第9話:残された血と“沈黙する口
診療院に戻る道すがら、アメはずっと黙っていた。
その横顔に余計な言葉をかけるのは、今は違う気がして、澪も黙っていた。
黙っていても、頭の中は喧しい。
(──誰かが、あの使用人を“沈黙”させた。しかも、薬を使って)
王宮の厨房で倒れた女中・シャオラン。彼女の舌の下には、見慣れない紅い痕があった。小指の先ほどの大きさの、それでいて、毒にやられたような腫れはなかった。
(火傷……じゃない。色は濃いけれど、内出血のようでもある)
澪は心の中で、使用人の口元に見えた“痕跡”を思い出す。
それは、あくまで些細な異変だった。他の誰も気に留めていなかったが──いや、そもそも見ていない。
(そして、“彼女は何も言おうとしなかった”。それは、薬のせいか?)
辺境で奇病の患者を診てきた澪には、似た症例があった。
中毒症状ではなく、「言語中枢を一時的に麻痺させる」草が存在する。摂取すれば、思考は保たれたまま、言葉だけが出てこなくなる。
(けれど、わざわざそんな薬草を? それを使って、何を黙らせた?)
彼女はきっと「知ってはいけないこと」を見ていた。
──そして、誰かがそれに気づき、“黙らせた”。
診療院の前に着くと、アメが不意に口を開いた。
「澪、厨房の食器棚、見たとき、気づかなかった?」
唐突な問いだった。
「……“気づいた”のは、アメもだろう? だから、あのとき私をわざと遠回りさせた」
「うん。言い当ててほしかった」
アメはまっすぐこちらを見る。その瞳の奥にあるものは、答えへの渇きだった。
「食器棚の奥に、手拭きがあった。干したまま、まだ湿ってた。でも、厨房はあの時間、火を入れっぱなし。普通なら、あの位置の布は……」
「……すぐに乾いてしまうはず」
「そう。つまり、“あれは最近誰かが持ち込んだ”ってこと。しかも、そっと濡らして置いた。血を拭くために」
澪は瞠目する。
(シャオランの口元にあった痕──誰かが無理やり口を開かせ、薬を仕込んだ?)
「でも、傷もなかった。出血するような形跡は」
「……違うよ、澪。口の中じゃない」
アメは、自分の指をぐっと噛むような仕草をして、囁いた。
「“沈黙させる”だけなら、口に薬を入れる必要はない。塗るだけでいい。とくに、口唇の裏や、舌の下の薄い皮膚なら……薬はすぐに吸収される」
「……!」
まさに、水平思考の跳躍だった。
口の中に“何かを入れられた”と思い込んでいた澪の視点を、アメは逆転させた。
──薬は、飲ませる必要はなかった。
──口を開かせて、中に「塗る」。
それだけで、喋れなくさせるには十分だったのだ。
「……それで、沈黙させたうえで、何を隠した?」
澪が呟くと、アメがぽつりと言った。
「たぶん……“耳にした言葉”。厨房って、案外、秘密が通る場所なんだよ。貴族が食事の品を言いに来たり、酔った侍女たちが愚痴をこぼしたり」
──そして、シャオランはそれを聞いてしまった。
“言ってはいけないこと”を。
「けれど、問題は、それを誰がやったかだ。毒で黙らせるのも、血を拭くための手拭きも──厨房に入れる者じゃないと不可能」
「犯人は……厨房の中にいるってことだね」
アメが静かに言った。
そのとき、診療院の門が、がたんと音を立てて開いた。
現れたのは、王宮付きの女官──リェンだった。蒼い衣をたなびかせ、息を荒くしている。
「澪様、急ぎで……王妃様が、お呼びです」
澪は眉をひそめた。
「王妃様が……?」
「はい。例の件──“沈黙した使用人”のことと、もう一つ。厨房の料理の中に、“異物”が混入していたと……!」
風が、ぴしゃりと診療院ののれんを揺らした。
静かに流れ出していた“疑念”の川が、ここに来て濁流になりつつある。
(“沈黙させた”だけじゃない。今度は“口に入れた”)
誰かが──言葉と命を、封じようとしている。
そして、それは王妃の食膳へも──近づいているのかもしれない。