第17話 :ひと匙の悪意、ひと粒の真実
密室だった。
鉄格子の窓、内側から施錠された扉、そして死んでいたのは“神の手”と呼ばれた王宮医官のひとり、アナスタス医師だった。
現場は静かすぎた。まるで“処置室”そのものが死を受け入れたかのように。
「自殺、ですか?」
そう口にしたのは、私の問いに迷いを抱いた若き侍医。首を傾げる彼の横で、私は血痕の散り方を見ていた。美しい弧を描く血飛沫。それは頸動脈が断たれたとき、よく見る形。
だが奇妙だった。頸動脈を切っているのに、顔には恐怖の表情がなかった。
「不自然ですね。痛みも恐怖もないまま、人は死ねませんよ」
私はそうつぶやき、処置室の隅へと歩を進めた。
棚には、消毒液、包帯、麻酔薬。医療施設にありがちな、規律正しい混沌。
そのなかに一瓶、違和感のあるものがあった。ラベルは丁寧に書き換えられ、整然と棚に置かれているのに、その瓶だけ微かに――震えていた。
「瓶が、揺れてます」
「え?」
「いや……振動じゃない。中身が、まだ反応している」
私は瓶を慎重に手に取り、光に透かした。無色透明な液体。その沈殿層にごくわずかな動き。揮発性の毒か、あるいは――
「これは神経毒ですね。名称は……“トレンシン”。王都では軍用に使われていたもののはず。血清が間に合わなければ、死に至ります」
侍医が蒼白になる。私も同じだった。
なぜアナスタス医師が、そんなものを扱っていたのか? しかも、処置室の中で――。
「これは、事故ではなく、殺人事件です」
私は確信をもって言った。
「密室、という点ではたしかに奇妙ですね」
王宮付きの筆頭侍医、クラヴィス殿下は眉を顰めたまま、処置室の見取り図に目を落とす。
「内鍵がかかっていた。扉は壊されていない。つまり、中から鍵をかけたあと誰も出ていないことになる」
「ですが、毒は液体でした。つまり――飲んだのでしょうか?」
「違います。彼の胃には食物も水もなかった。口に入った形跡がないのです。皮膚から吸収された形跡も、刺傷もなし。唯一の違和感は……」
私は遺体の足元に転がっていた嗅ぎ薬の小瓶を差し出した。
「これです。いわゆる覚醒用の薬草エキスで、強烈な香りがあります。よく、過労気味の医官が使うんですよ」
クラヴィス殿下は瓶を手に取って鼻に近づけた瞬間、顔をしかめて咳き込んだ。
「これは……強すぎる!」
「そのとおり。これは通常の三倍以上の濃度に精製されていました。しかも、香りを隠すために**桜香**を混ぜている」
「ということは……?」
「“嗅ぐことで毒が吸収される”んです。つまり彼は、“覚醒のため”に毒を自分で吸い込んだ。殺されたことも知らずに」
殿下の顔色が変わる。
「つまり、毒を仕込んだのは――」
「嗅ぎ薬を交換できた人物。かつ、彼の手に直接それを渡す立場にあった者」
「あなたですね、ソレル医官」
私は名指しした。ソレル医官は肩を揺らし、乾いた笑いを洩らす。
「なるほど、まさか“香り”を使って仕留めるとは……やはりあなた、只者ではない」
「なぜですか?」
「彼が私の研究成果を横取りしようとした。特許申請寸前だったんです。覚醒用の薬に“桜香”を混ぜて香りを柔らかくする技術は、私の発明だったのに」
「だから毒を混ぜた?」
「ええ。……ですが彼が死んだ時、私は外来の当直でした。現場にはいません。毒を仕込んだのは、数日前のこと」
その言葉は真実だった。
彼は毒を“仕込んだ”だけだった。
そしてアナスタス医師は、“自らの手”でそれを吸い込み、死んだ。
だが、それは本当に“殺人”ではないのか?
「あなたは“匂い”を殺した」
「は?」
「医師は、匂いの変化で薬の異常を見分ける。それをできないように“桜香”で香りを封じた。つまり、嗅覚という警報を無効化したんです」
私は、静かに告げた。
「――それは、立派な殺意です」
事件の処理は静かに行われた。ソレル医官は辞表を提出し、国外追放。
王宮は、「薬品管理の不備による事故死」として記録を閉じた。
真実は、嗅覚に隠されたままだ。
だが私は思う。
人を殺すのは、刃だけじゃない。
一滴の香りもまた、命を奪うのだと。
そしてそれを見抜けるのが――医師であり、探偵である私の役目なのだから。