クリームシチュー
寒い。
寒い。
寒い。
急に冷え込むようになった冷気に、サラリーマンは身を縮こまらせた。内臓もできるだけ身を寄せ合って小さくなるようで、沁み沁みと痛む。どうしてこんなに急に寒くなるのか。少しずつ少しずつカウントをするように優しさを持って寒くなっていただきたい。そう言っても仕方ない文句は白い息となって、夜空に溶けた。代わりに吸い込んだ空気は氷の刃となって喉口鼻の粘膜に突き刺さる。
「ぅひぃぃぃぃぃ」
佐々木人吉、二十七歳。名前にちなみ、そして本人の性分にちなみ、社内で〈お人好しのヒトヨシさん〉と呼ばれていることを本人は知っている。褒められているというよりは嘲りや呆れが含まれているように思う。そして頼られるというよりは、押し付けられる側だというふうに人吉は理解していた。本日も、システムをうっかりダウンさせた後輩のフォローに全力で取り組んだ結果、昼食を食べ損ねたし残業中口にしたものは記憶にない。皆、うまいこと休憩をとったりしているけども人吉はできない。休憩をしたら頭の中のものが全部流れて行ってしまいそうで出来ないのだ。
ああそうだ、寒いだけでなく、空腹なのだとそこで初めて彼は気が付いた。アパートの軋む階段を上りかじかむ手で部屋の鍵を探していたそのとき、扉が開いて鼻をしたたかに打った。
「あ、ごめん」
意図的でないとはいえ、鼻を攻撃した張本人は、さして悪びれた様子はない。だけど赤く腫れた鼻に届くのはよく暖められた部屋の空気と、それからおいしい匂い。
「ありがとうございます!」
思わずまろびでた礼の真意は同居人には伝わらず、マゾヒズム的な意味ととられ相手の目が虫けらを見るそれに変わってしまったのだった。
さて、お風呂にするか食事にするかというのはいろんな物語やアニメで耳にしたことはある。それとも私かという選択肢は、同居して三年、出たことはない。熊本大吾郎というなんとも強そうな名前の彼は実際強そうな体躯だ。だけど仕事はガラス小物をつくる店主兼技術者なのだから、人は見た目ではないし名前でもない。
「寒かったな。風呂入っておいで」
「ありがと…」
誤解は溶け、大吾郎に引っ張り起されて人吉は玄関で靴を脱いだ。外よりは温かいが、冷え切った身体はまだ震えている。くたびれたスーツをハンガーに、スウェットと発掘した腹巻をもつ。通りすがりに大吾郎の背後から鍋をのぞき込むと、鼻に届いた匂いの通り、とろりとした黄色がくつくつと音を立てていた。
「早くいってこい」
「はあい」
シチュー、シチュー、とろーりシチュー。寒くなれば自然と、なんとかおばさんのとろけるシチューのCMが脳内を流れる。この小さなアパートの部屋では、くまさんのとろけるシチューだ。
「うはぁ…はぁああ」
もう口の中にあの熱いクリームが蘇って、人吉は浮き浮きと浮かれた。今日の具はなんだろう。コーンは入っているだろうか。人吉はあのコーンクリームシチューの中にコーンがたっぷり入っているのが好きだ。さらに肉はウインナーだったりすると、なお良い。大吾郎はウインナーを包丁を使わず、あの太い指で真っ二つにしていれるのだけど、その凸凹の断面がおいしくて人吉は大好きだ。
「さぶ、さぶ、さぶぶぶぶ」
泡立てて洗って、流して、浸かる。
「うはぁ…」
嗚呼、沁み沁みとお湯の熱が、縮こまっていたかった胃袋を緩めていく。もうこのままずっと浸かっていたいけれど、だけどくまさんのシチューが人吉を待っているわけで。
「…よし」
ようく温もった身体は、湯舟を出てもなんとか温さを保ち、湯気をたてた男は湯気を立てる食事に歓声をあげた。
「ほら、飯をつげ」
「はあい!」
白い飯を山盛りに盛って、大きな丼によそわれたシチューの隣に。その黄色いクリームから見えるウインナーに、人吉は堪えきれない笑いを漏らす。
「好きだなあ」
「えはは、好き」
今日は白菜と玉ねぎじゃが芋人参といろいろキノコ、そしてウインナー。コーンもたっぷりだ。せわしなく息を吹きかけて一口食べれば、思っていた通りの熱が口の中を焼いた。だけど、これがおいしい。あまくて、ほくほくで、熱痛くて、おいしい。喉から胃へ落ちていく熱さが、たまらない。胃袋が喜んで、はねている気がする。
「ふ、ふうううう、はは」
スプーンを握ったまま熱に耐えて、人吉は悶えた。
「は、うまあ…」
「うん、うまいな」
一杯食べ終わると茶碗の飯をどんぶりにあけて、二杯目はシチューライス。
「うはぁ」
嬉しそうに声をあげる人吉を、大吾郎は横目に見た。スキップをしそうな勢いで、若干足を跳ねさせながら食卓に戻ってくる。人吉は美味しいときによく笑う。笑い声のようなものをあげながら食べる。本人は無意識だ。ぐっちゃぐちゃにかき混ぜて大口開けて食い、笑っている。
「人吉」
「んふ、んー?」
「明日はなに食う?」
頬いっぱいに詰めていたのを飲み込んで、人吉はまたたっぷりとスプーンにシチューライスをすくう。
「まかせる!」
大吾郎の作るものなら、なんだって間違いない。たとえ味噌汁と飯だけだったとして、総菜のみの日があったとして、人吉は不満なんて言わない。ただ、総菜だけの日は笑いが少ないのが面白いと大吾郎は思う。
「わかった」
頷いて、大吾郎もシチューライスをするために立ち上がった。明日も、なんにせよ暖かい品があるのが良いだろう。人吉がテレビをつけると、明日の気温は4度だとキャスターが言うのと小さな悲鳴が聴こえた。