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失くしてしまったモノ、欲しかったモノ・1



 夏の夜は明けるのが早い。

 普段なら清潔なシーツに包まれて愛しい妻の横で朝を迎えるアルフェルトだったが、その日彼が目覚めたのは冷たい大理石の床の上だった。


 着ていた服の袖口と胸元が、自身の流した涙でまだ濡れていて冷たくなっている。アルフェルトは、温度差に身体を振るわせた。


 王から自室での謹慎を申し付けられておきながら、ひと晩、この何も無い部屋で過ごしてしまったようだった。


 付いてきていた侍従の姿もない。

 なんとなく、自分が泣き続けている間に、仕事に呼ばれてしまったようで『落ち着いたら自室へお戻りください』そう声を掛けられたような覚えがあるがあるが定かではない。


 どうであれ、その後は誰も王太子であるアルフェルトのことを探しに来ることはなかったようだ。



「……どうやら私は、この国のすべての人間から見捨てられてしまったようだな」


 ゲイル王国には、アルフェルト以外に王子はいない。王女もいないので、正統なる王位継承者はアルフェルトのみ。第二位は王妃が就き、第三位、第四位は先王の妹姫が嫁いだトーラス侯爵家の孫息子と孫娘がその座に指名されている。第二位の王妃はともかく、第三・第四位のトーラス家の子供たちはまだ幼く成人するまでしばらく掛かる。

 だが、いつまでも未成年という訳ではない。現王はまだまだ壮健であり彼等が成人するまではその座に就いている筈だ。


 アルフェルトが玉座に座ることは、ないかもしれない。


 ふ、と。これまで一度たりとも考えた事などない、自分以外が玉座につく未来というものが、妙にリアルに、アルフェルトの頭を占めた。



 鬱鬱と、よく磨かれた大理石に映り込む自分を見つめる。


 それは情けないほど頼りなくて、愚かで、自信のない、取るに足らないちっぽけな存在に見えた。


『信じていたアナタに、暴力で身体を暴かれてっ』


 頭の中で、ピアの叫ぶ声がする。


『強引な行為で私を妊娠させた諸悪の根源ともいえる夫はそれに寄りそうこともしてくれずに、他家の嫁を案じて夜中まで帰ってこない』


 アルフェルトの葛藤に気付かず、一方的に批難する声。憎悪にまみれた視線。醜く歪んだ、その顔。


「……あいして、いるのに。誰よりも、きみを」


 ポタポタと床に涙の粒が落ちていく。


 大理石の上にできた水溜まりへと重ねて落ちていく涙の波紋が、そこに映し出す情けない男の顔を歪ませては消していく。


 惨めだった。


 アルフェルトは、愛する彼女だけを手に入れる為に、沢山のものを捨てたのに。


 王太子としての矜持も。信頼も。


 沢山の人から、不躾に投げかけられる視線。『なんであれほど優秀で美しい婚約者がいたのに、頭の軽い下位貴族の令嬢に引っ掛かるのか』と“莫迦王子”と陰で揶揄されているのも知っている。


 リタ・ゾール侯爵令嬢。


 王太子の婚約者として据えられた、美しい令嬢。

 あの日、王命によって定められた彼女との婚約を勝手に破棄したことで、その後の自分にどれだけ不利な状況へ落ち込むことがあっても、飲み込む覚悟はできていた。


 けれど、まさか彼女に関する噂がすべて出鱈目だらけだなんて、思いつきもしなかった。



 元婚約者はあまりにも優秀で、それだけではなく、玲瓏たる美しさを誇る人だった。

 静かな声と、光の加減で碧にも見える艶やかな黒髪、人の入れない神聖な森の奥深くにある静かな湖のような深碧色の瞳。そして完璧な所作と高い知性。

 冷厳な講師が彼女ばかりを褒めるのが気に入らなかった。

 第一王子たる自分を褒めたことのないその人が、彼女の語学力や学習能力の高さを褒める度に、会ったこともない彼女の事が嫌いになった。

 しかも、冷厳な講師以外から聞こえてくる彼女は、学問以外においてあまりにも眉を顰めたくなるような性格をしていた。漏れ聞こえてくる噂では使用人に暴力を揮い、貴族に於いては嗜みのひとつとされているとはいえ、令嬢として相応しいとは思えない賭博ブックメーカーに手を出しているという。そんな話がアルフェルトの耳に届く度に、講師が褒める存在に対する嫌悪の気持ちが湧き上がる。

 しかし。それと共に、胸のごく奥深いところに昏い喜びにも似たホッとするようななにかが生まれもするのだ。ただそれも又、アルフェルトにとって不快だった。


 一度、講師にそのことについて告げ口をしたこともある。

 しかし返ってきたのは彼女への擁護だった。


『神より特別であれと与えられた特別な才能を持って生まれた者は、幼い頃においてはその小さな身体には持て余す優れた能力のせいで、精神的にバランスを崩すことも多いのです。彼女もその一人でしょう。しかし、その特別な能力について開花した時、少しずつバランスはとれていくものなのです。そうして、彼女にとっての特別な才能は“学ぶ”というものでした』

 だから自分は彼女に見つけた語学力を主とした勉学における才能をどこまでも伸ばしていく為に、彼女が望む以上の課題を与え続け進むべき道を示したのだと誇らしそうに言われて却って憮然とする結果になった。


 つまり。アルフェルトは彼女を婚約者として顔をあわせる前から、彼女が嫌いだった。


 見た目の美しさだけでなく、その完璧な所作にどれほど心が囚われようとも。いや、だからこそ嫌ったのかもしれない。

 嫌って。嫌い抜いて。お前に惹かれるなどアリエナイと。でもそれをあからさまに表に出して誰かに気付かれるようなへまをしないように細心の注意を払った。

 公式の場で傍にいる時は殊の外優しくした。それくらいの演技ができなくては王族としてやっていけない。

 そして気が付いた。

 自分の演技でしかない笑顔や言葉に、講師が褒め讃える特別な存在とやらである彼女の心が簡単に揺れることに。

 頭がいい癖に。女としては、馬鹿なのだ。

 口先だけの演技で簡単に騙される程度の低い女なのだと示してやるために、普段との差をこれでもかと突き付けてやる。それはさすがに演技であるということは分かるようで、あの美しい瞳が、傷つき揺れる。

 その姿を見ると心が落ち着いた。


 たしかにこの国だけでなく近隣諸国を見回してもリタ・ゾール侯爵令嬢以上に優秀な令嬢などいはしまい。

 なによりその美しさにおいては誰をも優る。

 しかし、こんな女と結婚して国を治めなければならないのかと思うと絶望しかなかった。


 そんな中で始まった学園生活で思いもかけない出会いをした。


 鬱屈した思いを掬い取ってくれる存在。

 子爵令嬢でありながら、令嬢らしからぬ快活な表情をした、まるで子猫のようなピア・ポラス子爵令嬢。


「嫌なことはイヤだと言えばいいんですよ」


 彼女が軽く口にしたその言葉に、アルフェルトの心がどれほど救われたか。

 明るく言いきるその言葉や行動、そのすべてに、王太子として正しくあるべきだという心を縛るものを断ち切って貰った気がした。

 苦しかった息が、胸の奥まで行き渡った。そんな気がした。


 ある日、そんな彼女が泣いているのを見つけた。

 普段、あまり生徒たちが使わない校舎裏にある、使用人たちが使う水道で、全身ずぶ濡れの身体を水で洗いながら。


 どうしたのかと問い詰めれば、最初こそ「転んでしまった」と言い淀んだものの、天気の良い日が続いたこの時期、髪の奥まで入った泥水の汚れの理由にはならない。

 何度も問い詰めて、ようやく大粒の涙を流しながら告白したのは、なんともうずっと、このような虐めを受けているのだという。


 腹が立って、犯人を探し出して処罰すると憤ったアルフェルトを、けれどもピア自身が止めたのだ。


「自分が悪いのです」と。


 なんと、令嬢たちから囲まれて、『婚約者のいる男性、それも王太子に色目を使う売女』と、泥水入りのバケツを頭から掛けられたのだという。


「……私?」

 虐めの原因が自分であった事に、アルフェルトは衝撃を受けた。


「……アルフェルト様にだけは、知られたくなかった。自分が、ご令嬢たちからこんなにも嫌われ虐められているなんて。こんな目に遭っている事を知れば、優しいあなたは、私の代わりに怒るでしょう? けれど、その怒りは正当ではないのですもの。婚約者がいるあなた様に近付き過ぎた、私がいけないのです」


 貴族の令嬢が持つに相応しい、ちっぽけなハンカチで汚れを拭おうとしていたのだろうが、とてもではないがそれで追いつくものでもなく、真っ黒に汚れたハンカチが哀れを誘う。


「私は虐めに遭って当然の存在なのです。……あなたを、アルフェルト様を愛してしまったから」

 ピアは気丈に耐え忍ぶことを選び、「好きになって、ごめんなさい」と泣いた。


 アルフェルトは目の前の少女に泣き止んで欲しくて、そのやわらかな身体を掻き抱いた。

 もう二度と、自分のせいで彼女を泣かせてはなるものか、そう思った。そして、この心の美しい少女が流す涙を拭うのは自分だけにしたいと、願う。


 そうして、勢いづいたアルフェルトは、リタ嬢に婚約破棄を突きつけたのだ。


 ただ、愛しい少女の隣に立って、ふたりで築く未来が欲しかった。




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