墓標
王都の隅にあるその墓地には、代々のゾール侯爵家所縁の者の墓が建てられている。
このゲイル王国建国時からある年代を感じさせるものから、まだ新しい白い墓標まで様々だ。
その中で、ひと際目を引く場所がある。真新しい墓標が並んで三つ建てられている一角。その一番奥にある小さな墓標こそ、リタ・ゾール嬢が眠る場所だった。
誰が持ってきたのか、隣のゾール侯爵夫妻の墓の前にあるものと同じまだ新しい白い薔薇の花が生けられており、その香りで辺りは噎せ返るような濃密な甘い匂いに満ちていた。
「……赤い薔薇は、墓標には似合わなかっただろうか」
持ってきた花束を墓標に捧げて、膝を折る。
この花束を用意して貰う時、「贈るお相手のお好きな花は?」と聞かれて、アルフェルトは答えられなかった。
だからつい、ピアの好きな真っ赤な薔薇を指定してしまった。
(だって、女性なら誰でも赤い薔薇が好きなモノだろう?)
けれども、記憶の中のリタ嬢がどんな花を喜んで受け取ったのかさっぱり記憶になかった。
一応、婚約者として最低限のことは行っていたが、贈り物の手配などはすべて侍従に任せっきりだった。
「ありがとうございます。とても綺麗なお花と髪飾りでしたわ」などと、後日礼を告げられた時は、「良かった。美しい人にはプレゼントの贈り甲斐がある」と当たり障りのない会話を交わしたのみだ。
何を贈ったのか報告を受けていた気はするが、実物を確認した訳でもない。礼を言われても、それがどんな物で何に対してなのかも碌に分からなかった。
(そうだ。自分は彼女を、そんなくだらないことで莫迦にすることで悦に入っていたんだ)
本当の彼女を見てすらいなかった。
「すまない、リタ。君自身をもっとよく見ることができていたなら、自分の横には、今、君がいてくれたのだろうか。本当に、私のことだけを愛してくれる人として……。あぁ、自分はなんと愚かで子供だったのだろう。すまない、リタ」
墓標に取りすがり、泣きながら謝罪の言葉を繰り返す。
「すまない。すまない、リタ」
頬を流れていく涙が、胸元に冷たかった。
止めどなく流れていく涙は止まることを知らず、拭っても拭っても溢れてくる。
ついにはそれを拭うことも、止めようと歯を食いしばる事すら諦めて、アルフェルトは、ただ子供の様に泣くことを自分に許した。
どれくらいそうしていただろう。
泣きつかれて、ひと息ついたアルフェルトが、震える手で、上着の胸元からひとつの繊細な金細工を取り出した。
アルフェルトの手のひらから少しだけはみ出る程度の小さなそれには、精巧な彫刻が刻まれている。ゾール侯爵家の紋章だ。
根本から三分の一程度のところにある継ぎ目に軽く力を籠めると、カチリと小さな音がする。慎重にその鞘を抜くと、細い刃が現われた。
鈍い光を帯びたそれを、アルフェルトは目の前に翳した。
古来より、貴婦人が名誉を穢されそうになった時に備えて、自害できるようにと持ち歩くようになったナイフが転じて、娘が生まれるとお守りとして与えるようになったといわれるが、最近は娘が生まれても用意しない家も多くなったという。
用意しても、現在は意匠を凝らした宝飾品としての意味合いが濃く、実際にこの細くて短い刃には殺傷能力というものは望まれていない。
実際にこうして目にしてみれば、この短い刀身では女性の力では自害すら難しいだろうということが判る。
もし、これで本気で人の命を奪おうとするならば、余程注意深く狙いを定めて急所を突く必要がある。それには、命を奪われる人間の協力が必要となるだろう。
もしくは、毒を使用するか。
そうして、この刀身には神経毒が仕込まれていることが分かっている。
柄の中に毒を注入できるようになっており、この刃で何かを突き刺すと、少しだけ刃が柄へ沈み、その力を使って刃先を通って毒が体内へと入る細工がされているようだ。まるで注射器のようである。
リタ・ゾールへこの守り刀を贈った者が誰なのかは分からないが、この守り刀は本来の意味を持ったものであったということだ。
震える手で、自分の咽喉元へ狙いをつける。
「リタ。私の、婚約者だった少女。神から与えられた命の炎を自らの手で勝手に消してしまった者は、命の炎を最後まで燃やし尽くして神の下へと招かれた者では、逝き付く先が違うという。ならば……リタ嬢の守り刀を使って、私も、自死を選べば……もう一度、あなたに会えるだろう」
泣き笑いの顔を、白い墓標へ向ける。
「あなたが今も私を思ってくれていることを、信じるよ。今行くから、待っててくれ」
目を閉じ、アルフェルトはひと息に、内に向けて刃を振り落とした。
がっ。
「ピア……」
刃を振り上げたアルフェルトの身体を引き倒したのは、アルフェルトの最愛の妻、ピリア・ゾール。ピアだった。
「ばかばかばかばか! なんで? なんで、私を置いて、勝手に死のうとしているのですか?!」
「ピア……ピア? 私を、まだ、必要としてくれるのか?」
「えぇ、勿論です! 私には、アルフェルト様が、必要です」
「あぁ、ピア。私の、最愛!」
頬を濡らす涙が、熱い。アルフェルトは自らの罪深さに、涙した。
(やはり自分はリタ嬢のところへは逝けそうにない。すまない、リタ。私の美しい賛美者)
心の中で元婚約者への詫びを告げながら、アルフェルトは愛しい妻の温かな身体を抱き締めた。その体から立ち昇る甘い香りを胸いっぱい吸い込む。
「ピア、ピア。愛している。君だけを。私は君の物だ」
「本当ですか? 嬉しい。たくさん役に立ってくださいね? 楽しみにしてます」
「……え?」
ぐにゃり。アルフェルトの視界が歪む。
気が付けば、自身の首の後ろ、うなじの辺りに微かな痛みがあった。
「うふふ。痛いですか? 大丈夫ですよ。すぐに、痛みだけじゃなくて、何もかもが分からなくなりますからね」
愛しい妻の声の筈なのに、何を言われているのか理解が追いつかない。
不安が一気に塊のように圧し掛かり、目の前で笑顔を浮かべる最愛の人の名前を呼んだ。
「ひあ?」
何かがおかしかった。舌が上手く回らなくなっていた。
笑顔の妻の顔が、歪んで見える。
「……ひ、あ? ひ」
歪む。ゆがむ。笑っているのに、恐ろしくて。悲しんで見えて。
最愛のその人を、笑顔にしたくて、懸命に、顔の表情を動かして、自分も笑顔を作り、その人の名前を呼ぶ。
「ひ、あ。わ、たしの、さい、あ……わら、って?」
多分それが、アルフェルトが自身の意志で言った最後の言葉だった。




