開宴
生徒視点です。
Side 悠
葉村先生が死んだ。
この事実を最初に受け止めたのは、先生の最も近くにいたクレオだった。
「――それは、開戦の合図と考えてよろしくて?」
それだけだった。彼女は葉村先生の死について、本当にそれくらいのことしか考えていないようだった。
悠はそれでさらにショックを受けた。確かに葉村先生はスキルを持っていない、ただの教師だった。しかし、だからこそ先生の授業を受けると、以前の――日本にいたころの地球を思い出すことができた。そして、葉村という人間自体、悠は先生として好感を持ち、親しみさえ感じていた。
悠は盗み見るように周りを見るが、皆先生の死よりも、今から勃発するクレオとテロリストの戦いの方に意識を向けているようで、悠は失礼とは思いながらも、葉村先生に対して同情を禁じ得なかった。唯一、幼馴染である有坂穂奈美だけは、口元を押さえ、目には大粒の涙を浮かべていた。
「お前らは全員手を出すなよ。サシでやって勝たねえと魔法師の有用性は証明できねえ」
そうこうするうちに、既に二人は他の人間が手出しできないほどにヒートアップし、まさに一触即発の様相を呈していた。先生が命を賭して止めに入った争いが、逆に引き金となってしまうなんて……。
「ぶぅ、ぶぅ」
どこからか、豚のような鳴き声が聞こえた。
そのときだけは全員の意識が、音の発生源がどこかということに集中した。
「ひ、ひぇああああああ!」
そして、クラスメイトの一人が窓を見て、素っ頓狂な声を上げた。
あまりの間抜けな声に、一同が思わず失笑しかけたが、彼が指さす窓の先を見て凍りついた。
赤い、竜の瞳だった。
そこにあったのは、決してちいさくはない窓枠がミニチュアのように見えるほどに巨大な、赤い瞳と白い体毛だった。
豚などではない。それは兎だ。兎の目だ。
反射的にそれが分かった悠は、しかし直後に見た兎の全貌を見て目を疑った。
ここは三階だ。にも関わらず、窓から教室をのぞきこむ兎は、むしろ身をかがめて様子をうかがっている。違和感を感じたのはその直後だった。この兎は、二足で立っている。そして、自由になった前足を高々と持ち上げると――
「全員伏せろ!」
気づけば悠はそう叫んでいた。
直後、窓を破壊して兎の巨大な前足が窓を容易く破壊して教室へと伸びてきた。
響き渡る多数の絶叫。その中で一際大きな声が聞こえた。
床に這いつくばりながらそれを見ると、兎の手に――普通の兎と違い、まるで人間の手だ――テロリストの一人が掴まれていた。
「く、この、はな――」
じたばたともがくとテロリストの男。
兎はそれを観察するようにじっと見つめる。非人間の瞳からは感情を読み取ることができない。
そして、おもむろに掴んでいるのとは逆の方の手で男の頭を指で挟み。
軽くねじった。
「ひっ――」
クラスメイトの女生徒が短い悲鳴を漏らす。
テロリストの男は頭を八十度くらいまでねじられながらも、まだびくびくと痙攣している。まだ生きているのだ!
兎はその様子をなおも観察するように眺めると、今度はぐりんっ、と思い切りねじった。
今度は誰もが悲鳴を上げた。頭をねじられた男は、その拍子で首がねじり切れ、頭だけが兎の指に挟まった。
兎は人差し指と親指で挟んだソレを、太陽に透かすように眺めると、プチン、とトマトのように潰し、次いで手に残った男の胴体を一口で己の口へと放り込んだ。一瞬見えた兎の口は、子ども一人と同じくらいの大きさの鋭い歯が幾重にも並んでいた。
やがて口の入ったそれを嚥下したとき、兎はぐるりと再びこちらに赤い瞳を向けた。
それで教室中はパニックに包まれた。だれしもが我先にと入り口へ殺到し、教室から出ようとした。このときばかりは生徒もテロリストも関係なかった。
兎は再び、手近にいたテロリストを捕まえ、次の食事へと取り掛かる。
「『焔刃』!」
そのとき、緋色の刃がいくつも飛来し、兎の体を傷つけた。
見れば、先ほどクレオと相対していたテロリストの男が魔法を放ったようだった。
彼の持つ剣が振るわれる度、刃が何度も出現し、兎の体に火傷の跡を残す。
「おらおらおらぁ! さっさと仲間を離しやが」
兎の空いていた手が、男のいたところに振り下ろされた。
止まっていた蚊を潰すような何気ない動作だった。しかし、兎が手を離した後には、真っ赤になった床と、ぶよぶよとした白と赤の混ざった肉塊だった。
「ッ」
その光景に悠は口元を押さえる。なんだこれは。何が起こっている。学校がテロリストに襲撃されたときだって驚いたが、まだあのときの方がマシだったと考える自分がいることに悠は気づいた。
早く、俺も教室から逃げないと……。
それと廊下から絶叫が聞こえたのはほぼ同時だった。
悠は少しでも早く教室から出たい気持ちと、絶叫の理由を知りたい気持ちの半々で廊下に飛び出すと、すぐに後者の理由は分かった。
廊下にいたのは、全長二メートルを越える“怪物”だった。そう、怪物。なぜなら、ソレには肩から先にあるはずの腕がなく、代わりに両腹から丸太ような腕が生えていたからだ。
更に言えば、怪物には顔がなかった。首の上に頭は乗っており、ボサボサの髪も生えているが、目も鼻も口もなく、いわゆるのっぺらぼうというやつだった。
「あっぼ、あんちょ、お、おがって」
どこから声を発しているのか、怪物は意味のなさない言葉をつぶやきつつも、その場から動こうとしない。目が見えないのか?
「も、もうやだぁ!」
そのとき、クラスメイトの女子が怪物に背を向け走り出した。
「――――ミツケタ」
てけてけてけてけてけてけてけ!!
「ひ、いやぁああ!」
先ほどまで微動だにしなかったのっぺらぼうは、凄まじい速度で一直線に女生徒の元へ駆けると、その両腕で彼女を抱きしめた。彼女が超音波もかくや、といった甲高い声で悲鳴をあげる。
「やだっ、放せ、はなせよぉ!」
「あっぼ、あ、あんちょ」
「いたっ」
金切り声を止めた女子が短く苦痛を訴えた。いや、その後も、
「いた、ちょっ、つよ……待って、痛い痛い痛い! 放して!」
そこでようやく分かった。のっぺらぼうは徐々に女子を抱いた腕に力を込めているのだ。それも、いっぺんにではなく、徐々に力を加えて。
「痛い痛いいたいイタイいたいッ! 誰か、助けてぇ!」
「ッ!」
その言葉で金縛りが解けたように、一部の生徒が動き出した。
元の世界ならともかく、異世界転移した今の自分たちには『スキル』という超常の力がある。いくら図体はデカくても校庭にいるあの兎に比べれば……そういう思いが彼らにもあったのかもしれない。
しかし、
「なっ……」
「うそだろ!」
スキルを使い、次々と襲い掛かったものの、のっぺらぼうの体には傷一つ付かなかった。
風の槍が貫かんとしても、焔の蛇が体に巻き付いても、石の礫が一斉に降りかかっても。のっぺらぼうはまるで何事もないかのように、事実、体には何の痣さえも出来ずに、腕の力だけを強めていった。
「ぎ、ぎぎぎぎぎ、ぎぃ」
最早人語を話さなくなった女子生徒が泡を吹いても、のっぺらぼうは腕の力を強め続ける。ここにきて、女生徒の救出を諦めて、踵を返す生徒も出始めた。
しかし、悠はそこを動かなかった。既に虫の息の女生徒を救おうと思ったわけではない。本能的に、自分が生き残るために、これからのっぺらぼうが何をするのかを見極めた方が良いと思ったのかもしれないし、ただ単に恐怖で足が動かなくなっただけかもしれないが、そこから動かなかったことだけは事実だった。
女性徒を捕まえてから三分ほどが経ったとき、のっぺらぼうはようやく腕の力を緩め、女生徒を持ち上げた。
すると、ボサボサの髪がぞわぞわっと風が吹いたように蠢き、直後、一斉に女生徒の体に髪が刺さった。
「――――――」
悲鳴を上げなかったのが奇跡だった。それほどまでに異様な光景だった。
皮膚に刺さった髪は、ぞわぞわと蠢き、対照的に女生徒の体は水分を失ったように萎びていく。ここにきて、悠は目の前ののっぺらぼうも、校庭の兎と同じく『食事』をしているのだということに気づいた。
そして、女生徒を食べ終えれば、次は自分が狙われる、と直感的に理解したとき、悠は遅れて教室から逃げ出してきたクラスメイトたちとともに廊下を走った。