第六話
「怪我はありませんか?アビー?」
心配した言葉をかけてくれたが、男爵は無表情でも威圧感は物凄かった。
目だけで、なんてことをしているのだ、と物語っていたのである。
怒っている!
男爵様はかなりお怒りなさっている!
私ったら感情のまま行動をして、兄やベアトリスにも、このパーティの主催者のブリジットにこそ恥をかかせてしまったのだわ。
私は一瞬で自分が恥ずかしくなって、助けて下さった御礼を男爵に伝えるどころか言葉こそ忘れた様になってしまっていた。
「わん!」
私に抱きしめられている犬は、私よりも豪胆だったようだ。
脅えているどころか楽しい事件だったという風に鳴いて私の代りに男爵に返事をすると、私へと首を伸ばしてペロンと私の鼻を舐めたのである。
お陰で私の金縛りは溶けた。
「うふふ。アビーは大丈夫だったそうですわ。」
まあ!
威圧感が消えた?
でも彼の手の力もゆるっと消えた。
私は彼の腕の中でずるっと下がった。
「きゃあ。」
「わあ!申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「わん!わん!」
私は再びの仔犬の返事に吹き出していた。
でも、瞬きをして気が付いたら、私の顔の真ん前に男爵様の素晴らしい顔が迫っていたのだ。
私が顔をクシャっとしたから、怪我でもしたかと思われて覗き込んだの?
私はまじまじと男爵の瞳を見つめ返してしまい、男爵こそ私の瞳を覗き込んだまま動きを止めてしまった。
「わん!」
「わあ!アビー!大丈夫だった?アビー!」
仔犬は飼い主の声にはしゃぎだして暴れ出し、だけど優しい仔犬でしかないこの子は、私から解放されるために私の顔をぐいぐいと舐めだした。
「まあ!きゃあ。すぐに放してあげるからおよしになって。」
「キスを横取りされたな。いや、私の腕から逃げたい君こそ私にキスをするべきなのかな?」
私は朗らかな声での冗談が男爵様からのものだと知り、びっくりしたまま彼を再び見返してしまった。
それもまじまじと。
それがいけなかった。
男爵はいつものような無表情に戻ると、咳ばらいを一度して、それからいつものような紳士的な言葉を私に掛けてきたのである。
「さ、さあ、腕を解きますよ。立てますか?」
「は、はい!大丈夫ですわ。あ、あの、感謝いたします。」
「私こそ今日の日に感謝かもしれない。」
え、また彼が出した声は朗らかな素敵な声だった。
胸が高鳴ってしまうような、兄がベアトリスとふざけている時に出しているような、そんなとっても素敵で気安さのある声だわ。
ああ、またまじまじと男爵を見つめてしまった。
男爵は私の視線が鬱陶しいのか、唇をきゅっと結んで私から顔を背けた。
それから彼は姿勢を正すと、笑顔のままソーンに近づいていったのである。
私の視界の中では、男爵様は完全に後ろ姿になった。
こうして眺めると、彼が背が高くてしっかりした体格の人だという事が良くわかる。
兄に慣れている私には彼の体が大きすぎるようにも見えたが、彼の広い背中に触れてみたいと思っている自分もいた。
私が見守る中、男爵は自分よりも確実に背が低く貧弱だが肥満体であるソーンに対し、ぐいっと体を傾けた。
男爵はソーンの耳に囁きたい何かがあったようである。
一言か、二言か。
それはソーンに対してとても恐ろしい言葉であったのだろうか。
ソーンの顔は見る見る間に青白く変わり、ソーンの体がさらに小さく縮こまったように私には見えたのだ。
「す、すまなかった。グロッサム子爵令嬢には謝罪しよう。」
「ええ、そうしてください。私の前でアビーの死を望む人間は、私の不興を買うのだと以後はお忘れなきよう。」
後ろ姿だけの男爵と脅え切っているソーンという情景を眺めているうちに、私は初めて男爵がとっても怖い人なんだと知った。
兄が彼を怖い奴だと自慢しているその通りなのね。
それでも、その時の私は彼の後姿にこそ安心感を抱いていたと思い出す。
まるで騎士に助けられた村娘のような気持ちだった。
そう、彼は騎士なのよ。
誰にでも公正で、弱き者に対しての責任感や庇護欲の強い方、なのだ。
そんな彼なのだから、私が破滅すると考えれば自分の妻の座を私に差し出すというような自己犠牲的な行動を取ったのだろう。
男爵が騎士みたいだというイメージで、私が修道女の姿で戦場に向かう騎士に対して祈りを捧げる、というイメージが湧いた。
湧いたまま、私の口は勝手に呟いていた。
「私、修道院に入りたい。」
ぐふ。
私の向かいに座っていたベアトリスが咽せた。
そして、私の馬鹿な物言いを叱ろうと大きく口を開け、けれどそこで彼女は動きを止めて、数秒ほど固まってしまった。
急に何かに気が付いたような思案顔だった。
「お姉さま?」
「何でも無いわ。いいえ、何でもある。あなたの気持ちはわかりました。」
ベアトリスは優雅さを取り戻すと、両手を軽く叩いて召使いを呼んだ。
召使いはそれはもう妖精のようにしてベアトリスの脇に現われ、ベアトリスはそんな妖精に対して女神のような威厳を持って耳打ちをした。
「奥様?」
「いいから。頼みましたよ?」
「か、かしこまりました。」
召使いは信じられないという目線を私にこそ一瞬だけ向けた後、再びベアトリスに大きくお辞儀をした後に走るようにして部屋の外へと出て行った。
「何を頼まれましたの?」
「善は急げ。明日にはあなたが修道院へ出立できるように手配しただけよ。」
私は口から出ただけの呟きだったと言えなくなった。
でも、それでもいいかなと思った。
男爵に婚約破棄を伝えたあと、私は男爵とアビゲイルの婚約の報を聞く事になるはずなのだ。
社交界の誰もが望んでいるハッピーエンドの報だ。
だけど、彼を愛している私は、彼らにお祝いなど出来やしない。
だったら、私が修道院に逃げ込んで修道女になる事こそ、私の心の平安となるかもしれないでしょう。