水没
付き合い始めて2週間。一つ年下の加奈とは3日前に舌を絡めた口づけをした。加奈は身体から力が抜けて抱きとめていなければ膝から崩れてしまうくらいにグニャグニャ。よっしゃっ、最後までいける。だが頬を染めた加奈が口で息をしながら、ここじゃ嫌、と言い、お預けとなった。くぅぅぅ………マジかよ。どうすんだよ、俺のこの状態。だが冷静になって考えてみると公園で事に及ぶというのは加奈には無理だ。そこまで開放的な女ではない、というより、もしかしたら初めてなのかもしれない。そこで今日は絶対に決めてやろうと、友人の熊谷から車を借りた。
札幌の大学に通う俺は今年で21歳になるが、札幌では車を持ってなくともそれほど不便を感じない。これが同じ北海道でも札幌以外となるとそうもいかない。車が無ければ不便を通り越し、どこにも行けない。
黒塗りのクラウン。7年落ちの中古車だが、熊谷に言わせると距離もそんなにいって無く、北海道は冬期間に融雪剤として道路に塩カルを撒くから錆がきてる中古車が多い中で、このクラウンは底も一切錆びてなくって、めっけモノだ、という。
そんなクラウンを借り、助手席に加奈を乗せ、午前中からのドライブ。
今日の加奈はミニスカートだ。彼女もソノ気に違いない。昼食を食べるために入ったレストランでストローを落とした俺が、テーブルの下から拾おうとした時、スカートの奥が見えた。純白の布が食い込んでいて俺は視線を外せなかった。こっ、これは……すげぇ……ちょっと透けてやがる。そう言えば、もう随分とセックスしてない。いつからだ? 半年近くもしてない。まるで中学生のようにオナニーばかりの俺はテーブルの下で反応した。今、こうして運転中もその時の光景が蘇り、ジーパンが痛い。もう日が暮れた。二十歳を過ぎてもオナニー三昧の生活だとは思わなかったぜ。早くホテルに行こう。先ずはヤって、晩飯はその後で食えばいい。しかし、こういう時に限ってホテルが見つからない。用が無い時にはしょっちゅう見掛けるのに、どこにいった? まさか加奈の見てる前でカーナビでホテルを検索する訳にもいかない。あまりにも露骨過ぎる。クソ~……
「ここって港だよね」
加奈がそう言った。そして、「きっと綺麗だよ、見に行こうよ」と続けた。
確かにここは港町だ。それも田舎の漁港ではなく工業団地が近くにある夜景の綺麗な港だ。下半身の遮断機が下りない俺だが行くしかない。
「うわ~~凄く綺麗………」
好みの問題だろうが、俺は未だかつて夜景に感動したことがない。田舎の夜空に見える星空なんかは、吸い込まれるような不思議な感覚を覚えーーーこれも感動とはちょっと違うのだろうが、俺は好きだ。だが人工の光の集合体のような夜景を見ても、うわ~、ってことにはならない。それに早いとこセックスがしたい。
「うん、凄く綺麗だね」
加奈がこっちを向いた。計画変更だ、今だ。今しかない。
顔を寄せると目を瞑った加奈。キスをしながら覆い被さろうとしたが、シフトが邪魔だ。突っ張ってる俺のシフトも邪魔だ。かまわず加奈の太腿に手を置くと
「………ここじゃ誰かに覗かれちゃう……」
そうきたか。
「そっ、そうだね………」
確かに時間は午後の7時だ。こんな時間からカーセックスに勤しんでる輩はチョっといないかもしれない。だけど皆無ってことはないはずだ。ダメか? どうしてもここじゃダメ? 周りを見渡すと、後ろを自転車が横切った。行こう、ホテルに行こう。さっきここまで来る道すがらホテルがあった。車でそのまま車庫に乗り入れるタイプのホテルだった。そんなものだ。探し物はムキになって探すと見つからないが、意識を他に向けていると不思議と見つかる。俺は、休憩と泊まりの料金、それと泊まりの場合は何時からと書いた看板をすかさず読んでいた。フフフ……今ならまだ休憩の時間帯で安い。だが、その気になってる俺の下半身が痛いのを通り越して麻痺してきた。向きがマズイ。これはチョッとの刺激でも危ないぞ。だが向きをここで直すのはムリだ。冷静になろう、冷静に。加奈だって、ここでは嫌だと言ったが明らかにソノ気だ。舌だって自分から絡めてきた。焦る必要などない。見ると、背もたれから身体を起こし、太ももに両手を挟んでる。おおおおお……加奈の身体も俺と同じ状態か? そうだろうよ、うんうん。クラウンを一旦バックさせ、切り返してアクセルを踏んだが、踏み過ぎてタイヤが鳴り、首が後ろに持っていかれた。咄嗟に隣を見ると、身体を起こしていた加奈が背もたれに倒れ、両膝が上がっていて、縦に食い込んだパンツが目に飛び込んで来た。
「いやん……」
チキショオオオオ、目の毒だ。我慢が限界かもしれない。いや、ダメだ。せいては事を仕損じる。それに慌てる乞食は貰いが少ないとも言う。………いや、先手必勝、善は急げ。ぬぅぅぅぅぅ………どうしてくれる? ちょっと触っちまおうかな~
「ん? ………なんだ?」
クラウンの警告灯が一斉に点いた。何が起きた? この警告灯はナニを意味してる? そしてアクセルを踏んでも反応しなくなり、クラウンはどんどん速度を落としていく。まずい。このままじゃまずい。止るにしても後続車に追突されない場所は……
運よく片側1車線の車道が広がっているエリアが目の前だ。バス亭か。この時間ならバスも来ないだろう。来たとしても故障なんだから……
バス停にクラウンの車体が全部入ったところで動かなくなった。相変わらず警告灯は全部点いたままだ。だがエンジンは切れた。車内に掛かっている曲は流れていた。
「いったんオフにしからエンジンを掛けなおせばきっと……」
そう言って助手席の加奈を見たが、俯いている。なんだろう? どうしたんだ? だが、とにかくクラウンを動かさなければ何も始まらない。
俺の親父は車を2台持っていて、1台が1990年式のランクル80ディーゼルエンジンで、俺も実家に帰れば好んでそれを借りているせいで、最近の、電子制御されていてイグニッションキーを回さずにボタンを押すタイプの車は、実は運転したことがない。だが加奈の前でそんな情けないことなど言えるはずがない、が、これってどうなってんの? そもそもクラッチが無いってのがどうにも物足りない。とにかく一旦オフにしてからボタンを押してみた。……ウンともスンとも言わない。イグニッションキーを回すタイプであれば、エンジンが掛からなくとも、キュルルルルル……って言うけど、ボタンを押すタイプも言うのか? 分からん。でもエンジンが掛からないのは間違いない。エンジンルームを見ればナニか分かるか? いや、絶対に分からんだろうな。だが俺はボンネットを開けるレバーを引っ張っていた。
「ちょっとボンネット開けて見てくるわ…………加奈ちゃん? どうした? 具合でも悪いの?」
加奈はさっきからずっと俯いたままだ。というより項垂れている。そんな加奈の肩に触れようとした時だ。ガバっと乱暴に顔を上げた。俺は伸ばしていた左腕を思わず引っ込めていた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
加奈が凄まじい叫び声を上げた。
心臓が止まるほど驚いた俺は、シートからケツが上がってドアにへばりついていた。なに? なにがどうした? 目尻が裂けるくらいに目を見開いた加奈の顔。続く言葉を探しているのが、口をぱくつかせているが言葉にならないらしい。そして黒目が落ち着かずに絶えず動いていて何処を見ているのか分からない。ちょっと待ってくれ、俺はまだ何もしてない。……え? 触ったか? どこ触った? いやまだだ。まだ触ってない。………まさか………俺の下半身を見て悲鳴を上げた?? そんなバカな………。見ると、まだ遮断機が上がっていた。向きがおかしいから妙に目立つ。俺は股間に右手を置き、隠し、さりげなさを装って微笑み、ゆっくりと「どうしたの? なにがあった?」と訊ねた。
「だっ、だっ、出してえええええええええええええ!!」
「………出して? ………ここで? ………今? ………あはは……いや~……加奈ちゃんがそう言うなら俺は……かまわないかな~」
だが加奈は必死の形相だった。暗くてよく見えないが、見開いた目には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうに見える。これは違うか? 叫んでたし………そんな大声でアレを出せなんて言う女がいるか? ここでバカみたいに変なもん出しちまったら逆に大変なことになるんじゃ……
「出すって……ナニを?」
一応、聞いてみた。
「クルマだって!! 早く!!」
俺の腕にしがみ付きながらそう叫んだ。
「へ………クルマ? そっ、そっか……でも動かないんだ。故障だと……」
それを聞いた途端、ハっとしたように俺から離れ、じっと俺を見ている。そして何かに気づいたのか急に背を向けると、助手席のドアをガチャガチャやり始めた。
「開かない………開けてええええええええ!! 鍵開けてええええええええ!!」
この手の車は走り始めると自動的に鍵が掛かる。直ぐにでも鍵を開けなければならない理由は分からないが、加奈の様子は尋常ではなく、まるでパニックだ。運転席側の鍵を開ければ全部が開くはず。すぐさま開けた。
「開けてええええええええええ!! 早く開けてええええええええええええ!!」
え? ガチャガチャやりすぎて助手席側だけロックされたんじゃ……
俺は助手席に身を乗り出し、加奈がガチャガチャやってるドアの取っ手に触ろうとしたが、鍵は開いてた。
「ちょっ……ちょっと避けて…………あれ? なんで?」
助手席側のドアが開かない。体勢を戻して運転席側のドアに手を掛けたが、こっちも開かない。そんなバカな。なんで開かない?? 取っ手を引いたままドアに身体をぶつけたが、それでも開かない。ウソだろ、どうなってる。蹴ってみたが、なにも変わらない。
「誰かあああああああああああああああ!! 助けてええええええええええええええええええ!!」
加奈が窓を叩きながら助けを求め始めた。
「ちょっと加奈ちゃん、落ち着こう。確かにドアが開かないのは変だけど、切羽詰まってる訳じゃ……」
「なに言ってんの!! 寝ぼけたこと言わないで!! ………そうだ!! 窓を開けて!!」
「え……窓? ……ああ分った…………あれ?」
警告灯が全て消え、掛かっていた曲も止まってることに気が付いた。まさか、電気系統が死んだ? ブレーキを踏んでボタンを押したが、カチ……という虚しい音がしだけだ。前照灯を点けようとしたが、反応しない。
「なに? なにやってんの! 早く窓を開けてって!」
「ダメだ、開かない」
「…………誰かあああああああああああああああ!! 助けてええええええええええええええええええ!!」
車は動かず、ドアも窓も開かない。これは確かに変だ。だけど髪の毛を振り乱して大声で助けを呼ばなければならい事態か? しかし助手席の加奈は完全にパニックに陥っていた。窓を叩き、大声で助けを呼び続けている。意味が分からん。
「加奈ちゃん、どうしたっていうの?」
「助けてえええええええええええええええ!! 誰かあああああああああああああああ!!!」
加奈の肩を掴んで強引にコッチに振り向かせた。
「加奈ちゃん!! どうしたの!! 理由を言って!!」
「はぁあああああ?? どうしたって………あんた頭おかしいの!! 水!! 足元を見れ!! それに周りも!!」
「水? ……足元って…………ええええええええええええええ?!」
くるぶしまで水に浸かっていた。
「これは…………えええええ?? どっ、どこから入ってきた?」
「誰かああああああああああああああああああああ!! 助けてえええええええええええええええええ!!」
そして窓から辺りを見ると、
「ウソだろ………」
クラウンは濁流の中にいた。
すでにタイヤ以上の高さまで水はきていて、水しぶきが窓に当たっている。これは何なんだ? ここは何処だ? ホテルに向かって車を走らせてたんだぞ。津波? いや違う。さっきまで海岸にいた。あれから10分程度しか経っていない。津波のはずがない。だったらコレは何なんだ?? 窓から見える周辺に再び視線を向けた。雨だ。それも凄まじい豪雨。そんな………いつ降り始めた? さっき夜景を見てたんだぞ。自転車だって走ってた。それが今では豪雨の中で濁流に飲み込まれている。事態を飲み込めないが、明らかに洪水だ。川が氾濫したとしか思えない。水嵩は数十㎝というレベルじゃなく、ドアが開かない高さだ。
クラウンが斜めに動いたのを感じた。叫んでいた加奈の口から「ひっ……」という声が漏れた。クラウンは2トン近くあるはず。それが流された。
「助けてくれえええええええええええええ!!! おーーーい誰かああああああああああ!!」
俺も窓を叩いて叫んでいた。
気付けば足元の水が膝まできていてシートが水の下になるのは時間の問題だ。
「加奈ちゃん!! 後部座席に行って!! 助手席の窓を蹴破るから」
俺の言ったことを理解した加奈が身体を反転させ、シートに片足を乗せたが、そこで動きを止めた。
「早く! 加奈ちゃん何やってんだ!!」
すると加奈は、後部座席に移動するどころか、ダッシュボードに背中を叩きつけるように跳び戻ってきた。そして指をさしている。後部座席に向かって。その指は、いや、腕全部が震えている。
「あ………ああ…………あ…………ああああああ……」
なに? どうした?
振り返った俺の目に映ったのは有り得ない光景で、頭が追いつかない。
後部座席に座ってるヤツがいた。
ーーーなっ、なんで? いつからいる?
意味が分からずソイツを見続けた。
そいつはグショリと全身が濡れ、頭からボタボタと水を滴らせ、顔も身体も異様に膨れ上がり、衣服は弾けたのか破れたのか、前をはだけているが男だか女だか分からない。顔面は蒼白。目の周りだけが青紫で、皮膚は酷くブヨついている。触ればズルっと剥けてしまいそうな皮膚のヤツが、カッと見開いた目でコッチを見ていた。
「………おっ、お前………誰だ?」
目に見えるものに頭が追いつかない俺は、そいつに名前を聞いた。だがソイツは答える代わりに、「ゴブゥッ…」という嫌な音と共に口から水を噴き出した。何度も。
「うわっ…………」
その吐きだされた水を避けるようにドアにへばりついた俺は、ようやっとソイツがまともな人間じゃないってことを理解した。なんなんだコイツは………
「ふふふ………ふふふ………ふふふ……」
加奈の笑い声だった。
「え……? 加奈ちゃん………なっ、なに?」
狂った? あまりの事におかしくなった? バックミラーに目をやると後部座席は空だ。恐る恐る身を乗り出して後ろを見ると、やはり誰もいない。さっきのは? 錯覚……?
またクラウンが斜めに動いた。天井をバチバチと叩く猛烈な雨の音が車内に響く。フロントに目をやると雨のために殆ど見えないが、道路があったところには黒い濁流がうねってる。
「ふふふ………ふふふ………ふふふ……」
加奈はまだ笑っている。
「加奈ちゃん、しっかり……」
「助けてって言ったのに………」
「………え?」
「お前だけ逃げた……」
「なっ………なに言ってる? とっ、とにかく窓を割って……」
「お前だけ逃げたあああああああああああああああああああ!!!」
ダメだ。言ってることが完全におかしい。相手にしていられない。車内の水は座ってるシートを飲み込み、更に上がり続けてる。
「何度も助けてって言ったはずだあああああああああああああああああああああああ!!!」
加奈が叫びながら飛び掛かってきた。
「ふざけんな!!」
俺は加奈を助手席に押し戻し、頬を引っ叩いた。
「ふふふ………ふふふ………ふふふ……」
助手席に押し戻された加奈は俯いて笑ってる。ミニスカートが水に浮き、肌に張り付いて透ける下着が何故が禍々しく見えた。加奈の笑い声だけが聞こえる。
「ヤりたかったんだろ、お前………ふふふふふ………」
そう言いながら加奈の右手が透けた下着に潜り込んだ。
「なっ………なにやってんだ!! 止めろ!」
だが突っ込まれた右手から目が離せない。動いている。頭では「こんな時に」と思っても視線を剥がすことができない。
「それなのに………それなのに………お前は逃げた………」
加奈が寄って来た。くさい。なんだこの臭い?
「ふふふ……ふふふ……ふふふ」
加奈の口臭? それは今まで嗅いだことの無い、なにかが腐り醗酵した時に放つとだろう酷い悪臭で、それは近寄ってくる加奈の吐く息の臭いだ。
そして悪臭を吐く加奈の顔がおかしい。
「………うわあああああああああああああああああああああああああ………」
目の前に迫る加奈の顔は蒼白で、目の周りが酷い黒紫に変色し、皮膚の全てがブヨついている。
ドアにへばりつき叫び声を上げた俺の首に腕を回してきた加奈。そして加奈の舌が俺の口に入ってきた。喉の奥まで舐めつくすように蠢いている。
「…………もう逃がさない」
突然、外に叩き落ちた。抱き着く加奈と一緒に。
「困るんだよな~~、バス停でそんなことされたら。クラックション鳴らしても動かないんだもんな~。聞こえんかった? よく見たらこの奥さんがニヤニヤしながら呼んでて、降りてったらコレだもんね~……窓叩いたって止めないし、あんたら露出狂ってヤツ? そっちのお姉ちゃんも凄いね~丸出しだもんな。こっちもさ~お客乗せてんだよね。迷惑だって解る年だよね? 見せたいなら公園にでも行ってヤんなよ」
見上げると、制服、制帽に身を包んだバスの運転手が立っていた。その隣には1人のオバサンがニヤケた顔でこっちを見ている。周りを見渡すと何処にでもある直線道路。雨が降った跡すらない乾燥路面だ。横を見ると道路に腰を落とし呆然としている加奈がいるが、スカートが捲れ上がり、パンツは片脚のくるぶしあたりに纏わりついて、股を開いて奥まで晒している。凄く毛深い。
俺と加奈は無言でクラウンに乗り込んだ。エンジンは普通に掛かった。
なにも喋らない加奈。俺も同じだった。そしてホテルには行かず、晩飯も食わずに帰路についた。ムリだ。加奈とのセックスは無理だ。もう出来ない。そして加奈とはそれっきりとなった。
災害多発期と言われる通り、毎年どこかで洪水の被害が報道される。その水害によって冠水してしまった水没車。廃車になるものもあるようだが、多くが中古車市場に出回っているのが現実だ。これはお買い得だと購入した中古車。その車、もしかしたら水没車かもしれない。それも人間を巻き込み、共に沈んだ車も当然……ある。