夜に嗤う
「酔狂で変えられてしまったのは、お話だけじゃないけどねー」
暗闇の中で、少女が小さな声で歌うように呟く。
頭から被っているシーツは、微かなピア自身の血と上役が持ち込んだ動物の血そしてすでに乾き始めている生臭い白濁液で汚れていた。白濁液に関してはアズノルの暗部が作成した偽物であったが、臭いや乾いた時の固まり方などは本物そっくりに作られているという。本物の貴族令嬢であれば、頭から被るどころか手に触れる事すら忌避するような物だ。
「本物のフィリアはとっくに処分されてしまったというし、アルフェルト王太子殿下の、元の婚約者も……いいえ、あの人は予言書でも自分で死んだようなものだったから誤差の範囲というものね。物語の修正力というものだったかしら」
予言書の通りならば、フィリアを殺そうと毒を仕込んだ刃物で襲い掛かた元婚約者は、フィリアを庇った王太子と揉み合った時に自分でその刃を受けて死んでしまう筈だった。その毒は、刃を受けた場所から腐り落ちていく様を自分で見つめながら死に至る猛毒で。美しい顔にその刃を受けた令嬢は自分の顔が腐っていく様を見続けながら苦い死ぬのだ。なんという酷い死に方だろう。
なのに実際には、王太子からやってもいない虐めを追及されると、よりによって婚約者の令嬢を蛇蝎の如く嫌っている王太子への愛を口にしながら、令嬢はその場で窓から飛び降りてしまった。
自死。ただし令嬢らしくコルセットや何重にも重ねられたパニエなどがクッションとなったのか即死にはならず、三日三晩全身至る所の骨が折れた痛みと発熱に苦しみ抜いた挙句の死を迎えたのだという。
「でもまぁ、状況が予言書と違い過ぎるんだから当然なんだけど。王太子を奪うのはフィリアじゃなくて、ピアという名前の工作員だし。プラチナブロンドでも若草色の瞳もしてないしね? だって、仕方がないの。王太子と婚約者の令嬢が生まれて来てから検証し直して、そこから丁度良い年回りの令嬢のいる乗っ取れそうなゲイル王国の末端貴族家を探したでしょう? フィリアという名前の令嬢をいきなり登場させるのは難しかったのよ。それに、赤い髪に浅黒い肌のアズノルでは、同じ年頃で肌の白い孤児を見つけるだけでも大変だったそうなのよ。まぁ、私とカロラインなんだけど」
だから、本当はピア・ポラスという子爵令嬢は他にいたのだ。
アズノルに子爵家が乗っ取られた時、まだ幼かったその令嬢や本物のポラス子爵が今どこでどうしているのかなど、此処にいるピアは知らない。この計画の遂行に何ら必要のない情報だから知らされていない。これから先も知ることはないだろう。
ピアもカロラインも自分の本当の年齢は知らない。
暗部の工作員となるべく修練を共にしていた同年代の少女たちに偽ヒロインに必要な訓練を施していき、より庇護欲が湧きそうな見た目に育った自分がピアになり、ピア役に選ばれなかった方が縁戚の富豪の娘カロライン役を申し付けられた。それだけだ。
国の暗部で工作員となること自体も恐ろしかったけれど、敵国の血を引く子供として親に捨てられたピアとカロラインは、憎悪をぶつけられる対象として最下層の加虐対象とされ過酷なまでの労働を課せられていた。
だから、人間が食べる物をきちんとしたマナーで食べる権利ときちんとした教育と綺麗な衣服、そして暖かくて安全な寝床が得られるならば、甘んじてそれを受け入れることもできた。
そして、ピアという名前を貰って、ピアとなった少女がこれから行う事について説明を受けた時には、興奮で全身が震え出すほどの歓喜を覚えたものだ。
「……ダメダメ。信じていた相手から力尽くで手籠めにされた貴族の令嬢が、こんなにウットリとして興奮していては『喜んでいるのね』って、なぁなぁにされちゃうわ。もっとこう、悲しい事を思い出さないと」
シーツを振り払うように首を横に振って興奮で生まれた熱を放つ。
すぐ横で裸で大の字になって眠っている王太子の間抜けな姿が視界に入ると、それだけで、先ほどの爪先から頭の天辺までを一気に駆け抜けていった興奮が冷めた。
あっけなく薬で眠らされている間に、とんでもない事件の犯人に仕立て上げられてしまう迂闊な王太子。
こんな男の、作り物でしかない笑顔をあの元婚約者は心の底から欲したのだ。
みっともないほど苦しんで足掻いて、それでも手に入れることができずに、ついには当てつけで死んでしまった。
「惨めで、みっともなくて。哀れで可哀想な元婚約者のご令嬢。この国で最も力のある侯爵家に生まれ、その美貌と明晰な頭脳は知らぬものはいない。未来の国母として期待された、完璧なご令嬢。……それを、作り物の笑顔で釣りあげて、散々利用して。けれど彼女が欲しがっている物は何ひとつ許さない、渡さない。……本当に酷い国と男よね。でも安心して? こんな国、私が破壊しつくしてあげる」
その言葉はどこまでも冷たく人としての温かさなど全く感じさせないが、それを口にした少女は、うっとりと夢見るような笑みを浮かべていた。
死んでしまった元婚約者の侯爵令嬢に対して、追悼の言葉を述べる人は多かった。生前は散々陰口を叩いていたのと同じ口で、今は新しく婚約者となったピリアを貶める為に、元の婚約者を持ち上げるのだ。
ピアという名前を与えられ、アズノル国の工作員として送り込まれ、計画通りにリタ・ゾールの地位を押しやり空白とさせた王太子の婚約者の座についたゾール侯爵家の養女としてピリアという新たな名前を与えられたこの少女だけが、彼女だけが本当の意味で、この無様な様を晒して寝ている王太子の元婚約者であるリタ・ゾール侯爵令嬢の無念を理解している。
「多分、あの人も兄王子達に寄ってたかって殺されちゃった王子サマと同じ異世界の記憶を持っていたに違いないのよねぇ。だから、色々仕込んでたみたいだけど……ふふっ。残念だったわねぇ」
元婚約者の令嬢は、自分が死んでしまった時に備えて、自分の無実を晴らす証拠やピアという少女がアズノルの工作員であるという証拠が、愛しい王太子の下へ届くように画策していた。
ゲイル王国で最も賢く、美しいと謳われた令嬢。残忍で残虐で、何人もの使用人たちに躾と称して多大なる加虐を加えては笑っていた。自分に相応しいと信じていた王太子から蛇蝎のごとく嫌われていた美貌の婚約者。
予言書には確かにそう記述されているというのに。
ある日突然、そういった行動をしなくなってしまった。
それ以来、慎重に他人との距離を測ろうと努力していたようだが、何故か上手くいかないどころか、日を追うごとに評判は悪くなるばかり。きっと大いに嘆き苦しんだことだろう。
アズノルの工作員による情報操作が主な原因な訳だが。
唯一人、死んでしまった王子の残した予言書とは違う行動を取っていた元婚約者の令嬢。
いつしか色々なことを諦めていくのが横にいて手に取るように分かった。
予言書にある通りに美しく頭脳明晰で、けれどもちっとも残忍ではなくなってしまった侯爵令嬢。
ただ少しだけ融通が利かなくて率直すぎる処はあった。冷酷とまではいかなくとも人の心の機微を読むのが苦手なようで、その性質により『傷つけられた』と訴える令嬢令息は多かった。
会話による搦め手という、貴族令嬢ならば誰もが上手に扱うことを覚える戦略が苦手で、いつも裏を考えることを善しとしてきた他の令嬢たちから煙たがられていた。
勉強はできたけれど賢くはなかったということだろう。
だから、信頼してその証拠を預けた相手が、よりによってピアを送り込んだ敵対国アズノルの工作員の一人だという事は見通せなかったようだ。
予言書を知っているのではないかという事は、アズノルの中で可能性が話し合われていたのだ。
幼い頃こそ、予言の書にあるような残忍な性格であった令嬢が、ある日を境に突然大人しくなった。
どこまでも理性的であり、長じてからは外交に携わる事も多いという調査報告を受けて、アズノルの息が掛かった第三国に拠点を置く商会を通じて接触を図ることにした。そこから少しずつ情報を蓄え、令嬢との交流を持たせて信を得る。
そうして。ついに彼女から「秘密の頼み事」を受けたと報告された時、このシナリオを書いたアズノル国第八王子パスス殿下は、一体どんな風に受け止めたのだろうか。
――そう考える傍から、誰より鮮やかな赤い髪を振り乱して笑い転げる姿が、ピアの脳裏へ簡単に浮かぶ。
「きっと、息継ぎもままならない勢いで、笑い転げたんだろうなぁ。……そのまま窒息して死んでしまえば良かったのに」
悪い冗談交じりに本音が口をついて出る。
そんなことになったら、ピアの悲願でもあるこのゲイル王国崩壊のシナリオを最後まで上演してくれる舞台監督がいなくなってしまうというのに。
他の王子が幾らでも後を引き継ぎたくて手ぐすねを引いて待っていることは知っているが、現在進行中のこのシナリオを、パスス以上に悲劇的な喜劇として演出してくれる人など誰もいないだろう。
「草葉の陰から歯噛みしていらして? 私は神頼みになどしないわ。自分で上手に演り遂げてみせる」
リタ・ゾールの死を悼み、生前に遺していった最後の抵抗が無に帰したことを嘲り、無念を悲しみ憐憫の花を手向けながらも、同じ心の中で深く蔑む。
人の心は複雑怪奇だという。
本当にそうだと、ピアは自分の胸の内を嗤った。