霧と少女
Side 昂哉
「どうだ? これがお前の眷属たちだ」
一年生教室と廊下の惨劇を見せたチセは妖艶に微笑む。
今、チセの右手は僕の額をなでるように優しく添えられており、それを通して彼女から怪物が自分の生徒を喰らう様子を見せてもらっている。
最初に自分の使役する眷属の戦力を分析したいということで、教室の様子を見せてほしいとお願いしたのは僕だったが、それでも納得できないことが一つだけあった。
「……肯定にいる兎はともかく、廊下にいる怪物は気に入らないな」
「ん、“カオナシ”のことか?」
チセは戦闘能力はない代わりにほかの眷属の様子を五感で感じることができ、それを僕と共有することもできる。チセの力で再びカオナシの様子が映し出されたところで、僕は顔をしかめた。
「なぜあの怪物は、あんなひどい殺し方をするんだ? あれでは無駄に痛く苦しいだけじゃないか。どうして一息で“救って”あげないんだ」
「救うって……ああ、なるほどな。その理由については、悪いが私にもわからん。カオナシは純粋な戦闘能力は高いが、いかんせん知性に乏しくてな。奴の行動原理は私にもわからないんだよ」
言葉とは裏腹に悪びれもしないチセに僕は舌打ちする。いくら戦闘能力が高くても、あんなむごい殺し方をするのはあんまりだ。
「わかった。けど、君は多少なら怪物をコントロールできるんだろ? これからカオナシにはテロリストの掃討に専念させてくれ」
「コントロール、というか本当に簡単な指示しか出せないがな・・・・・・やってみよう」
チセに指示を出しつつ、僕は手元にあったメモ帳に怪物の特徴、現在の位置などを殴り書きでメモしていく。最初は気づかなかったが、どうやら今僕たちがいるのは旧校舎の二階にある空き部屋のようだった。旧校舎は、勇者育成学校設立当時は使われていたが、地球の製鉄技術がこの国にも伝播したことで木造建築自体の需要が減り、その影響で木造建築のこの校舎も来年には取り壊し予定だった。今使われている鉄筋の三階建て校舎にくらべれば小さいが、校庭の兎が近づきでもしなければ暴れても倒壊する心配はないだろう。それよりも、万が一兎の追撃を逃れてきた生徒が来たときの方が問題だろう。なにせチセがやられてしまえば、この空間にいる怪物の状態も生徒の残り人数も把握することができなくなる。一度死んだ身である僕が生徒に倒されるのは構わなかったが、制御を離れた怪物たちが生徒を本能のままに喰らう、といったことだけはなんとしても避けたかった。
「それで、兎とカオナシ、二体の眷属はわかった。ほかにもまだいるんだろ?」
「ふん、慌てるなよ。今のが比較的多くの人間を殺せそうな個体で、次に見せる二体が少し特殊なタイプでな。奴らの持っているスキルもかねて説明してやる」
チセの言葉に、僕は思わず思考を止めた。
「ちょっとまて、あいつら、スキルまで持っているのか?」
「おや、言ってなかったか? 眷属たちもこの世界では転移者ということになる。ならばスキルの一つや二つ持っていてもおかしくはないだろ」
「そういうことは早く説明してくれ……」
あとで兎とカオナシのスキルも聞いて戦略を練り直さなければ……。
「説明もなにも、聞かれなかったからな」
こちらの気も知らず、いや、知っていてわざとチセは素知らぬ顔をする。先ほどまではあれだけ協力者面をしていたというのに。この悪魔め。
と、そのときちょうど脳内に浮かぶ映像が切り替わった。
Side 悠
女生徒を捕食するカオナシに背を向けて逃げ出した悠が向かったのは職員室だった。
我ながら安易な考えだったが、この状況で一番頼りになるのは先生しかいないと思ったからだ。
なにせ、この学校の先生方はみな普通ではない。そのほとんどが元は勇者や歴戦の猛者として魔族との戦いの最前線で戦っていたのだ。怪物も確かに驚異だが、あの先生方ならきっとなんとかしてくれるだろう。
職員室が見えてくると、すでに幾人かの生徒が職員室の中へ入っていくのが見えた。悠もそれに続こうとしたときだった。
そばの空き教室から突然にゅっと腕が伸びてきた。
「お、」
叫ぶ暇もなく悠は教室の中へ強引に引き寄せられた。
「落ち着け、私だ、クトリ・サーブラフだ」
「ッ、クトリ先生……」
暴れる悠の両頬を包み、クトリは強引に自分の顔に向けさせる。
クトリも元は最前線で戦っていた戦士だ。特徴は、その右目に掛けられた黒い眼帯で、その奥には、視界に入った生物の体感時間を遅くする魔眼が隠されているという話だった。現在はこの学校で一年生の副担任もしており、悠も先生とは面識があったが、校内でも実は可愛らしい顔をしていると有名なクトリの顔が目前に迫り、悠はこんな状況にもかかわらずドキドキした。
「こんな状況で鼻の下を伸ばせるならお前も大物だな」
「の、伸ばしてなんかいませんよ!」
言いながら悠は顔を触って確認する。
「ふっ、おばさんの冗談だ、許せよ」
どう高く見ても二十そこそこのクレオが眼帯とは違う方の目でウインクする。あまりにも様になっていて、悠は身を固くした。
「そ、それより先生。どうして先生はこんなところに・・・・・・?」
「・・・・・・できることなら私も全員助けてやりたいところだがな」
「え?」
覗いてみろ、とジェスチャーで促すクレオの言葉にならい、悠は戸にはまった小さなガラスから職員室の様子を盗み見た。
「え……」
目を疑った。
先ほどまで普通だった廊下は、今や完全な霧に覆われていた。
「“奴”の能力さ。あれでほかの先生も半分はやられた」
悠は思わず藤堂の顔を見た。半分が、やられた? あの何をしても死ななそうな先生たちが?
「いいか、悠。ここから先、何が聞こえてきても絶対に音を出すなよ」
みたこともないほど顔をこわばらせている藤堂。この先生がこんな顔をするほどの事態が起こっているのだと思うと、悠は改めて息をのんだ。
しばらくは何も聞こえてこなかったが、やがて断続的に声が聞こえてきた。誰かの悲鳴や苦痛を訴える声だ。ある者は痛みにうめき、ある者は恐怖から絶叫し、ある者は仲間をやられたことへの怒りの声を。しかし、それら全ては長続きせず、再び静寂が訪れた。
悠は戦慄した。職員室には同級生だけでなく、二年生や三年生の姿もあった。中には校内の模擬試合の中で特に上位に食い込んだ先輩の姿だってあった。その彼らが、まさかこの数分で静かに息絶えたというのか?
「~~~♪」
どこからか鼻唄が聞こえてきたのはそのときだった。子守歌のように優しく、それでいて体の芯が凍えるほど美しい男の声だった。
「~~~♪」
その鼻唄が段々とこちらに近づいてくるのだ。悠の動悸は自然と早くなり、呼吸が乱れ始めた。
クレオが真剣な顔で静かにしろ、ジェスチャーし、悠も目をつぶり、息を整えることだけに努める。
それは奇妙な感覚だった。足音や呼吸音、気配すら全く感じないのに、その控えめに口ずさまれる鼻唄だけが、“奴”の存在を嫌というほど強調していた。歌自体は美しく、聞き惚れそうなほどなのに、体の奥からやってくる震えを抑えることがどうしても出来ない。
「~~~♪ ―――――」
鼻唄が、戸の前くらいまで来たとき、唐突に止んだ。
恐怖が最高潮に達し、引き結んだ口から今にも叫び声が漏れそうだった。
不意に、頭を柔らかい物が包んだ。
目線だけ動かすと、クレオが右腕で悠の頭を包みこんでいた。
大丈夫だ。
何も言わなくてもクレオがそう伝えたいことだけはわかった。普段は鬼教官として知られているクレオ先生に、こんな優しい一面があったなんて・……破裂しそうだった心臓は、やがて落ち着きを取り戻し、冷静に分析する思考力も戻ってきた。
気づけば、すぐそこにいるクレオの顔さえもはっきりしないほどの濃霧が教室にも入り込んでいた。先ほどから体に異常がないところをみると、毒の類ではないらしい。だとすると、霧を発生させている犯人は、霧の中の暗殺に特化した個体、ということか……。
「……よし、もう大丈夫だ」
「あ……」
先生が腕を離すと、徐々に霧が晴れるのがわかった。もうあの鼻唄も聞こえない。どうやら見つからなかったようだ。
ひとまずは乗り切ったようだ。ほっと息をつき、そういえば、さっきは先生に情けないところをみられたな、と今更になって恥ずかしさが出てきて、まともに顔を
「クレオせんせ」
「ん?」
クレオ先生がこちらをみる。
しかし、悠は恐ろしくて何も言うことができず、かろうじて首を横に振った。
今、先生の名前を呼んだのは自分ではない、という意を込めて。
「ッ!」
クレオは瞬時に銃を悠へ、いや、正確には悠の後方へと向ける。
遅れて悠もそちらをみる。
いつの間にか教室の隅に少女がたっていた。
「女の子……?」
それは高く見積もっても十歳くらいの少女だった。まばゆいほどのプラチナブロンドの髪を腰の近くまで伸ばし、顔のパーツの一つ一つが端正な作りのその少女は、その存在自体がまるで一つの芸術品のようだ。
少女のあまりの美しさに悠は絶句したが、クレオの方は違うようだった。
「マー、ガレット……?」
信じられないものをみる目でクレオはそう言った。マーガレット? 少女は藤堂の知り合いなのだろうか。
固まるクレオとは対照的に、その少女は溶けるように微笑んだ。そのとき、
「う、が、ぁあ」
「先生?」
聞いたことのない声を上げ始めた藤堂の声を聞いて、悠はぎょっとした。
ねじ仕掛けの人形のように錆び付いた動作でクレオが顔をこちらに向ける――――いや、違う。藤堂の視線は悠から外れ、さらに右側へ、あらぬ方向へと向けられていく。そこでようやく、悠はクトリの身に何か異変が起きていることを察した。
クトリの首が、どんどんねじれ、筋線維の軋む音が聞こえ始めたのだ。
「ぐ、ゥウウウァアアアア!」
唾液が絡んだくぐもった声を出すクトリ。それだけで彼女が今、自分に掛けられた不可視の力に対抗していることは明白だった。だが、それも束の間、彼女の首はついに――――――
パァン!
一瞬で何回転もしたクトリの首が吹き飛んだ。
振り回した炭酸飲料のキャップが吹き飛ぶよう――しかし、教室に降り注いだのは真っ赤な、未だ暖かいクレオの血液だった。
「――――」
そのとき悲鳴を上げなかった理由は分からない。
それでもこのとき、悠はこれだけは確信していた。
今、この瞬間、この世界は地獄に変わったのだと――――――
ここまでが序章です。
いくところまで行きたいと思っているので、応援のほどよろしくお願いします。