第16話:イズナの墓標と、名のない書簡
診療院から東へ一里、誰も寄りつかない丘がある。
名を呼ぶ者はおらず、地図にも載らない。地元の者は「忘れ山」とだけ呼んでいた。
ユウが、その場所を知ったのは十三年前。
師・イズナが失踪する直前、一度だけその丘へ連れていかれた。
そのときイズナはこう言った。
「墓を建てるなら、ここがいいな。誰にも見つからず、腐っていくにはちょうどいい」
冗談のようで、冗談ではなかった。
ユウは夜明け前に診療院を出た。
草露が袴の裾を濡らす。冷たい風が、皮膚ではなく、思考に染みてくる。
丘の上に立つと、小さな石碑が見えた。だが、墓標に刻まれた名前はない。無銘。
ただ、風雨に磨かれた石の中央に、花の模様が彫られていた。
それは――“七片の花弁を持つ白い花”
ユウの脳裏に閃く。
(……白露草)
毒草である。だが、特殊な蒸留をすれば“記憶誘発作用”が現れる。通常は幻覚毒とされるが、まれに“過去の封印された記憶”を浮かび上がらせることがあると、師のノートに書かれていた。
墓の根元に、封筒が置かれていた。
封はされていない。中には一枚の便箋と、白露草の花弁が一枚。
手紙には、たった二行。
「ユウ。お前は“名前を奪われた”のではない。“選ばなかった”のだ」
「この花を煎じ、真名の記憶と向き合え。選ぶのは、お前自身だ」
文字は、確かにイズナのものだった。
診療院に戻ったユウは、白露草の花弁を極薄に刻み、香炉にくべた。煎じて飲めば命に関わる――香として焚くのが唯一の摂取法だ。
白煙がたちのぼり、空気が鈍く揺らぐ。
意識が引きずられる。
――否、“記憶”に引きずられる。
■幻視:十三年前の夜
病の蔓延した集落。咳き込み、倒れ、死んでいく子どもたち。
ユウの“本当の名”を持つ少年も、その中にいた。
「助けてくれ、お医者様!」
イズナが現れる。異端の治療法と、毒草を使った予防薬。そして――
「この子は、記憶を封じる。名を忘れさせる」
村を守るため、疫の“根”となった血筋の名を、ユウから消した。
それが、真相だった。
ユウは目を覚ました。
全身から汗が吹き出ていた。喉が焼けるように痛む。
「俺は……“疫”の子だった」
イズナは、病の因子を持つユウの存在が再び疫病を生むことを恐れ、名を封じ、身分も過去も奪った。
だがそれは――守るためだった。
翌朝。
ユウは墓標の前に立っていた。
手に一枚の紙を持っていた。そこには、一つの名前が書かれていた。
【真名:遥斗】
それが、ユウがかつて持っていた、本当の名。
だが、ユウはそれを火にくべた。
「俺は、“ユウ”のままでいい」
名を思い出すことと、名に戻ることは違う。
イズナの言葉の真意はそこにあったのだろう。
“記憶とは、呪いにも、祈りにもなる”
選び取るのは、いつだって“今の自分”だ。
診療院に戻ったユウは、棚の薬包をひとつずつ点検しはじめた。
患者の来ぬ朝でも、やることはいくらでもある。
窓から差す光の中に、白露草の幻影がふっと揺れた。
それを、ユウは黙って見送っていた。