たれる。

 だが矢は、彼の外套に触れた瞬間、灰になって崩れ落ちた。

 魔王はただ、片手を軽く振る。空気が静かに折れ、兵士たちの槍は根元から断ち切られた。


 破壊は簡単にできるのだ、と彼は無言で告げていた。

 しかし、彼は破壊しない。

 必要以上には。


 ──優しい、なんて。魔王に?


 そう思った自分に驚くより先に、彼の手が伸びてきた。


 私は、処刑台の縁を蹴った。

 逃げるためじゃない。

 落ちるためでもない。


 ──迎えに来るって、知っていたから。


 宙に放り出された身体が、空中で一瞬ふわりと止まる。

 次の瞬間、強い腕が私を抱きとめた。


 胸の中で、胸の鼓動が騒ぐ。

 怖いんじゃない。生きている実感が、痛いほどあった。


「迎えに来た。……約束だろ?」


 耳元で囁かれる声。

 熱が、首筋から背中へ、指先へ広がる。


 その時、広場の端で白い光が弾けた。

 偽聖女エレノラの奇跡が、必死に場を取り戻そうとしている。


「わ、私が真の聖女です! この魔物を退けます!」


 彼女は泣きそうな声を作り、両手を掲げる。

 光輪が生まれ、神々しく宙に浮かぶ。


 しかし、光が揺らいだ。

 まるで、芯を失った炎のように。


「……あ」


 私が気づくより先に、彼女自身が気づいた。

 目が見開かれ、唇が震える。


「おかしい。いつも通りに、光が……!」


 ──違う。


 私から奪ったもの、だからだ。

 私の心が応えない限り、真の光にはならない。


「リディア……ッ!」


 すがるような声で、王太子が私の名を呼ぶ。

 私の中の何かが、冷めていく。


「頼む、戻ってくれ……! 君は、君だけは……!」


 彼の顔に、前世の上司が重なった。

 都合のいい時だけ、頼む。失敗したら、責任。


 私は、魔王の腕の中で、ゆっくり息を吐いた。


「……遅いわ」


 あまりにも静かな声だったから、王太子は聞き取れなかったのかもしれない。

 だから私は、彼の目を見て、はっきり言った。


「あなたの言葉は、私を守ったことがない」


 王太子の表情が凍る。

 その背後で、偽聖女エレノラの光輪がひび割れ、霧のように散った。


「返して……っ! 私の光よ! 

 私の役割よ! 私が主役なのに!」


 彼女は叫ぶ。

 前世でも、同じことを言った。


「私のほうが評価されるべき」


「私のほうがふさわしい」


 魔王は、私を抱えたまま、彼女を一瞥した。

 その視線は氷より冷たく。なのに、私の背中を支える腕は、驚くほど丁寧だった。


「奪った光は、持ち主が呼吸を止めた瞬間に腐る」


 低く、落ち着いた声。

 断罪というより、事実の宣告。

 偽聖女エレノラの膝が崩れ落ちる。


「ちが……う……! 私は、私は……!」


 彼女の涙は本物だった。でも、だから何だ。

 涙で帳尻は合わない。


 王太子は剣を拾い、震える手で構えた。

 彼の背後には、崩れかけた王国の象徴、玉座へ続く階段が見える。

 あの階段を上がるために、私を踏み台にした。


 私は微笑んだ。

 極上の笑み、なんて言葉は嫌いだけれど。

 今だけは、そう言ってもいい。


「ごめんなさい。あなたはもう、物語の外よ」


 王太子の口が開いたまま、声が出ない。

 その瞬間、彼の世界が音を立てて崩れた。そんな顔をしていた。


 魔王の翼が広がる。

 夜気が切り裂かれ、空がふたたび裂ける。

 広場の喧騒が遠ざかり、私はただ、彼の腕の中の温度だけを確かめる。


 ──本当に、来た。


 前世の私が、笑った。

 ゲームの画面越しに、何度も選び直したルート。

 選ばれないはずの魔王を、選び続けた私。


「……名前を呼べ」


 彼が呟く。

 命令みたいに短いのに、胸の奥が甘く疼いた。


「アシュレイ……」


「……そうだ」


 その返事が、優しすぎて泣きそうになる。

 だけど、泣かない。泣くなら、ここじゃない。

 守られるだけの女で終わらないために。


 闇の裂け目に吸い込まれる直前、私は最後にもう一度、断頭台を見下ろした。

 王太子は膝をつき、偽聖女は泣き崩れ、群衆は奇跡を失って呆然としている。


 そこに残るのは、弱かった過去の私だけ。

 今ここにいるのは。


 魔王の腕の中で、息をしている私だ。


 そして、彼が私の耳元で、最初の言葉を落とした。



世界は、あまりにも簡単に人を切り捨てる。


正義だの、秩序だの、聖女だの。

都合のいい言葉を並べて、

不要になった瞬間に、迷いなく刃を振る。


それが正しい物語だと、

誰も疑わない顔で。


処刑台の上にいた彼女も、

その一人だった。


泣き叫ぶでもなく、

救いを乞うでもなく、

ただ、静かに立っていた。


恐怖はあったはずだ。

失ったものも、裏切られた記憶も、

数えきれないほどあっただろう。


それでも。


彼女は、世界を睨み返していた。


「選ばれなかった」者の目ではなかった。

「諦めた」者の目でもない。


──生きることを、まだ手放していない目。


誰にも見られず、

誰にも選ばれず、

それでも、消えずに残っていた光。


ああ。

それを、どうして見逃せよう。


原作?

運命?

筋書き?


そんなものは、後からいくらでも燃やせる。


だが、あの瞬間。

あの断頭台の上で。


世界が彼女を切り捨てた、その時に──

生きようとする意志だけが、そこに残っていた。


あの目を、俺は見逃せなかった。



「……泣くな。選ばれなかったのは、おまえじゃない」




「……生きたい」


彼女は、そう言った。

声ではなく、目で。


━━魔王アシュレイの独白━━


拾った。

拾ってしまった、というのが正しい。


断頭台で、世界が彼女を切り捨てた瞬間。

あの目が、俺を見た。


恐怖でも、縋りでもない。

ただ──生きたい、という目。


ああ、厄介だ。

あんな目を向けられて、手を伸ばさないほど、俺は清くない。


救ったのではない。

選んだのでもない。

放っておけなかっただけだ。


それだけで、世界を敵に回す理由としては十分すぎる。


──まだ、引き返せる。

そう思っているうちは、嘘だ。

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