8.運命の出会い
大樹のすぐ近くに、小さな泉がある。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた窪地の底にあるが、雨水が溜まったものではない。驚くほど澄んだ水は窪地と周囲の木々を映して景色に紛れている。よく見れば泉の中心部で水底の土がもくもくと盛り上がり、そこから湧き出ているとわかるだろう。張り出した枝葉が水面の半分に影を落とし、木漏れ日が斑模様を作っている。周囲は蓄積した腐葉土によってぬかるみ、気を付けないと足を取られて転んでしまいそうだ。
そんな泉の淵を素足で歩けば、一歩ごとに土色の靄が透明な水中に広がって、水面に映る景色は波紋に歪む。海辺を歩くのとは全く違う感触を、アウラは恐る恐る楽しんだ。
打ち寄せる波は無く、足元の砂が持って行かれる感覚も無く、水はきりりと冷たい。立ち昇る水からは潮の香ではなく、土と緑の匂いがした。聞こえるのは海鳥ではない鳥の声と、チッチッという虫の声、ざわざわ揺れる葉の音。耳を澄ませても波の音は聞こえない。生まれ育ったスケロイ島にも森はあるがまるで違う。見知らぬ異界のようである。
初夏の陽気とはいえ、冷たい水に足を浸していたせいか寒くなってきた。水辺にちょうど良い倒木を見つけたので、そこに腰かける。表面を覆う柔らかい苔の感触に最初はぎょっとしたものの、慣れれば柔らかくて気持ちいい。足を泉の水で洗おうと動かした瞬間、水底から何かがシュッと飛び出して行った――魚だ。
アウラはとても不思議に思った。
あの小魚は一体どこから来たのだろう。
この小さな泉で生まれたにしても卵を産んだ親がいるはずだ。ならばその親はどこから来たのか。その親のまた親の、最初の魚はどうやってこの泉に来たのか。もしかするとずっと昔には陸上を歩く魚がいて、その子孫なのかもしれない。そうでないなら、鳥が川で捕まえた魚をこの泉に落としてしまったのかもしれない。
いずれにせよ、あの小魚はこの小さな泉で生きていくしかない。自分では何一つ選べず、与えられた運命を受け入れるしかない。
(わたしはそんなの、嫌だ)
やがて水面は静まり、自分の姿が映るようになった。鮮やかな緑色の髪と瞳をした自分は別人のようでもあり、奇妙だ。フィニが用意した粗紡布に頭を通す穴を開けただけの粗末な服は腰紐で縛ってあり、裾は脛に届く。初めて身に付けたそれは服というよりも一枚の布で、無防備過ぎて不安になるが、肌の露出は多いほうがアウラの計画には有利かもしれない。腰紐に下げた小さな黒曜石のナイフは鎧に突き立てれば砕けてしまいそうな代物だが、何も持っていないのも不自然だという理由でドルイドから借りた唯一の武器である。
アウラは顔を上げて、木々の向こうにそびえ立つ大樹を見上げた。こちらからは全く見えないが、そこにいるカティヤとファーンヴァースからはアウラが見えているはずだ。何かあればすぐに飛んで来るだろう。本心ではそれを邪魔だと思っていても、怪しまれずに断る理由が思いつかなかったので仕方ない。あとはエリアスが一人でこの泉に現れるか、護衛を連れて現れるかでアウラの計画は大きく変わる。
(大海の神オルシスよ、どうかわたしにエリアスを討たせて下さい。彼が一人でここに来ますように……)
果たして、アウラの願いは叶えられた。しばらく泉のほとりで待っていると、森の茂みの向こうから誰かが鎧を鳴らして向かって来る。音を聞く限りは一人だ。
エリアスが一人で来るかどうかは、それほど分の悪い賭けでもなかった。女一人と会うのに護衛を連れてくるような北方の男はまれで、王子ともなればなおさら。彼らにとって体面はとても重要だ。命と同じか、それ以上に。
草木をかき分けて現れた男はカティヤから聞いたとおりの外見だった。身長は平均的でアウラと同じくらいだが横幅は何倍もあって丸々としている。猪を模した面甲とその下の剛毛で顔はほとんど分からない。特徴的なアード兜から出ている毛皮で肩まで覆われているので、それがよりずんぐりした印象を強め、まるで立ち上がった猪のようだ。まさしくアードの戦士らしい。アード地方ではよく猪が意匠に用いられる。強さと豊穣の象徴なのだと彼らは言う。
それにしても、夏だというのに肌を全く露出させていないのは奇妙で、アウラにとっては都合が悪かった。黒曜石のナイフ一本では殺りようがない。どうするか考えながら、ひとまず計画通り脅えた演技に挑戦して、「だれ――」と口にした瞬間であった。
エリアスらしき男は泥濘で、ずるっと片足を滑らせた。
そのままひっくり返って、大きな尻をこちらへ向けたまま窪地を滑り落ち、泉に突っ込む。派手な水しぶきが上がって、飛沫はアウラにまで届いた。緊張していたのが馬鹿らしくなるようなズッコケぶりに唖然とし、次の瞬間には笑いが溢れ出た。ずんぐりした戦士は泉の中に座り込んだまま、笑うアウラを見ている。面甲に空いた覗き穴の奥から暗青色の瞳で見つめられているのに気付いて、〝しまった〟と口を押さえた。
アード地方の王を名乗るヨルゲンの息子がドルイドの娘に笑われて黙っているとしたら、それは怒りによってしかない。いかに鈍くさい相手とはいえ、完全武装の男とやり合うなど愚の骨頂。
(逃げなきゃ)
そう思ったアウラだが、逆にこれは利用できるかもしれない、と閃いた。激昂したエリアスが襲い掛かってくればアウラを守るためにカティヤが来てくれる。その騒動の中でエリアスを殺せるかもしれない。そんなアウラの物騒な考えは、またしても予想外の展開によって煙に巻かれた。
「……良かった。元気そうで」
恥辱も怒りも全く感じさせずに剛毛の髭の下で王子は言った。アウラは思わず安堵して、演技を忘れて答える。
「ふふっ、緊張して損しちゃった。でも、あなた変わってるね。怒ったかと思った」
「えっ、ああ……戦士たちは恥だなんだって、すぐ怒るからな。そりゃあ、ちょっと恥ずかしい登場だったけど怒ったりしないよ。それに……君の笑顔が見られて嬉しかった」
「……あなた、本当に変わってる……」間抜けな登場よりも、彼の言葉にずっと驚いてアウラは本心を口にした。そこに不快感はない。
彼は肩をすくめた。「変わり者だっていう自覚はあるんだ、エルネッド。挨拶が遅れたけど、僕はエリアス」
〝エルネッド〟というのはコランが考えたアウラの偽名だ。
「ああ、あなたがエリアスね。コラン老から聞いてる。よくここが分かったね」と、わざとらしくアウラは応じた。
「そのコランという人から聞いたんだ。ここが君のお気に入りの場所で、ここにいるだろうと」
コランの話は全て打ち合わせ通りの嘘で、アウラがこの小さな泉に来たのは今日が初めてだった。猪の面甲から覗く暗青色の瞳は、疑っているのか、信じているのか、窺い知れない。
「うん、夏は特にね。泉の水は冷たくて気持ちいいし、それにここ、魚がいるの。不思議でしょう?」
それはほとんど正直な言葉になっていた。アウラは確かに、この場所を気に入り始めている。エリアスは泉の中で落ちた場所に座ったまま、ぶ厚い胸を抱えるようにして太い腕を難儀そうに組んだ。なめし革の擦れるギュギュッという音がする。それから独り言のように話し始めた。
「閉ざされた泉に魚がいる理由はいくつか考えられるけど……一番可能性が高いのは、ここが昔は川だった、ていうとこかな。ほら、ここから北西にゴルダー河の支流の一つが流れているだろう?」
ゴルダー河は、世界の北限である〈世界の果て山脈〉から流れ出る大河だ。巨大な山脈に付いた小さな傷のようなスパイク谷から流れ出ていくつもの支流に分かれながら北方を横断し、スケイルズ諸島のある〈鉄の海〉に注ぎ込む。
興味を惹かれて「うん」とアウラはうなずいた。
「そこからさらに分かれた細い支流がここを流れていたんじゃないかな。だけど川は徐々に地面の下へ潜り、この泉だけが残った。ここにいるのは取り残された魚の子孫というわけ。あくまで僕の推測だけど」
「そういえば、ドルイドたちはこの辺りを〈古き川〉って呼んでた!」自分もドルイドの一員であるという設定を忘れてアウラは身を乗り出す。
「昔ここに川があった、その名残かもしれないな」うんうん、と自分の言葉にうなずくエリアス。
「でも、川が地面に潜るなんてことあるの?」
「あるらしい。そういう場所を掘ると水が湧き出てくるって本に書いてあった。川は干上がってしまったんじゃなくて、地面の下を流れ続けているんだって。たぶんそこから溢れたぶんがここに湧き出ているんじゃないかな」
「この泉の魚と同じくらい不思議。地面の下を流れる川があるなんて」
「僕もそう思ったから覚えていたんだ。井戸作りに関する本だったと思うけど……」
そこで、エリアスの言葉はしぼんで消えた。彼はのっそりと立ち上がる。尻のあった場所を中心に土色の靄が水中を広がり、再び濁った。
「ごめん、僕は、まず君に謝らなければいけなかった……アードとスケイルズの対立に関係ない君を戦いに巻き込んで悪かった。怖い思いをしただろう」
その言葉で、戦いの記憶と共に怒りが――そして、おそらく恐怖も――蘇ってきて、アウラは下を向いた。それらが表情に現れないよう演技するのは無理だ。昨晩の決意を一時とはいえ忘れていた自分に腹が立ち、水面に映る緑の髪をしたエルネッドを蹴る。歪んだ水面に死んでいった仲間たちの顔が見えたような気がした。しかしその顔は晴れやかで、恨みつらみは残っていない。彼らは満足して〈水の宮殿〉へと旅立って行った――そんな夢を見たような気がする。
「本当に、ごめん」エリアスは頭を下げて謝った。
アウラはうつむいたまま、何とか平静を取り繕う。「……いいよ、気にしないで。あなたたちって、そういうもんでしょ」
「そうだな……」
泉が再び澄んだ色に戻るまで、二人は沈黙していた。ぽたりぽたりとエリアスから落ちる水滴が幾重にも波紋を作る。それを数えながらアウラは冷静さを取り戻すよう努め、考えていた計画を実行すべく口を開いた。
「ねえ、その鎧、脱いだら? すっごく暑そう。見てるこっちまで暑くなる」
唐突すぎたか、エリアスは慌てた。「えっ、いや……大丈夫、暑くないよ」
明らかな嘘にアウラは少し苛立つ。「嘘ね。そんなわけない」
「僕はその……少し変わってるから」
エリアスは顔を背けたが、アウラはしつこく食い下がった。ここで話を終わらせるわけにはいかない。「じゃあ、脱がない理由を当ててあげる。えーと……実は人間じゃないとか」
エリアスにとっては続けたくない話題のようで、彼はすぐに答えなかった。しかし、せめて兜だけでも外させなければ黒曜石のナイフしかないアウラにはどうしようもない。長いようで短い一瞬を辛抱強く待つと、ついにエリアスは口を開いた。
「……はずれ」
ここぞとばかりにアウラは畳みかける。
「全身イボに覆われてる」
「はずれ……」
「魔女にかけられた呪いのせいで、素顔を見られるとカエルになる」
「はずれ」
「じゃあ――」ここまではエリアスを乗せるための冗談だ。次こそが本命の一言。「――お父さんに脱ぐなと言われている」
エリアスは口をつぐんだ。その沈黙こそが答えだ。一人前の男なら、父親の言いつけに背けない、などという理由を正直に答えられるわけがない。図星を指され、怒った彼は鎧を脱ぎ捨てるはずだ。普通の男なら、北方の男なら、そうするはずだ――。
しかしそれは、アウラの胸をもざわつかせた。父親の言いつけに背けない――それは自分も同じではないか。
そして、エリアスは普通の北方の男ではなかった。わずかにうなずき、小さな声で答える。「……当たり。情けない奴だと思っただろ?」
北方人であれば誰でも情けないと言うだろう。素直に認められてしまって困惑しつつもアウラはそう答えるつもりで口を開いた。なのに、口をついて出たのは全く逆の言葉だった。「わたしは、そうは思わない」
「えっ」
自分がなぜそんなことを口走ったのか考える間もなく、あたふたと説明しようとする。「あ、えっと……だって、あなたのお父さんってアードリグの王様でしょ。どんな人かは知らないけど、きっと厳めしくて、力が強くて、たくさんの強い戦士に命令できて、簡単にあなたを殺してしまえる……それなら、仕方ないと思う。逆らったら、どんな目に遭わされるかわからないもの」
「僕にとって、ここで一番不思議なのは魚でも川でもなくて君だよ、エルネッド。それでもやっぱり、普通なら情けないと思うよ」
これだ、とアウラは思いつきを口にした。「ならさ、ちょっと反抗してみない? ここにはわたしたち二人の他に誰もいない。誰も見てない。その鎧、脱いじゃおうよ。わたしを信用してくれるなら、だけど……」
エリアスは視線を落として、黙り込んだ。しばらくそうしてから顔を上げ、決心したようにうなずく。「……いいよ。僕もこの鎧にはうんざりしてたんだ。でも、誰にも言わないって約束してくれ。外の連中だけじゃなく、ドルイドの仲間にも」
「わかった」
アウラがうなずくと、エリアスは一瞬躊躇ってから、革の手袋を外した。現れた彼の指は、体型に似合わずほっそりとして繊細だ。その指を髭の下に入れて留め具を外し、頭に手をやって兜を脱ぐ。それから、後頭部で何かの結び目を解いた。
(あっ!)
アウラは驚きに目を見張った。ばさり、とエリアスの顔の下半分を覆っていた付け髭が外れたのだ。しかしアウラが目を奪われたのはそれだけではない。その下から現れたのはとても体型とは不釣り合いな、むしろ繊細な指先と釣り合う、すっきり整った若者の顔だ。
驚くアウラの目の前でエリアスは鎧を脱ぎ、腕や脇腹を止めている紐を緩め、背中にも手を回して同じようにやってから、異様にぶ厚い綿入れを脱いで上半身を露わにした。アードの猪戦士の中から現れたエリアスの真の姿は、父のエイリークとも、筋骨隆々な許嫁のアイオルフとも、今まで見たどの北方の戦士とも違い、ほっそりとして美しかった。汗でぐっしょり濡れた栗色の髪は細長い首に張り付き、浮き出た鎖骨に溜まっていた汗が、つうっと平らな胸を滑り落ちていく。へこんだ腹、細い腰まで汗に塗れているが不快には感じない。
そう、不快ではないのだ――そう感じている事実にアウラは愕然とした。
初めて会った瞬間から、エリアスは不快ではなかった。戦いと仲間の死を思い出して怒りを燃やし、意識して憎しみを向けようとしなければ憎めないほどに。
(そんなはずない……わたしは彼を殺すつもりでここにいる。そのために彼をそそのかして鎧を脱がせた。死んだ仲間のために、自分の未来のために、彼を殺さなくては……)
心の中ではそう繰り返しながらも、エリアスの美しい裸体にアウラは目を奪われている。彼は泉の中に膝をつき、水をすくって顔に当てた。「冷たい! 気持ちいい!」泉の水を頭から被り、髪をかき上げ、首筋の汗を洗い、無邪気な笑顔を見せる。「最高の気分だよ」
――アウラは何故だか、かつて〈二人のシーリ〉を話してくれた吟遊詩人を思い出した。顔も名前も覚えていないのに、彼の繊細な指の動きだけは今でもはっきり思い出せる。宴の晩、楽器を操る彼の指に、アウラは確かに魅了されていた――。
「エルネッド?」
思い出に浸っていたアウラは我に返った。「え? ああ……ごめん。あんまりにもその、違ってたから……どうしてヨルゲン王は、あなたにそんな格好をさせたんだろう」
エリアスの笑顔は急速に翳った。「せめて見た目だけでも一人前の戦士に仕立てるためだろうね……見ての通り、僕は痩せっぽちで、弱そうだから」
「外見を変えても中身が変わるわけじゃないのに」
その言葉はまたもや自分に返ってきた。外見は緑の髪をしたドルイドのエルネッドでも、中身はスケイルズ諸島の王エイリークの娘アウラであることに変わりない。だからエリアスを殺さなくてはならない。しかしエルネッドは彼に好意を抱き始めている。彼をもっと知りたいと思っている――いや、それは演技だ。
「僕もそう思う。小賢しい浅知恵だ」エリアスは肩をすくめた。「だけど、僕らの世界ではそれに意味があるのも事実だ。ドルイドの世界と違って……君たちがうらやましいよ」
「ここにいる間は、わたしにとって、あなたはただのエリアスだけどね」
何気ない一言だったが、彼はいたく感動したようだった。「ありがとう……そんなふうに言ってくれる人はいなかった……」
「でも、エリアスがお父さんの言いつけに背くような子供だったとは思えないな。そんなお父さんなら、もっと食えーって無理にでも食べさせそうだし、厳しく鍛えそう。お父さんに従っていれば、もっとこう……大きくなってたんじゃない?」
彼は再び肩をすくめた。「僕は妾の子で、ヨルゲン王と暮らしたことはないんだ。子供の頃に数日だけ一緒だったけど、その時だって会話すらしてない。ほんの一年前に呼び出されるまではね」
アウラが知っているのは一年前、ヨルゲンの二人の息子が死に、突然三男のエリアスが現れたということだけで、詳しい経緯は知らない。同じようにエリアスも、アウラの婚約や弟の存在は知らないだろう。それほどまでにスケイルズ諸島とアード地方の関係は悪化していて、人の往来もめっきり無くなってしまった。
「全然嬉しくなさそうね」わたしは逆に玉座から遠ざけられようとしているのに――そう思うと、心の中で怒りの炎が火勢を増す。
「……母が生きていたら、喜んでくれたと思う。与えられた小さな家で母はいつも言っていた。〝いずれ父王様が迎えにくる。その時には、私もあなたも立派でなくてはならない〟とね。実際、母は死の床にあっても立派だったし、そんな母を尊敬していたけど、だから……なおさら、その言葉が嫌いだった。本を読んでいると、そういうあれこれを考えなくて済むから楽だったのかもしれない」
(わたしはそんな人生、御免だ。誰かに与えられるのをただ待って死んでいくなんて)
それを口に出して言うほど愚かではなかったが、かといって何と言うべきか分かるほど賢くもなかった。
パシャッ、とエリアスはもう一度泉の水を顔に当てて、水浸しのまま立ち上がる。「こんな話、一生誰にもしないと思っていた。君が最初で最後の人かも。けど、聞いてもらったら心がすごく軽くなった気がするよ。ありがとう」
「……ううん、わたしで良ければ、いつでも聞くよ」
「そうできたらいいな」
少し切なげに言って、エリアスはぶ厚い綿入れを身に纏い始めた。表面には部分的になめし皮が使われているが、布の部分も多いので水を吸ってしまっている。綿入れを絞って水気を切り、腕を入れ、不快そうに顔をしかめる。「そろそろ戻らないと。連れが様子を見に来てしまう」
「手伝う」
アウラは腰かけていた倒木から泉の中に下りた。淵を横切り、土色の濁った痕跡を残しながらざぶざぶとエリアスに近付く。
「ああ、うん、ごめん。解くのはいいけど、結ぶのは難しいんだ」と、背中の止め紐を見せる。アウラは彼の背後に立った。エリアスは完全に無防備で、うなじから腰まで、白くて滑らかな肌が露出している。
これこそアウラの待ち望んだ瞬間であった。
腰に下げた黒曜石のナイフを振り上げ、首の後ろに突き立てれば、それで終わる。カティヤが飛んで来ても間に合わないだろう。エリアスは死に、アウラは武勲を得る。
戦士たちの尊敬と支持を得られれば、戦争が続く間は結婚を先延ばしにできるかもしれない。そして続く戦争の中で、さらなる武勲を得られるかもしれない。そうなれば、アウラを支持する戦士たちも増えるかもしれない。やがて玉座を要求できるほどになるかもしれない。
かもしれない。かもしれない。かもしれない。エリアスの命と引き換えに得られる不確かな未来の可能性。
――それは、彼より価値あるもの?
エリアスの細いうなじを目の前にして、エルネッドが問う。
(少なくとも、皆の敵を討てる。子供の頃から遊んでくれて、戦い方を教えてくれた人たちの。この恨みを晴らせる)
――あの戦場にエリアスの姿は無かった。彼が殺すところなんて見てないでしょ。
(そんなの、関係ない!)
――絶対に後悔する。だって、わたしはエリアスに好意を持っている。死んでいった仲間たちと同じように。ううん、それ以上になる予感がある。
(もう黙って! エルネッド!)
――エルネッド? 何を言ってるの。そんなの設定でしょ。わたしは、わたし。
「エルネッド?」エリアスが振り向き、千載一遇の機会は失われた。
「え、ああ、うん、結び方どうしたら良いのかなって……」
「あまり固く結ぶ必要はないよ。もう戻るだけだから、適当で」
エリアスは再び前方を向いたが、背後のアウラに気を配っているようだ。気付かれたかもしれない……わなわなと震える手を、ぐっと握りしめる。まだ微かに震える指で一つずつ止め紐を結んでいく。
「ありがとう。助かる」
アウラは動揺を抑えつつ問うた。「……また、会えるかな?」
「もちろん! 君さえよければ」エリアスの声は嬉しそうだ。
(でも……次の機会を得ても……その時、わたし……)
エリアスが鎧を身に着け、付け髭をし、猪戦士に戻って手を振りながら去っても、アウラは泉の中に立ち尽くしていた。




