表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

椿の山

作者: 壱葉竹鶴

 いつものように夫と二人、与謝娘酒造に酒を買いに行き、帰りに道の端にある椿を見ていた。車を運転する夫に綺麗ですねと言うと夫から

「おお、そうです。あっちに大きな椿のあるから行きませんか」

と誘われた。買いたての下駄をはいて浮かれていた私はぜひと答える。すると夫は車をUターンさせて色々とその椿のことを教えてくれた。そうしているうちに山に入る。美しい緑の中で気持ちが休まるのを感じ、その後に力が湧く。

 何年も外でほとんど歩けていない私は少し不安に思い、いざという時に座れるようにと夫に車椅子を持って上がってもらった。車を降りてから登る山の道は杖が置いてあった。急な斜面で上がって行く人が使えるように置いてあるようだ。降りてくる人達は一本か二本その杖をついていた。私は外で可能な範囲で使えるように持って行っていた杖をついて夫と一緒に歩いた。木の影になっているため光で目が閉じてしまいそうにはならなくてすんだ。非常に涼しく、登るに連れて肌寒くさえ感じた。

 川が山の上から流れ落ち、その向こうにかつて段々畑があった跡がある。そのことに私はちっとも気づかずにあちこちを見ながら登っていた。夫が同じように周りを見ながら畑の跡に感嘆の声を上げていて初めて興味を示し、私は何のことなのか聞いた。すると指を向けてそこに住んでいた方達が移り住んで田を必要として始めたと思われる棚田を山の形と田の跡の形でわかるように教えてくれる。それで初めて確かに棚田の跡がある様が見て取れた。その時の感動といったらなかった。登りながら同じ山の様子を見ているのに見えている景色が違うことにも噛み締めるような面白さを感じる。一端体力に限界がきて夫の持って上がってくれた車椅子に座らせてもらい休む。それから再びあと少しだと進んで椿の木に辿り着いた。夫はすぐに私が座れるように折り畳んでいた車椅子を広げてくれた。ふっと息をついて椿を見上げる。スマートフォンで写真に撮ろうにも全ては写りきらない大きく立派な木がそこにはあった。肩が冷えるくらいの山の中で葉と花が変わらぬ大きさの強さみなぎる椿があった。冷たい空気を吸いながら出る言葉は「ああ」くらいだった。例えようのない命の木だった。夫は

「ここに住んでいた人達はきっとこの木を神のように感じていたでしょうね」

と言う。私自身も感じたことだった。しばらく見つめて、寒さに肩が震え始めたので立ち上がり、二人で山を下りた。下りる途中で私は今度は自分の視界にはっきりと棚田が見えた。気づくことで自分の中の世界が広がる。それは素晴らしく魅力的なことだ。そしてその山で私は数年ぶりに600メートル程も歩けたのだ。私は気持ち良さや浮かれ気分でそれだけの距離歩いたとは知らなかった。車に乗ってから夫が教えてくれた。弱り切って首もすわらなくなりリクライニング車椅子に横になった状態で夫に押してもらい移動をしていた自分が嘘のようだった。日々の積み重ねの大事さを感じる。そうありたいと思い続けてきた自分に近づいていけているように思う。自分と夫が何とか出来るぎりぎりの時まで私は家で夫の帰りを待ち続けていたい。何年後か最期の時への不安と苦しみが増していっても可能な限りで良い。ここで帰ってくる夫を待ち続けたいと改めて思う。

 翌日は疲れで横になってばかりだったが、勢いがついたのかグリオーマの治療、維持療法での抗がん剤が抜けてきたからか色んなもののタイミングなのか長く移動するほとんどを車椅子に乗り、可能な時には杖をつくというものだったのが庭やスーパーでもほとんど歩けるようになった。体力をつけたいとずいぶん前に夫に買ってもらった子供用の竹刀を部屋でふることも出来るようになった。そして眼瞼けいれんで一度は目が覚めても開かなくなっていた目が、ある程度ならば光を受け取れるようになった。あの椿の山とかつてその土地に暮らしていた人達の優しく輝く心を受け取れたような気がする。優しさは美しい。人も人でないものも。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ