第一話 今日からフォレーヴ
退屈で陰湿な日々から抜け出して、愛と希望を運ぶ暖かい道へ――
◇
ここか……地図を片手にようやくたどり着いた。
荘厳とお洒落を兼ね備えた木の扉に思わず目を奪われる。
ここが今日から俺の働き場となる、洋食レストラン『フォレーヴ』。
なるほど近代的で立派な建物でありつつ、庶民的な親しみも感じられた。
しかし、まずいぞ……膝と腕と手の震えが止まらない。
緊張のあまり、右手で握ったその扉を、押すことも引くこともできず立ち往生してしまう。
高校の入学式から一週間が経ち、新たな学び舎での日々にも慣れてきたかな――という時期。
今日が何とか採用された人生初アルバイトの初勤務日である。
自分で生活費を稼ぎ下宿する。
これが、遠方の私立高校に通うための両親との条件だったのである。
自分の中で何かを変えたくて選んだ学校である。
そしてなんとこのレストラン、住む場所まで確保してくれるという(もう既に荷物は指定された住所に送ってある)。
アルバイトをして生活費を稼ぎながらこれは理想的であったのだが……。
まさかここまで緊張するとは思わなかった。
世の中、そう金、金がすべてなんだ。
生活費を稼ぐ能力がない奴は、負けるしかない。
お前はそっち側でいいのか?
己の貧弱さに呆れつつ、頑張って自分を鼓舞しながら、ついに意を決して【準備中】と書かれた扉を優しく開く。
チリチリンというベルの音が店内中に響き、白いエプロンの制服姿の少女が現れた。
どうやら従業員さんだな……。背丈から見るに、俺の三歳下くらいだろうか。
中間的な長さの髪(ミディアムだか、セミロングだか詳しいことは俺には分からん)をそのまま下ろしていて、カチューシャで前髪を分けている。
そんな若さでバイトとは感心感心。
あどけなさが残る見た目とは裏腹に、少女はクールに目を向け、
「申し訳ございませんが、ただいま準備中です。ディナーが始まるまでもう少々お待ちください」
「いや、あの、すみません。そうじゃなくて、今日からこちらで働かせていただく太田と申します」
少女はビクっと動き、驚きを隠しきれていなかった。
えっと……店長さんとかから、新しい人が入るって聞いてなかったのかな?
一抹の不安を抱えつつ、少女を見つめる。
こうして近づいてみると、なかなかにいい見た目をしている。
健やかな体型に、真面目そうで、しかし美しい瞳。
ちなみに、俺は決してロリコンではない。
「あの、やっぱり人違いだと思うのですが……」
少女は淡々とそう言った。
「ええ? 本当ですか? いやあの、太田、未佐です。その、店長さんとかに確認していただけないでしょうか?」
彼女はまるで、自分を説得するかのように頷いて、ジーと、俺の全身を見つめてきた。
少し恥ずかしい……。
「いえ、大変失礼いたしました。私の勘違いでした。てっきり女の人かと思っていたので……すみませんでした」
「いや、こんな名前だから、よくあることだよ。気にしなくていい」
とは言ったものの……あるかーこんな事!
(もちろん、この未佐という名前にコンプレックスがあるのもまた事実である。人は自分の名前に従って生きるとよく言われるが、もし仮にそうだとしたら俺はどこに向かうのだろうか)
しかし、しかしだ!!
確かに、女子と(ちょっとだけ)間違われやすい名前ではあるけども、そうであったとしても、こんな大事な初勤務日でこんなミスがあってたまるか?
いやさ、もちろんあんな小っちゃくて可愛い女の子を責めるほど俺は幼い人間じゃないけどさ……だからさ、店長だよ、悪いのは。
今後が心配になってきたのは、間違いない。
「まず、店長さんに合わせてくれないか?」
きっと先日の面接で会った、爽やかそうなあの男の人だろう。
すると彼女は、若干の恥じらいを見せながら、しかし冷静を装い、
「いえ……店長は私――月城ティアです。これからよろしくお願いします」
まさに衝撃を受けた。
えっと、この少女が……?
このレストランを?
「じゃあ、この前の面接の男性は一体?」
一つ、気になることがあったのだ。
以前の面接の会場はこのレストランとは、全く無関係といっていいようなビルの会議室で行われたのである。
だとしたら、あの人は……。
「ああ、あの方でしたら、いわゆる採用コンサルタントです。面接による選抜を行ってもらっています。私はエントリーシートだけ見て、あとはコンサルに任せています」
お願いだから、人事に関してもうちょい関心持って!
そんな大企業みたいなことを、チェーンでもない町のレストランでするなよ!
とすれば、あの男性はコンサルだったのか……道理で立派に見えたもんだ。
コンサルに対する神聖視は、俺にとっても例外ではなかった。
「あの、店長、俺はなんてお呼びしたら……?」
流石に、この歳の女の子に向かって、『店長っ!』みたいな呼び方は勘弁してほしいところだ。
すると月城は事務的に、
「言いたいことはわかっています。私は十四です。あなたの一つ下ですので、立場的には私の方が上ですが、常識の範囲内なら何と呼んでくれても構いません」
十四?
彼女にとっては心外かもしれないが、意外な事実であった。
もっと十二とかだと思ったものだ。
まあでも月城は、外見的にすごく幼いわけではないからな。
身長とその儚くて純粋な雰囲気が、何となく歳を低く見せてるっていうか。
「じゃあ、月城さんでいいですか?」
敬語は崩さないでおこう。
「ええ、結構です。では早速、仕事の方に入りたいと思います。今日は、とりあえず皿洗いをしながら、ディナーの流れを覚えてください」
「ほかにバイトの方はいるんですか?」
「今日はいません。そういった話も後で出来たらなと思うので、とりあえずよろしくお願いします」
俺の目を見ながらも、機械的にそう言う。
えっと、じゃあつまり、接客、調理、会計を全部ひとりでやるってことか?
まさか、この子にそんな事……。
◇
五時になった。
いわゆるアイドルタイムが終わり、ディナーがスタートする。
ここから二十一時半まで、一番の稼ぎ時となる。
そして、この四時間半の間――彼女の働きぶりに、魅了された。
ここ『フォレーヴ』は割とカジュアルで安く、美味しいものを(牛丼店よろしくというわけではないが)早く提供することが求められる洋食レストランである。
オムライス、ハンバーグ、ナポリタン、ドリア、シチュー、ムニエル、パフェといった定番メニューを手広く扱っているわけであり、回転率もかなり高く、老若男女を問わない客がひっきりなしに訪れる。
そんな中、大量の料理を器用な手つきで手早く作り、細かい接客も積極的に行って、小規模ではありながらも、店全体の管理をするのが彼女である。
「ご注文のハンバーグとポークソテー、そしてサラダとリンゴジュースです! お間違いないでしょうか?」
「はいお会計は千二百円になります。ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
手際よく肉に塩をまぶし、優しくソースをかけ、整然と野菜を盛り付ける。
大きな鍋からビーフシチューをすくって、純白な皿(別に俺が洗ったからではない)に注ぎ込み、端に香ばしいパンを添えて、客へと運ぶ。
ホールとキッチンをひらりと舞い、笑顔も決して絶やさない。
その姿は美しく、可愛らしく、見る者(俺)を魅了し、感動させた。
レストランはかなりの盛況に思えたし、客も満足気だったのは俺の贔屓目ではないだろう。
忙しい中でも、彼女の料理や接客の一つ一つの所作は、効率的でかつ丁寧。
何よりも、彼女が作り、そして運ぶ料理は、彩り豊かでおいしそうだった。
しかし、
「あの、太田さん。まだ光沢が足りないです。ダメです。しっかり洗ってください」
店が忙しくなって少し興奮気味の月城に、そうダメ出しされたことは秘密にしておこう。
◇
「ありがとうございました」
月城が丁寧に頭を下げると、最後の客は帰っていった。
もうすぐで十時になる、というタイミングであった。
俺は思わず月城に声をかける。
「お疲れ様です。ご迷惑おかけしてすみません。すごい働きぶりでしたね!」
「いえいえ、これは仕事なので当然です」
彼女は顔色一つ変えなかった。
ていうか、彼女は中学校に行っているのだろうか?
こんな生活を送っていたら、学校には通えそうにない。
「太田さん、どうぞそこ座ってください」
そうして、先ほどまで客が座っていた椅子を指さす。
机と椅子には客が触れた熱がまだ残っていた。
先ほどまであんなに表情豊かで、生き生きとしていた彼女も、今となっては初対面の時と変わらない、丁寧だがどこか他人行儀で冷静な少女である。
すると、キッチンの奥に消えていた彼女が出てきた。彼女はこっちを見つめながら、
「あの、これ夕食にどうぞ」
トンっと、オムライスが置かれた。
綺麗――というのが最初の感想であった。
食べ物としての印象を損なわない程度に整えられたフォルムに、輝くデミグラスソースがかけられている。
まず、一口。何というか、上品な味。卵とソースとライスとが、共生しているというか、一つ一つの材料が主役といった感じ。
こんな庶民的な価格のレストランで食べられるものとは思えんな。
なるほど、彼女の腕は確かなものであるといっていいようだ(なぜ上から目線?)。
まあ、そんな風においしくディナーを味わっていたのであるが……月城だけが立ったままであったので、何となく気まずい雰囲気になってしまう。
服の裾をいじり、どこか落ち着かない様子である――まあ、彼女が何かを言いだそうとしているのは伝わってきた。
仕方ない、ここは年の功を見せる時かもしれない。
「どうしたんだ? 言いたいことがあったら我慢しない方がいいぞ」
やっぱり、年下に対して常に敬語というのも、変な感じであったなぁ。
「いやあの、最初、私は太田さんのことを女の子だと勘違いしていましたよね」
「ああ、それならもう気にしてないから。本当に採用してくれて感謝しています」
今日の彼女の活躍を見て、誰があんなこと責められようか。
月城は続ける。
「いや、あのもちろん、そういう意味もあるんですが。このレストランの求人情報に、住宅完備って書いてあったと思うんですけど」
「ああ、あれに書いてあった所にちゃんと荷物は送ったぜ」
「いえ、あれは実は私の家でして、そのつまり、シェアハウスというか、いわゆる寮みたいなものなんです」
えっ!
えっと……。
結局、どういうことだ?
彼女は伏せがちだった顔を上げ、覚悟を決めた。
「今日から――私の家で二人で暮らすことになります」
俺は今日何度目かの衝撃を受け、卒倒しかけたのであった。