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業火を纏う泡沫の戀  作者: さわの かな
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はじまり

大好きだった蝉の声もただの騒音に変わってしまった。

近くの高校の校舎の開け放った窓から、微動だにしないクリーム色のカーテンが見える。

その窓からなのかは確認出来ないが、吹奏楽部が練習している音が重く響いていた。

そのメロディを奏でない、無茶苦茶に聴こえる音合わせが何故か沢山の事を思い出させる。

幼いころの心が…身体が、踊るような夏はいつまでだったのか。

近くの市民プールに母親に連れられて妹と泳いだ。子供用の小さな浅いプールで潜って、目を開けられたと競い合い、水の中でじゃんけんをしたり、水から顔を上げてプールサイドのパラソルの下のベンチでこちらを微笑んで見ている母親を見つけて手を振る。

母親は、暑いのだろう。見る度にタオルハンカチで何度も何度も汗を拭い、扇子で暑い空気を揺らしていた。それを見る度に一緒に入ろうと何度も妹と誘ったがお母さんはいいの、ふたりで入りなさい…と。普段は家で作った麦茶しか飲まないのに、プールの日だけは特別だった。

入り口近くの自販機の紙カップのジュースを一杯ずつ買ってくれた。

暑い、

その思い出が現実を黒く塗り潰す。

熱されたアスファルトは靴底を溶かして、私の脹ら脛(ふくらはぎ)の筋肉を余計に張らせているような不快が苛立ちではなく、更に冷静に頭を整えていく。

消えたい、

この心地好い思い出だけを持ったまま、


逃げるな、逃げていい、

相談して欲しい、


世界は広い、ここだけが全てではない、


違う、ここだけだ、

逃げる?逃げ方がわからない。

そもそも逃げる選択肢が用意出来る性格ではない。

違っていい、個性だ、



悪いけど、いつになったらそう思えるの?

それまで、私は…私という、ちっぽけな存在は耐えられるのか。


答えは出ていた。


毎日通い慣れた細い道路脇を流れる河口の側の海は凪いでいた。

コンクリートの堤防は、今では梯子を必要としない。

幼いままの私ではない。

容易に、鉄のように熱され、長年の潮風に削られた堤防の縁に手を掛ける。

丸みや、ざらざらとした感触に泣きたくなった

のに、その時下手くそなトランペットが鳴って思わず笑ってしまった。


そういえば、

あの、ジュースの味はどんな味だったかな…。

小さな氷が沢山浮いていて、

しゅわしゅわと、音と色が弾けていた。



これだけで、もう十分…



苦しいのは、嫌だな…、ね、お母さん。


海風が、吹いた。


私の目に映ったのは、あの時飲んだソーダのような綺麗な色ではなかった。


それは…とても深く、濁った、暗闇。




―男の話―

いつもは荘厳な空気が、重苦しさに変わる。

しなければならない事が多すぎる。

思い出に浸りたい、泣けるものなら身体の全てが消えるまで泣いてしまえるだろう。


「カイル。」

名前を呼ばれても、視線は彼女へ。

棺の中に横たわる愛しいその人は、その命の火を消した姿で空の器を、まるで永久(とわ)に留め置けるかのように穏やかな表情だった。


「エヴァ…」

掠れた声は、まるで彼女の世界に通用しない異質な言語のように空気に溶けた。

「カイル…エミリア様がお待ちだ。」

幼なじみの男は、気遣いながらも普段着の言葉を私に投げ掛ける。

「また、来るよ。」

物言わぬ美しく愛しい(むくろ)に口づけを落とし、私はその場を後にした。




―女の話―

憎らしい…

この手も、脚も、身体も、その全てが代わりになれたのではないか。

何故、自分ではなかったのか、何故こんなにも同じなのに神は私を選ばれなかったのか。

「いけません、エミリア様、それ以上水辺に近付いては。」

恨みがましく振り向くと、侍女のマリアが後ろに拡がる美しい景色には似つかない、この世の終わりのような顔をして立っている。

ひとりになりたいと言う私に見たことも無いような形相で異を唱えた。

わかっている。今の私をひとりにするなど私に忠誠を誓った者なら絶対にしないだろう。

私自身、そのままひとりにされたら、何をするかはわからない。

冷静を保てなくなるのが容易に想像出来た。それこそ、この身をとうに投げ出していたかもしれない。

だけど私は黙ってひとりにはならない。

だから、私は弱い。

それが分かっていて、本気でひとりにはならない自分自身の甘さに、偽善者ぶりに吐き気さえ覚えた。

あの子の痛みはこんな苦しさなどではなかったはず。

憎い。

自分が憎い。出来もしないことを願って可能性の無い事に誓いをたてるなど。大袈裟に感情を表して、これでもかと、同情をひき涙をさそう役者と何ら変わらないのではないか。

義弟からの知らせは驚きはもたらさなかった。

それは、あの子が私の妹として生まれた日から覚悟をしていたこと。

その日を指折り、数えながら怯えていた。

それが、朝を迎える度に緊張と安堵を繰り返させ私達の神経を磨り減らしていった。

だから、知らせを聞いて私が本当に感じた事…心の奥底でどの感情が湧いてしまったのか、それを思い出すだけで、この身を切り刻みたくなる。


目の前に広がる美しく静かな泉に来たのは、そんな醜い感情や思い出を浄化してくれるのではないかと思いすがるような気持ちで来てみたが、結局は更に身勝手で傲慢な自分をまざまざと思い知らされただけだった。



だから、それは悪い夢を見たのだと思った。

地獄の底から、醜い自分を恨んだあの子が私を迎えに来たのだと。

こんな思いを抱えていたら、いくら身も心も美しく優しかったあの子でも、こんな残酷な事も出来てしまうのではないかと。



「エヴァ!!」

視界の端に、泉の水面が揺れたのが確認出来たその直後、幻でも見ているのかと思ったそばから、何かが浮き上がって来た。

引き寄せられるように前のめりになる私を、マリアが必死に後ろへ引き戻そうとする。


しかし、私の視界には信じ難い風景が映っていた。

泉の中心に、まるで柔らかい膜に包まれたような姿で静かに、そして完全に水面に浮かんで揺れているのは義弟のそばに眠るはずの妹、その姿だった。


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