眠り
その日もおれは学校で“いつも通りの”日を過ごしていた。
「おはようございまーす」
僕が挨拶とともに職員室に入るが、誰も挨拶を返すどころか視線すら上げない。気にすることなく、自分の席に向かう。
机の上は整頓を通り越して殺風景と言えるくらい何も置かれていない。基本的に僕に回ってくるものなど存在しないのだ。それは仕事もそうだが、生徒の情報だってそうだ。学校にとって僕とは、異世界転生してきた生徒のメンタルケアのための部品。授業も“国語”という皮肉としか思えない教科を任されているが、日本から離れたこの地でも同じく一教師として教鞭を執れること自体幸運なことだ。たとえ生徒と交流する時間が週に一度、教科の時間だけでも、僕は幸せ者なのだ。
ほどなくして教員が揃うと、年嵩の高い教員の号令によって打ち合わせが始まった。とはいえ、自分はこの中では観客のようなものだ。いや、誰もが存在を認知しようとすらしないことを考えれば観客の方がマシか。それでも、話の中で生徒の様子などを聞けるだけでも俺は嬉しい気持ちになる。ああ、早く生徒達に会いたいなぁ。
「葉村先生。今日も良いハブられっぷりですね」
職員室で唯一自分に向けられる言葉。その言葉の主など一人しかいない。
僕は後ろから聞こえた声に振り返り、にこやかに答えた。
「ははあ、俺は生徒の話が聞こえるだけでも幸せですよ、藤堂先生」
そこには、どう若く見ても二十代半ばくらいにしか見えない青髪の美女が佇んでいた。
「ふっ、あなたのその前向きさにはいつも勇気づけられる」
ニヒルに笑ったその人――藤堂はこの学校の教員であり、僕に普通に話しかけてくる唯一の教員だ。
魔族との戦争に対抗する人材を育てるこの学校では、教師も第一線で戦ってきた勇者ばかりだ。藤堂はその中でも特に凄まじい戦果を挙げており、得物である狙撃銃でどんな遠くの敵でも屠ることから『鷹の目』という異名を持ち、魔族から大変恐れられていた。
そんな偉大な彼女に僕みたいな魔力どころかスキルすら持たない学校のお荷物が気に掛けてもらえるだけでも重畳だ。
「いえ、僕はただ空気が読めないだけですよ」
「ふふ、まあそういうことにしておきましょうか。今日は授業は?」
「一年生が一時間目に入っています」
「ああ、よりにもよってクレオ・テートのいるクラスが朝一とは……こういったら不謹慎だが、大変そうですね」
「どんな生徒だって僕は同じく好きですよ」
「ふっ、葉村先生、私たちも人間です……私の前でくらい、たまには愚痴を言っても構わないんですよ? …………たとえば今日の夜、酒場ででも………」
最後の方は小さくてよく聞き取れなかったが、おそらくは僕に同情してくれる、といったようなことを言ってくれたのだろう。気持ちはとても嬉しいが、生憎俺は本心でしか喋っていないのだが……そのとき、見計らったようにベルが鳴ったので、僕は立ち上がった。
「おっと、すみません、藤堂先生。僕は今話した一年生教室に行かなくては……」
「……いえ、こちらこそ引き留めてすみません。頑張ってください」
「はい、ありがとうございます」
少し釈然としない顔の藤堂を少し疑問に思いながら、僕は職員室を後にした。
そんな会話をした数分後にあんなことが起きるなんて誰が予想しただろうか。
「それじゃあ授業を始めるよ」
さて、問題の一年生教室に入り、挨拶をして黒板に板書をしようとしたときだった。
言下に教室の扉が乱暴に開かれ、黒を基調とした服で統一された青年たちがぞろぞろと入ってきた。
「な、なんだ君たちは」
声が裏返りそうになりながらも、僕はなんとかそれだけは言った。
すると、その中の青年の一人が、
「――今から、この学校は俺たちが占拠した。全員、これから俺たちの指示に従ってもらおうか」
と言い、おもむろに剣を抜いた。
「なっ……」
どよめきが一斉に広がった。しかし、次の瞬間鼓膜が破れそうなほどの大音響が鳴り、生徒達は耳を押さえてうずくまった。
「静かにしろ、これが一つ目の指示だ」
その爆音の発生源にいた男は涼しい顔でそう言った。彼の持つ剣が未だ震えているところを見ると、あの剣が今の音を発生させた――つまり彼は魔法師ということか。
さらに周りを見ると、黒服の集団は全員がそれぞれ手に武器を――つまり彼らの“杖”を持っていた。この世界の魔法師は『杖』と呼ばれる媒体を用いて魔法を発生させる。彼らが持っている一見ただの剣や銃に見える物も、その実は全て杖であり、彼らの魔法を発動させるための媒体ということだ。
しかし、これだけの魔法師が、この国の主要施設である、この勇者育成学校に来るとはただごとではない。これはやはり――
「わかった、君たちの要求には従う。だからこれだけは聞かせてくれ。君たちのような優秀な魔法師たちがここに来た理由は一体………」
「はっ、決まってるだろ。お前ら異世界から来たっていう余所者たちを排除して、俺たちが魔族と闘ってやろうって言うんだよ」
優秀、という言葉に気をよくしたのか、リーダー格の男は、ここで言葉を砕けたものにすると、そう言って嘲笑うように口元を歪めた。先ほどまでが作ったもので、これが彼の素の部分なのだろう。
「先に言っておくが、逃げようとか、俺たちを倒そうとかって馬鹿なことは考えるなよ。既に下の階にいる二年生、三年生の先輩たちも俺たちの仲間が同じような状況で捕らえている。大人しくしてれば危害は加えないから静かに――おい、言ったそばから何してんだ、てめえ」
魔法師の男の視線の先には、自分の席から立ち上がった一人の女生徒の姿があった。
あれは、一年の中でも屈指の強力なスキル持ちであり、クラスの中心人物でもあるクレオ・テートだ。
「あら、失礼。あなたたちのような俗物に命令されるのって、私我慢できなくって」
僕は頭を抱えたくなった。日頃から高慢な態度が目につく生徒だったが、よもやこの状況でもその姿勢を崩さないとは……。
「……下手に出てりゃあ偉そうにしやがって。一人くらい消したところで、特に問題はねえんだぞ、ああん?」
「その思い上がりがどこから来るのか、俗物の思考回路に疎い私では理解に苦しみます。そもそも私たち異世界転移者は、この国の主戦力たるあなたたち魔法師が惰弱であるが故に召喚されたんですよ?」
「はっ、その勘違いを正して、国王に認めさせるのが俺たちの目的なわけだが……実演した方がそりゃ説得力は増すってもんだよなぁ?」
「や、やめたまえ!」
気づけば体が勝手に動いていた。
僕はクレオと男の間に立ち、必死に生徒を宥める。
「クレオ君、ここは一度彼らに従いたまえ! ここで迂闊に行動して、君に何かあったら――」
「あら、権力だけを振りかざす蟲は黙っていて頂けますか? 同じ異世界転移者なのに、あなただけ『スキル』を貰えなかったのも、その臆病さが原因ではなくて?」
それは僕にとってタブーな話題だった。
頭がドクンと脈を打ったかのように跳ね、視界が一瞬ぼやけるが、僅かに教員としての自覚が勝った。
マグマのような怒気を抑え込むと、声を潜めて、
「僕のことはなんて言ってくれてもいい。だから、今だけは僕のいう事を――」
「なぁ、お前なに勝手に話進めてんの?」
すぐ近くで、あるいはとても遠くで、風船が破裂するような音が聞こえた。
視界が揺れ、椅子に座る生徒たちが壁に座ったような角度になったとき、ようやく自分が倒れたことが分かった。
急速に身体の中から命というか、とても大事なものが抜け出て行く感覚。異世界転移という波乱万丈な経験もした僕の二十七年という人生が、まさかこうも突然に、そしてあっけなく終わるなんて思いもしなかった。
でも、これでもう、自分の生徒を死地へと送り込むことをしなくてすむ――
僕の意識はそれを最後に、ぷっつりと途切れ、二度と戻ることは
「――させんよ」
「――――――えっ」
目が醒めると、木張りの天井が見えた。
「ふっ、寝顔だけは随分安らかだったな」
背筋が凍るほどの蠱惑的な声が横から聞こえた。
体を起こし、そちらを見ると、
「さあ、それじゃあ契約を果たすとしようか」
そう言って悪魔は妖艶に微笑んだ。