68.挑戦権(2)
勝利を確信したハラルドが弓を下すのと入れ違いに、すかさずアウラは弓を引いた。とても真似できない神業を見せつけられ、彼の言うとおり心は負けを認めてしまっていた。それでも弓を引いたのはただの意地だ。潔く負けを認めるより、無様でも最後まで足掻いていたかっただけだ。彼女の瞳はすっかり動揺し、指先から腕から、全身がこわばって酷い射形になっていた。そのまま矢を放っても、幹にかすりもしなかったに違いない。自分の人生を終わらせる一矢を放とうとした瞬間、アウラは渓谷を渡る風の中に囁きを聞いた。
――大丈夫。
――力を抜きなさい。
それはセンナの声のようであり、キアンの声のようでもあり。
――狙いは一点のみ。さあ、今です。
そして、コランのようでもあった。
力が抜け、自然体となって我知らず指先から矢が離れる。淀みない弦の音が、まるで水面に落ちた一滴のように響き渡った。弓が手の中でくるりと反転し、弦は腕の外側に当たる。矢羽が風を切って鳴り、軸が美しい螺旋運動を続けながらゆっくり飛んでいくのが見えた。
こーん。アウラの矢もまた幹の中心を外した――が、ハラルドが射落とした葉の中心を撃ち抜いていた。
誰一人として声を上げる者はいなかった。ただ全員が、じっと矢の刺さったクロカバノキを見つめている。不規則に舞い落ちる葉を、横風の中で射貫くなど奇跡だ。水を打ったような静寂の中、アウラはゆっくりと弓を下してため息を吐いた。それからハラルドに視線を向ける。どちらも神業で、第三者が勝敗を決めるのは困難だったろう。しかし当人同士には分かっていた。ハラルドは目を伏せて首を左右に振る。
「どうやら、負けを認めるのは俺のほうだったようだな」
アウラは黙ったままうなずいた。最後の一射は偶然だったかもしれない。渓谷の風が落ちた葉をふわりと持ち上げて、矢の射線をずらしただけの結果なのかもしれない。もしかしたらあの囁きは本当で、魔法の助けがあったのかもしれない。それでも勝ちは勝ち。勝負とはそういうものだ。命を賭けた真剣勝負となればなおの事。二人はしばし見つめ合った。この勝敗に異を唱えられる者は誰もいない。ハラルドとこうして間近に接するのはとても久しぶりで、そしてこれが最後になる。
「ありがとう、ハラルド。恩を仇で返すことになってごめんなさい」
アウラでさえ、ハラルドが笑うのを見たのは数えるほどしかない。そんな彼が小さく微笑んで囁いた。「……いや、これで良かったのだろう。きっと」
アウラも微笑みで応えて背を向けた。「いろいろありがとう。後の事は頼んだ」
ハラルドは返事をしなかったが、答えは聞かなくともわかっていた。彼をよく知らないドルイドたちはまだ不安げな顔をしている。アウラは努めて元気よく声をかけた。「大丈夫。さあ、出発しよう。これは一時的な足止めにしかならない。フィニ、先導して。わたしは念のため最後尾を守る」
「エリアスを待たなくていいのか?」とフィニ。今はそれを言って欲しくなかった。
「彼は必ず戻って来る。さあ、行こう」
「わかった」
先頭へ向かおうとしたフィニを呼び止める。「あ、フィニ」
「ん?」
「あのさ、もしかして魔法使った?」
「いいや。使ってないよ」
どことなく嘘っぽかったが、いまさらどうでもいいか、とアウラは苦笑した。北方を捨てる自分が北方人の誇りなど気にしてどうするというのか。「さ、行こう」アウラの一言でドルイドたちは再び北を目指して渓谷の道を進み始めた。




