嵐の夜に・1
長くなったので2話に分けました。
同日公開しております。
読む順番にお気を付けください。
それは、嵐の夜だった。
ピアが産気づいた。
寝室で蹲り呻くピアに驚き、老女性医師が産婆を呼び出してから既に丸一日が過ぎ二日目を迎えようとしている、深夜。
扉の向こうから時折洩れ聞こえてくるピアの悲鳴や苦しそうな呻き声。
そして窓の外で荒れ狂う嵐。
遅々として進まないお産は、厭な想像ばかりが広がっていくものである。天候が悪いとなれば猶更だ。
することもなくただ隣の続き部屋で待っているだけの筈なのに、アルフェルトはすっかり疲弊していた。
ピアの出産部屋として用意されていた客室は、自室と違って本もなにもない。
アルフェルトは仕事を持ってこさせることも考えたが、何を説明されても間違いなく何も頭に入って来ないだろうし、判断ミスをしない自信は全くなかったので止めておいた。
だから、一人きりの部屋で、ひたすら隣室の気配を読み取ろうと気を張る。
刻々と強くなってくる風と粒の大きな雨が一層の不安を呼ぶ。
「誰か一緒にいて欲しいのだが。皆、私の代わりに仕事を引き受けてくれているのだし、甘えている場合でもないか」
夕刻までは王と王妃も共にこの続き部屋でその時を待っていたのだが、今はこの部屋にひとりきりだ。
大きな災害が起こる可能性も出てきたことで、初孫誕生を少しでも早く知りたかったと後ろ髪を引かれる思いをしながらも、まずは王が宰相たちの集まる会議室へと足を運ぶこととなった。
王妃は、王の分まで自分がしっかりと目に焼き付けようとしていたが、あまりにも長く掛かるお産と、アルフェルトたち王族が控えるこの部屋へ続く扉ではなく、ピアの籠る寝室から、時折上がるピアの悲鳴や医師や産婆が鋭く命令する声や、新しい綺麗な布や湯を求めて廊下へと走り出していく侍女の慌てふためいた様子が伝わって来る度に不安がもたげてくることに、すっかり参って仕舞ったようだ。今は自室に戻りそこで初孫の誕生を待っている。もしかしたら寝てしまっているかもしれない。
我が子を産む為とはいえ、愛しいピアが呻き苦しんでいる寝室と続き部屋であるこの私室でひとり待っていると、アルフェルトの脳裏によくない想像ばかりが浮かんでくる。
この国における出産時のトラブルの発生率は特に高いという事はない。むしろ近隣諸国より低いと自慢できる。けれど、ゼロという訳でもない。
障害を持って生まれる子もいると聞くし、子は元気に生まれても母胎が持たないこともある。
そして母子共に命を失うこともあるのだ。
ビュービューと強い風の音。
時折聞こえる愛しい妻のうめく声と細い悲鳴にも似た声が混じる。
アルフェルトの待つ私室には燭台のろうそくの炎が揺らめいていた。
夜に生まれてくる子供には、蝋燭の炎の揺らめきが必要だと言って、侍女の一人がランプではなくこの古めかしい燭台を置いていったのだ。
ランプの明るい光に目が眩み、生まれてくる道を間違えてしまうという言い伝えがあるのだという。
「王太子殿下の御子様ならば、道を間違えることはないと存じますが、初産でかなり時間が掛かっておられるようですので」
そう言って最新式のランプを持ち去り、古めかしい燭台へと置き換えられた。
「甘い、な」
目の前で揺らぐちいさな炎に温められた蜜蝋の蝋燭は、花の蜜のような甘い香りを漂わせている。
その香りを嗅いでいる内に、心の中の苛立ちが少しだけ緩んだ気がした。
アルフェルトは最初こそ馬鹿らしい迷信だと胡散臭く思ったが、これほどお産が長引いて待っているだけでも辛いものだと知った今は、迷信にだろうと縋りつきたくなるものなのだと知った。
扉の向こうでは、ピアが今も泣きながら自分の名前を呼んでくれているような気がして、アルフェルトは手を組んで母と子の無事を蝋燭に向かって祈った。
窓の外の風が強くバタバタバタッと窓ガラスに大きな雨粒を叩きつけた音がしてアルフェルトの身体がビクッと大きく跳ねた。
ぎぃっ、とモノも言わずに震えた様子の老女性医師が、寝室へと続く扉を勝手に開けて立っていた。
「……おひとりですか?」
常ならば何のこともない問い掛けが、不吉なモノに聞こえてしまい、咽喉が絡んで声が出せない。
アルフェルトは辛うじて頷くことで返事をすると、一歩下がることで招き入れる老医師に従って寝室へと足を踏み入れた。
足を踏み入れたその場所は、不吉なほど血生臭かった。
死。
蝋燭の頼りない灯りの下で、真っ白な顔で眠っている愛しいピアの身体は、今、真っ赤なそれに塗れていた。
「ひっ」
思わず小さな悲鳴を上げて、アルフェルトが後退った。
「如何致しましたか?」
「なっ。如何だと?! ぴ、ピアが。ち、血ま、みれでっ、そこにっ!」
震える指で指し示したが、老女性医師は首を傾げるばかりだった。
呑気なその態度に、アルフェルトは苛立ち、震えた。
しかし、じぃっとアルフェルトの顔を見返し見つめていた老医師が、なにか得心したように頷いて言った。
「落ち着いてください、殿下。赤いアレは、花弁にございます。妃殿下がお好きな赤い薔薇が撒いてあるのです。好きな香りというものには、緊張をほぐす効果があるのです」
少し困った様子で、老医師がピアに近づき、そこにあった一枚の花弁を持ち上げて、アルフェルトの鼻先に翳してみせた。
甘い、甘い花の香。
先ほどの蜜蝋の香りと似たその花弁の香りに、いきりたっていた気持ちが鎮まる。
「え? ……あ。そ、そうか」
恥ずかしい間違えをしてしまったことに気拙くなり、つい目線が泳いだ。
けれども、赤いそれが血ではなく花弁であったとしても、そこに眠るピアの顔が真っ白なことに変わりはない。
血の気の全くない愛する人の微動だにしない姿に、羞恥により一度は霧散した筈の不安がもたげる。
再び頭を占めた、この世に命を受けた者すべてが抗う事の出来ない無慈悲な神の差配が愛しい妻に下されたのではないかという恐怖により、アルフェルトの身体が小刻みに震えた。
「ピアは……ピアは大丈夫なのか?」
「はい。王太子妃殿下に於かれましては、今は疲れ果ててお休みになられているだけでございます。ご安心ください」
「そうか」
少しだけホッとしてアルフェルトは寝台に近付いた。眠るピアの腹部は平らで、今そこに愛する我が子は抱かれていないことは明白だった。
「……こ、子供は?」
元気に生まれた赤児ならば、産声という大きな声を上げるものだという。
だが、今に至るまでそれらしき声が聞こえてきてはいない。
アルフェルトは、あまりの不安に視界が歪んだ気がした。
悲痛な気持ちで後ろに立つ老女性医師の顔を振りむことすらせずに確認すると、すぐ横へ、するりと誰かが近づいてきた。
蝋燭の炎の中で生まれた赤児は、今は産婆の腕の中で苦しげに眠っているようだった。
「あぁ、生まれたのか。よかった! 抱かせて貰っても?」




