グローブ
8月上旬、小学生の僕は夏休みの宿題をあらかた終え、
冷蔵庫からサイダーを取り出してコップに注いだ。
突き抜ける炭酸の刺激を堪能していると、
汗だくになった父が喉を潤しにやってきた。
「ユウジ、俺にも一杯もらえるか?」
この暑い中、父は物置の整理をしていた。
何年もそのままにしてあったのを、
夏休みの間に片付けてしまいたいらしい。
父の夏休みは一週間しかなく、大人は大変だなと思った。
あまり動きたくはなかったが、それはきっと父も同じだ。
僕にはこれからテレビゲームをする予定しかなく、
たまには親孝行しようという気まぐれで手伝うことにした。
作業に取り掛かってから1時間ほどだろうか、
僕は箱の中からほぼ新品の野球ボールとグローブを発見した。
「おっ、懐かしいのが出てきたな〜
まだ使えそうならユウジの学校に寄付してみるか
それともオークションにでも出品するかな、ははは」
父はその道具に思い入れが無いようだった。
僕は野球について何も知らないが、
この未使用に近い状態の物をそのままにしておくのは
もったいないと思い、寄付するという案に同意した。
「それならちゃんと使える状態かどうか、
少しキャッチボールして確認してみるか?
寄付される側も、ダメな物を渡されても困るだろうし」
僕はその提案に乗り、休憩がてら公園でキャッチボールする運びとなった。
僕の投げたボールを父が受け取り、父が投げ返す。
父の投げたボールを僕が受け取り、僕が投げ返す。
その作業を何度か繰り返し、僕は思った。
全く面白くない。
昔の映画とかで“親子でキャッチボールするシーン”を観たことはあるが、
実際にやってみるとこれが何も楽しくない。
なぜこれが親子の絆を確かめ合う定番のシチュエーションになっているのか
当時の僕には理解できなかったし、今でもわからない。
「ユウジ、楽しいか?」
そこで父からの困る質問だ。
ああそうか、子供にはわからなくても父親は楽しいのかもしれない。
そう思って僕は「楽しい」と嘘をついた。
「べつに無理しなくてもいいんだぞ?
怒ったりしないから本当のことを言ってもいいぞ?」
僕の嘘を父は見透かしていた。
よくよく考えれば父も野球について何も知らなかった。
もし野球好きならこのグローブを新品のまま放置しなかっただろうし、
息子に野球をするように勧めてきたはずだ。
「いやあ、実は俺が小学生だった時、
親父から『男なら野球をやれ』って押し付けられて、
この道具はその時に親父が勝手に買い揃えた物なんだ
結局俺にはやる気も才能も無くってさ、
怒った親父は『嫌なら辞めろ』って怒鳴って、それっきりだよ」
僕は祖父に会ったことがない。
その理由がなんとなくわかった。
「まあ道具に問題は無さそうだし、そろそろ帰ろっか
今日手伝ってくれたお礼にアイスでも買っていこうな」
僕は大きく頷いた。
キャッチボールそのものはつまらなかったが、
父との絆は深まった気がした。
そういう意味では無駄な時間ではなかったと思う。
そして、家路に就こうとした僕らを引き留める者が現れた。
「私はキャッチボールおじさん
この公園に30年以上住み着き、
キャッチボールする親子を眺めることを生き甲斐にしている男だ」
不審者だ。
「少年……そんなピッチングではプロを目指せないぞ
手首のスナップを利かせるんだ……こう、な?」
しなやかな手つきでレクチャーしてくる不審者に対し、
父は毅然とした態度で反論した。
「そこをどいてください
私の息子はプロとか目指してませんので、
放っておいてくれませんかね?」
「いや、放っておくわけには参りませんな
日本男児たるもの、野球をやらせるべきでしょう
それこそが父親としての義務というものです」
頭のおかしい不審者だ。
「最近の若者が軟弱なのは野球をやってないからでしょう
我々の世代の男は皆、野球をやっていたから立派な人間ばかりなのだ
野球をすることにより根性が身に付き、強い男になるのだ
この軟弱な時代にこそ野球が必要だとは思わんかね?」
「全然思いませんね
とにかくそこをどいてください
いい加減にしないと警察を呼びますよ?」
不審者に対して一歩も退かない父が格好良く見えた。
そんな父に逆上したのか、不審者は突然殴りかかってきた。
父はその大振りのパンチをしゃがんで回避し、右拳を振り上げた。
不審者は素早く顔面をガードした。
こんなバレバレのフェイントに引っ掛かるなんて、と僕は思った。
ガラ空きのボディーに父の左拳が突き刺さる。
体をくの字に曲げた不審者に更なる追撃、ショートアッパーだ。
アゴを持ち上げられた不審者に打ち下ろしの右でフィニッシュ。
その鮮やかな流れに僕は興奮した。
父に格闘技の経験があるのか尋ねてみたが、
どうやら人を殴るのはこれが初めてだったらしい。
あったのは才能だ。
それに今気付いたのだ。
あれから10年、僕はリングの上に立っている。
ボクシング日本ミドル級タイトルマッチ、3度目の防衛戦だ。
満員の観客席の最前列には父の姿があった。
僕は父にグローブを向け、今夜の勝利を誓った。