破綻
義理の父母となるゾール侯爵夫妻の死。
義兄エストの賭博借金。そして本人は寝たきりで意識不明の状態。
残された若妻は持参金目当てでの婚姻だったと知りショックを受けている。
なにより、ゾール侯爵家で賭博に興じていたのは、平民の使用人のフリまでして、実妹であるリタへその罪を擦り付けていた、エストだったという事実。
たった一日で受ける衝撃にしてはあまりにも多岐に渡る不幸の連続に、アルフェルトは常になく身体が重く感じていた。
そうして、疲れた体を引き摺るようにして自室へと戻ると、そこで待っていたのは、ずっと自分の寝室から出てこようとしなかった愛しい妻の姿だった。
「ピア! 大丈夫なのか。今日は体調がいいのかい?」
丸みを失った細い身体に眉を寄せながら、その肢体を抱き寄せようとした時だった。
「触らないで!」と頬を打たれた。
なんで叩かれたのかも判らないアルフェルトは、その場に棒立ちになった。
「こんな時間に香水の移り香を残して夫婦の寝室に帰ってくるなんて。非常識よっ!」
言われて、ピアに伸ばした手の袖口あたりから香水の香りが微かに香ることに気が付いた。
先ほどカロラインを慰めたあの些細な触れ合いから移っていたのかもしれない。微かなすずらんの花の香りはそういえば喪服姿のカロラインから香っていた気がする。
「違う。これは、今日のゾール侯爵夫妻の葬儀の後で、カロライン夫人が落ち込んでいたのを慰めただけだ」
エストが行っていた非道とも思える婚姻の理由も告げるべきか、そんなことを悩みながらも説明をしようと試みた。
話せばわかって貰えると思っていたのに。
詰られたその言葉が、心を抉る。
「慰めた? そんなことを言って、あの時、私を力ずくて奪ったように、カロラインにも力ずくで……」
ダンッ。
「それ以上言うな。確かに他の女性と香りが移るほど近づいた私が迂闊だったのかもしれない。しかし、カロライン夫人はキミと仲の良い又従姉なのだろう? 彼女はいま、嫁入り先の父母を一辺に亡くし、頼りにすべき夫も倒れた不幸の身の上だ。そんな辛い状況にある彼女を侮辱するのはやめたまえ」
後でピア自身が自分の言葉を後悔する、と続けたかった言葉は最後まで伝えることは出来なかった。
「辛い状況にあるのは、私の方だわ! 信じていたアナタに、暴力で身体を暴かれてっ。それでも愛があるからこそだと信じて産んだ子は、失った。それなのに、強引な行為で私を妊娠させた諸悪の根源ともいえる夫はそれに寄りそうこともしてくれずに、他家の嫁を案じて夜中まで帰ってこない!!」
「……っ!!」
言われた言葉に、再び殴られた気がした。
ピアが、最愛の妻は、自分を諸悪の根源だと思っていた。
それは、言葉の綾かもしれない。勢いで、心にもない言葉が口をついて出ただけかもしれない。
冷静な時ならば、そう考えることもできた。
しかし。今のアルフェルトは、疲れすぎていた。
肉体的にも、精神的にも。
今日の葬儀も、葬儀後に判った事実にも、そうして何より、ピアの産んだ吾子の姿の記憶と、その子に下した冷たい決断についても。
疲れていた。
「お前が生んだ子? それはあの敵国の人間の特徴を、その身に刻んで生まれた子のことか? 私とは似ても似つかない。燃えるような紅い髪と瞳を持った、浅黒い肌をした、あの子供のことか?!」
目の前のピアは屈辱に身を震わせ、唇を強く噛んでしまったのか、その愛らしいばかりのちいさな唇から真っ赤な血が流れ出ていた。
「ぴ、ピア。大丈夫か」
駆け寄ってハンカチを宛てがおうとした手を振りほどかれた。
「わ、わたしが。私が、不義の子を産んだとでも? わたしがあなた以外の方に、身体を開いたと、思っていたのですね」
それは、ある種の呪詛だった。
ピアが潔白であるならば、罪の血を引いているのはアルフェルト自身となる。
――だが、それだけは受け入れることは出来ない。
「ではっ! ピアの身体に、あの国の血が流れているという事だな?! あの国の血を引く子を、私の子として育てる訳には、いかないんだ!」
アルフェルトの告げてしまったその言葉に、激高していたピアから、表情が抜けた。
真っ青になってしまったピアに、恐怖を覚える。
怖かった。
自分が今口にした言葉が、最愛の妻にどんな影響を及ぼしてしまったのか、アルフェルトには分からなかった。
理解できない。だからこそ、より怖かった。
取り消したいと強く願った。たった今、自身が最愛の妻へと投げつけてしまった言葉を無かった事に出来るなら、アルフェルトはなんでもしただろう。
それくらい、今、自分が口に出した言葉を後悔したのは人生で二度目だった。
「ギャーーーーッ! 人殺し! 子殺しめっ!! 私の子供を、返せぇぇぇ!!!」
小さくて薔薇の花弁のようだと何度も思ったピアの唇から漏れ出したとは思えないほどの悲しみに満ちた怒声が、上がった。
手当たり次第に物を投げつけられて、掴みかかられ、引っ掻かれる。
さすがにアルフェルトまで同じことをする訳にもいかずに防戦しかできないことに焦れ、つい侍女たちを呼び入れた判断も間違いだった。
ドアが開いた途端、ピアが「私の夫は、子殺しという、最低最悪の罪を犯した罪人である! どうか、神の裁きを、彼の者に!!」と咽喉も裂けんばかりに叫びながら廊下を走りまわったのだ。
血走った眼で。薄い夜着のまま、王宮の廊下を叫びながら走り回る王太子妃。
その叫ぶ内容までもがどこまでもスキャンダラスで。
どう取り繕ろおうにも無駄なほど、それを見聞きした人数も多く、その誰しもが興味津々で、事実無根の噂の真相とやらを求めた。
そうしてその噂は、あっという間に王都を駆け抜けていった。




