【閑話】カロライン・ハースまたはカロライン・ゾール。もしくは207
不実な夫となったエストを甲斐甲斐しく看病する新妻は、成金の平民出と笑われようとも健気に尽くし、ただ一人の侯爵家本家の人間であるエストを常に立てることで、侯爵領内での地位を確立させていた。
だから、ゾール侯爵領へはカロラインの実家である商会の人間も多く出入りしていた。
気が付けば大店と呼ばれるほどに手広く商売を始め、その取り扱う小麦粉は格安で味も良いと評判だった。
――安いのはアズノル国から援助を受けたからで、味が良いのは薬が入っているからだが。
中毒性が高い、いわば麻薬と呼ばれる高価な薬が配合されているのである。誰の口にも合う筈である。当然だ。
勿論安く売り出したのは最初だけだ。
今の価格はどれもこれも最初に売り出した頃の千倍。それでも飛ぶように売れ、製造が追いつかないと限定販売をしている間に勝手に値が吊り上がっていく。
そうしてまだ日も昇らない早朝から店の前へ散々並んで、買えた者と買えなかった者で争いが起き、買い物帰りの客が襲われ、伝手を辿って手に入れた食卓で、家族間で食べた量に関して争いが起こる。
高騰する価格に、幼い子供を売りに出したなどというふざけた嗤えない笑い話もでる始末だ。
けれど、そんな荒唐無稽な法螺話すら納得してしまいそうなほど侯爵領内は荒れていた。
そのギスギスした荒れた空気はゾール侯爵領内に止まらず、ゾール侯爵領内に取引があった近隣の街においても同じ状況が起こっていた。
僅かな金を搔き集め、店の前で店員に縋りつく者も出始めた頃。
「あの麦の融通は無理ですが、特別な調味料を特別にご用意致しました」
それは、綺麗な小瓶に詰められた透明な液体である。
中身は基本的には川の水だ。だから小麦と違って、次の収穫まで待たなくても良いのが最高だ。しかも小麦より安く手に入る。なにしろ素となる水自体はタダなのだから。本当に最高だ。
そこに、あの薬をほんのちょっぴりだけ溶かしてある。だからどんな食材でもこれを掛ければあっという間に特別な味に生まれ変わる。
今の彼等には最高の調味料だろう。
きっと、あの味を求める気持ちをほんの少しだけ満たしてくれる。そして中毒状態がいつまでも続くようにする効き目と共に、あっという間に切れてしまう幸福度に対する枯渇感も高めより希求する心を強くする。
消費者である彼等は少しでも飢える気持ちが安らぎ、供給者である私達は売り上げが継続して望めるのだ。双方共に幸せになれる正にウィンウィンの関係だ。
まずは街で人気のレストランから。
次は、下町で人気の大衆食堂。
そうしてようやく、個人への流出。
焦らず、ゆっくりと、浸透させていく。
カロラインとしてはお高くとまったゾール侯爵家の人間やその館で働く高慢なる使用人たちが、挙って平民と蔑んでいたカロラインへ胡麻をすり融通を利かせて欲しいと阿る姿が愉快でならなかった。
けれども愉しんでばかりもいられない。
これはすべてカロラインに課せられた務めなのだから。
「計画に間に合うよう、務めに励まなければ」
早く、けれども密かに。
計画通りの、破滅の日を迎える為にも、できるだけ広く浅く、王都へ広めるのだ。
そうしてカロラインはやり遂げる。
あの、ゲイル王国が破滅を迎えた日。
王都にはすでに中毒一歩手前となり、心の抑制を外された民衆と貴族で溢れかえっていたのだ。
お陰で煽動するのも簡単だった。
顔を汚し、髪を染めて、民衆の中で騒いだ。
特別な調味料が手に入らなくなって、イライラしている民衆は、あっさり心の枷を外し、暴力に酔いしれた。
「ちょっと楽をし過ぎたかもしれないけれど。構わないわよね。だって、まだ計画の半分でしかない」
ここから先のピアの活躍を思い描いて、カロラインはアズノル軍の蹂躙を受ける民衆の姿を笑顔で見つめた。
***
ピアが213と呼ばれていた頃、カロラインは207と呼ばれていた。
お互いに訓練所に連れてこられるまでの生活について告白し合ったことはないが、多分同じような物を親から勝手に背負わされたのだろうと思っている。
だから、カロラインにとってピアだけが特別だった。
ピアはカロラインで、カロラインはピアだ。
これが仲間意識というものなのかはわからない。
それを207が口に出して213へ告げた事もなかったので、ピアとなった213がカロラインとなった207をどう思っているのかも知らなかった。
でも、もしピアがカロラインを特別だと思っていなくても良かった。
むしろ同じようになど思っていない可能性の方が高い気がしていたので、確かめたくなかったというべきかもしれない。
だって、ピアはヒロインに選ばれた。カロラインはその脇役。
ヒロインとなるピアが誰よりも光り輝けるように、後ろから支えるのがその役目だ。
本物の、亡き天才王子が遺したゲイル王国に関する予言書には、カロラインなどという女の名前はない。
パスス王子の発案により、勝手に書き加えられた存在しない筈の人物。
それがカロライン・ハースだ。
207には、役ですら都合よくシナリオを動かすための駒しか与えられなかった。
ちっとも似ていない213と従姉とだいう設定となるカロラインを務め上げる為に化粧も工夫した。ふとした時の動きや表情も213に合わせるよう努力した。
けれど、そんな努力をしている最中に頭を過る事がある。
――もっと笑顔の似合う愛らしい顔つきだったら、ヒロインに選ばれただろうか。
――もっと背が低くあったら、ヒロインに選んでもらえただろうか。
予言書にある本物のヒロインは、幼い頃に誘拐された事で貴族らしさが身についておらず、令嬢らしからぬ生意気な言動を取ってしまうフィリア・ノーブル。
庇護欲を誘う愛らしい顔とは裏腹に、幼い頃より野山を駆け回った事で得た運動神経の良さや物事を単純明快にまっすぐ捉える明るさに、王太子として常に研鑽を求められているアルフェルト殿下の心は癒されるのだ。
自分も、そんな明るさと可憐さが似合う213のような姿形をしていたなら、光を浴びる場所に立てる運命だってあったんじゃないだろうかと。
そんな事を考え願うこと自体が馬鹿らしい事だと、わかっている。
そんな事が願っただけで叶うならば、そもそも肌の色は今のような白ではなく浅黒かったなら良かったと思うし、髪の色も栗色などではなく燃えるような赤い色が良かった。
そうすれば、たとえ捨て子であろうとももう少しマシな生活を送ることができた筈だし、もしかしたら親から捨てられる事もなかったかもしれない。
空腹に耐えかねて土を食むこともなかっただろうし、自分の指を舐め齧ることが癖になることもなかった。
お陰で訓練所に入るまでの207の左手の親指は常にふやけていたし、その爪は少しだけ変形していた。
舐め齧ったことで出来てしまった変形と齧るその癖が治るまで、かなりの時間と折檻を要してしまった。
あぁ、でも。もしもそれが叶っていたならば。アズノルでよくある色合いに生まれる奇跡を得られていたならば。
207も、誰かに、本当の意味で愛されることもできたかもしれない。
温かな布団に包まれ、貧しくとも家族みんなで笑いながら食事を摂ることも、普通に喧嘩をして自己を主張することもできるようになれたかもしれない。
けれど、どれだけ神に祈ろうともカロラインの髪は栗色だし、肌はアズノル国の民の中では白すぎるし、目は小さくて、身体はガリガリの癖に女にしては背が高いのだ。
神になど、祈っても意味が無い。
それがカロラインがこれまで生きてきた中で知ったこの世の真理だ。
お金持ちなだけの平民で、持参金目当てで婚姻を結んだその後は、ひたすら虐げられながらも言われるがまま金を出し、亡き妹へ罪を擦り付けるような屑男へ尽くし続ける頭の悪い女の役。
表向きに用意されたこの頭の悪い女を演じながら、ピリアとなったピアを支える為に、ゾール侯爵家を乗っ取り、侯爵領に麻薬を振り撒く悪女。
上役に相談する時間のないイレギュラーな事態が起きた時には、どんな些細な事でもフォローに廻る。
カロラインとしてこの舞台からの退場を意味していたとしても、213が、ピアとして舞台に立ち続ける為に尽くす事。
それがカロライン・ハースに与えられた使命だ。
つまりは、カロラインはピアの為に存在するということである。




