第18話:毒と記憶の処方箋
朝靄の立ち込める王宮の中庭。砂利を踏む音が二重に重なる。
ユウとエリザは黙って歩いていた。主治医の座を追われたユウが、再び王宮に呼び戻された理由は、昨日明かされたばかりだ。
――「第二王子オルステッド殿下の記憶障害と、失踪事件の関連性について、診ていただきたい」
そう告げたのは、先日までユウの追放に関与していた宰相・グランベルだった。
「……変な話だよな。毒物で記憶を奪うなんて、普通は逆。むしろ記憶が混濁して幻覚を見せるのが常識だ」
ユウは足元の白砂を見ながら呟いた。
「ええ。でもこれは“常識”では語れない事例です」
エリザの声には、かすかな緊張が滲んでいた。
今回の依頼内容は、オルステッド王子の記憶喪失。
ただの事故ではない。
三日前、王宮内で突如失踪した王子が発見されたのは、南の薬草園。その傍に倒れていた彼は、なぜか「五年前の自分」を演じていたという。
「“記憶の毒”……そう呼ぶべきか」
ユウは口の中で転がすように呟く。
「毒」は身体を蝕むだけではない。心や記憶を歪める薬もある。辺境ではよく知られているが、王都ではまるで“呪い”として扱われる。
王宮医務室で、ユウは改めて王子と対面した。
「オルステッド殿下、今日はどう過ごされました?」
ユウの問いかけに、少年のような無垢な瞳が向けられる。
「ええと、剣の稽古をしたよ。それから、父上に褒められて……あれ?」
記憶が錯乱しているというより、“作られている”印象だ。
ユウは王子の脈を診ながら、唇を引き結ぶ。
「殿下。こちらを少しご覧ください」
ユウは掌に小瓶を掲げた。淡い紫の液体が揺れる。
「これは〈霧眠花〉という薬草の抽出液。辺境では“記憶を上書きする花”として知られています。摂取後、五年前の記憶と現在の記憶が混在し、過去の“自我”が表層化するんです」
「……なにそれ、怖い」
王子の声はまるで子供のようだった。
だがユウの表情は変わらない。
「怖いのは、これをわざわざ王子に盛った誰かがいるということです」
エリザが顔を上げる。
「王子が“都合のいい状態”でいれば、得をする人物……?」
「王位継承権の調整だな。オルステッド殿下は第二位。彼が精神的に“無力”だと証明されれば、第三位の公爵家出身の令嬢の婿――つまり、あの男が繰り上がる」
「……宰相グランベルの孫婿」
「察しがいいな」
ユウは肩をすくめた。
「だが証拠がなければただの中傷だ。だから、毒の“処方者”を探る必要がある。記憶を操作するには、本人が信じ込む“導線”が必要だ」
「記憶の毒は、“きっかけ”を媒介に作用する……?」
「そう。たとえば“香り”だ。嗅覚は記憶に直結する感覚。もし王子が五年前を思い出す香を嗅いだとしたら?」
ユウは立ち上がった。
「王子が倒れていた薬草園は、皇太子妃殿下の私邸庭園と接している。〈霧眠花〉は本来、外来植物として輸入が禁じられているが……密輸された形跡がある」
「じゃあ、王宮内部に協力者が?」
ユウは頷いた。
「だからこそ、王子の“過去の記憶”に含まれる人物を洗い出して、その人物に関連する香りや音、食事を調べる」
エリザが目を丸くする。
「まるで“感情のプロファイリング”ね」
「薬師にとって、感情は立派な“診断材料”だ」
ユウは笑った。
――その夜。
ユウは王子の夢を誘導するため、香を焚いた。そして彼が寝言で呟いたのは、五年前に亡くなった侍女の名前だった。
「その侍女、宰相グランベルの甥が囲っていた愛人だった」
エリザが持ち帰った記録から明らかになった。
「……つまり、彼女の死が王子の記憶に深く刻まれていた。そして、その記憶を“トリガー”に、記憶の毒が仕掛けられた」
ユウは呟いた。
「記憶の操作は、毒だけでは成立しない。むしろ心の“傷”をえぐることで効力を増す……まるで、“同意のある洗脳”だ」
宰相は王子の心の弱さを突き、無意識下で“過去に戻りたい”と願うよう誘導していた。
ユウは診断書を提出した。
「毒による記憶障害。ただし、この毒は“記憶に寄り添う”ことで作用する。つまり――王子は、戻りたかったのだ。あの日に」
翌日、王子は涙を流してユウに言った。
「ありがとう、先生。あの子の夢を、もう見ないでいられるようになりたい」
ユウはそっと頷いた。
「それは、薬ではなく――時間が癒すものです」
王子の治療が完了し、ユウは再び王宮を離れることになった。
帰り際、エリザがぽつりとつぶやいた。
「医術って、記憶も診るのね」
ユウは歩を止めた。
「いや……心を診るんだよ、薬師ってのは」
その声に、朝の光が差し込んでいた。