最終話
さあ出立だと、私は玄関ホールに出たのだが、そこには私と同じように旅支度をした大きな影が私を待っていた。
私は溜息を吐くしかない。
どうしてアシュベリー男爵が私を修道院に送り届ける係となってここにいるのか。
私は顎を上げて彼を睨むと、いい加減にしてくださいと言った。
いつもの私には出来ない、とても強い口調で。
「いい加減に、とは?」
私の懇願を侮辱としか取らなかったのか、いつも無表情の彼は頬を珍しく赤く染めて、黒曜石のような真っ黒い瞳を煌かせながら私を睨み返した。
「言葉通りですわ。あなたのお手を煩わせる必要などございません。それに、確認なさらなくとも私はちゃんと修道院に入ります。あなたの前に二度と現れないと約束いたしますわ。」
「二度と私の前に君が現れない?流石貴婦人様、言い方が違う。こういう時は二度と私の前に姿を見せるなと君が私に言うものだ。ああそうだ。私の姿を見たくないぐらいに君が私を嫌っているならば、どうして最初にそう言わなかった。私こそ君がそんなにも私を嫌っていると知ったそこで、さっさと諦めて君を自由にさせていただろう。」
私はヒューの当てこすりに頭に血がかっと昇っていた。
私のせいですか?
全部私が悪いというの?
私は自分が被ってた帽子を剥ぎ取ると、それをヒューの胸に投げつけていた。
他に投げつけるものが無いもの。
彼はその帽子を撥ね退けるどころか両手で受け止め、いつもの紳士的な振る舞い、そっと帽子の形を整えてから、私が彼に投げつけた私の帽子を私に差し出して来たのである。
「バカになさらないで!」
私は彼の手から自分の帽子を叩き落とした。
「私は君を馬鹿になど。」
「では言い換えますわ。全部私のせいにするのはおよしになって。私を迷惑だとおっしゃったのはあなたです。それなのに、私の評判だけをお考えになって婚約などと、社交界の世間体に縛られたのはあなたです。」
「私は迷惑などと君には言っていない。」
「おっしゃったじゃないですか!」
「あれは違う。あれは君にじゃない。」
「じゃあ、誰だというのです。あそこには私しかいませんでした。間違えようもなく私でございました。」
「だから、君にじゃない。いいや。君を傷つけて悪かった。」
男爵は威厳どころかしゅんとした姿を私に見せており、私は彼に謝罪させたいわけではないと、どんどん自分が情けなくなるばかりだった。
幸せになって欲しいと思いながら、私は彼を責めるばかりで、彼は悪くも無いのに私に謝るばかり。
なんて惨めで悲しいの。
「もういいです。私は理解しておりました。だから、ああ、だから、私など気になさらずに、あなたは心を決めた方に一途になさってください!」
「だから一途にしていた。心を決めたから君を求めた!わからずやは君だろう!」
私の叫びに間髪を容れずにヒューが怒鳴り返してきた。
私はここまで激情的になった彼に脅えるどころか、彼が何を言い出したのかと彼をまじまじと見つめ返すしかなかった。
心を決めた、から、私?
一途にしていた?
ヒューは大きく息を吐くと、私が叩き落とした私の帽子を拾い上げた。
それから帽子の形を整えて、何事も無かったように私に差し出した。
ヒューの表情はいつもの無表情に戻っていて、ほんの数十秒前の怒鳴った事など無かったかのようにして、私にシッカリと向き直った。
そして、彼は静かで低い声を出し、私へ最後通牒を突きつけた。
「私は直ぐに辞去しよう。そして二度と君の前に現われないと誓おう。だから君が修道院などに行く必要などない。私による君への醜聞など、私の財力、それから君の姉の実家であるフローディア侯爵家で払拭できるだろう。」
私はぼんやりとヒューを見つめた。
彼がぼんやりと見えるのは、私の瞳に涙が溜まってるからだろうか。
彼は本当に紳士だ。
私の為に全て自分が罪を被り、自分こそが社交界を退くと言っているのだ。
だけど彼は考えないのか。
彼の恋する社交界の華が社交界から消えて、その代りに壁の華にさえなれない私が社交界に残ったとしたら、って。
いいえ、それこそここまで彼と彼女の行く末を邪魔した私への罰なのかしら。
「アビー?」
「あなたが社交界を諦めるだなんて。それこそあなたの奥様になられる方を不幸にする行為です。私は何度も申しておりますが、あなたとアビゲイルの幸せを邪魔する気などありません。」
私は彼の手から帽子を受け取ろうと手を伸ばした。
しかし、私の手から帽子は遠ざけられた。
何の遊びだろうと視線をあげると、ヒューが初めて見る表情を作っていた。
彼という人となりからは絶対に想像できない、呆気にとられてしまったという、私の兄がよくやる間抜けな表情である。
「どうかなさって?」
「私と、アビゲイル?」
「存じております。あなたはあの方を手に入れるために財を成し、爵位まで手に入れられたという恋物語は有名です。色んな方から聞かされました。私の兄への義理で私のデビューに関わったばかりに、あなたが恋を捨てて私のようなものに雁字搦めになられたと有名ですわ。私こそ邪魔者だったとわかっております。」
「いったい何の話を。」
「あの日だってアビゲイルと私を間違われたのでしょう。あの日の彼女と私は同じドレスだったのだもの!それで追ったのに私だったから迷惑だと!」
「え、いや。そうだが、いや違う。君は何を言って。」
「もう誤魔化さないでください。私はもういいんです。もう放っておいてください。私は恋している方にこそ幸せになって欲しいです。あなたはもうご自分の幸せだけを求めてください!」
とうとう言ってしまったと、私は両手で顔を覆った。
私が辛いのは彼を愛しているからだ。
愛しているからこそ、私は彼からの愛が無い事が辛いのだ。
私のせいで彼が不幸な人生となるのが辛いのだ。
ぐしゃ。
何かが壊れた音がして、私は音がした方へと視線を動かしていた。
指の間から見えた風景は、ヒューの両手が私の帽子を捩じり上げ、私の帽子をこれでもかという風に捩じり潰しているところである。
そんなにも私が憎くなってしまわれた?
しかし、私の帽子を潰している彼は、憎しみや怒りどころか、見るからに心あらずという顔付きでしかない。
彼はさらに帽子を痛めつけながら、神様を探すように天井を見上げた。
彼の動きはそこで止まった。
「男爵さま?」
私は動きを止めた彼に、恐る恐ると呼びかけた。
一体どうしたというのだろう。
「……子供が逃がした犬への命乞いなど、あのコールドウェルにできるかな?私はあの日にあの犬を庇ったあの少女に恋をしているというのに。いいや。アラステアに妹だと紹介を受けたその日に恋に落ちてしまっていた。」
「え?」
今度は私こそ時間が止まってしまった。
私がまじまじとヒューを見返すと、天井を見上げていた彼は、ゆっくりと顔を私へと向けてきた。
初めて彼に出会った時のように、私の心臓は大きく跳ね上がった。
いいえ、あの日よりもだわ。
彼は私の足から力が抜けてしまうぐらいの、物凄い笑顔を見せているのだ。
初めて見た、彼の満面の笑顔。
輝けるばかりの彼の微笑み。
「男爵様?」
「ヒューと。」
「だん、しゃく、さま?」
彼は私の帽子から右手だけ外すと、その右手を私へと差し出した。
「お願いだ。ヒューと呼んでくれ。恋した人にようやく想いが通じたんだ。婚約者として私をヒューと呼び掛けてくれないか?」
私はヒューの手を取れなかった。
私がヒューの胸へと彼の腕の中に飛び込んでしまった、から。
お読みいただきありがとうございました。
この最終話がまずありきで作り上げた物語となります。
よってここだけ文字数がとっても多いです。
アビーが大好き過ぎて失敗してはいけないと自分を戒めていた男爵様と、その男爵様の無表情のせいで誤解しっぱなしの乙女の恋愛話でしたが、楽しんで頂けたら幸いでございます。
ちなみに、アビーに嘘話を吹き込んだり虐めていた一派は、アビゲイルの取り巻きや親族となります。
金のある男性を捕まえようと、本人筆頭にコールドウェル伯爵親族は一丸となって頑張っていました。
また、アビーは自分を卑下していますが、外見も中身も可愛らしい大金持ちの子爵令嬢、ということで、自分の息子の嫁にしたい、と望まれている存在だったのです。
それなのに誰も彼女にダンスを誘わないのは、彼女の横に必ずいる背が高くておっかない男が睨みを効かせているからでした。
よって、アビゲイルの嘘を否定するどころか盛り上げて追従し、男爵とアビーのハッピーエンドを邪魔しようと周囲が動いてもおりました。
さて、本文ではアビー視点のため凡庸な青年であるお兄ちゃんですが、行動学の観点から彼は人を観察しているので、怖い女性であるベアトリスがぞっこんになるぐらいにそれなりな人物でもあります。
お兄さんが財を成せたのは、男爵様のお陰だけでは無いのです。
ただし、女性の事はわかんない、そんなやっぱり社交界デビューの役には全く立たないお兄ちゃんです。