40.狩りのはじまり
まさか五日で戻って来るはめになるとは――と、ハラルドは眼前に広がる〈骨の湿原〉を見て思った。エイリーク王を護衛して帰島後、その場でドルイド討伐軍に参加するよう命じられて舞い戻って来たのだった。スケロイ島の港にはアード地方への出撃に備えて船と戦士たちが集まっていたから、船団を編成する手間はほとんど無かった。
仲間の船長三人と戦士七〇人は、ここに来てピリピリした緊張感を漂わせている。それはこの〈骨の湿原〉がいわくつきの古戦場だからではなく、これから始まるドルイド討伐という気乗りしない任務をアード地方の連中と一緒にしなければならないからだ。四人の王が誓約を交わした場所には円形のテントが張られていて、その周囲ではアード勢が集って出発を待っている。ハラルドは味方に付いてくるよう手で合図して、そのテントに向かった。歩きながらざっと様子を見ると、アード勢も取り決めどおり七〇人弱の戦士を揃えている。他にも糧食と物資を乗せた荷車が一〇台に、牛馬と世話人、奴隷たちという大所帯。対してスケイルズ勢はほとんど手荷物のみだ。取り決めで糧食等はアルダー地方のエドヴァルド王が負担することになっているし、遠征に必要なものはゴルダー河で待機している船にある。
今回の件でスパイク谷だけ何も負担していないのは、前回のオークとの戦いで消耗しているからだという理由による。それを持ち出されると反論するのは難しい。北方だけでなく、このテストリア大陸全土が――南のファランティア王国、そしてさらに南のエルシア海沿岸地域まで――スパイク谷の犠牲によって守られていると言っても過言ではない。その認識が北方より南の地域にあるかどうかは別として。
ハラルドたちの接近に伴って、アードの戦士たちも緊張感を高めていった。それはやがて険悪な雰囲気へと変わっていき、薄ら笑いを浮かべたり、地面に唾を吐いたりと挑発的な態度になって現れ始める。それを平然と受け流せるほどスケイルズの戦士たちは大人しくない。一触即発という空気が漂う。夏の〈骨の湿原〉は水浸しなので、大地の神の領域であると同時に大海の神の領域でもあるから、両者とも死を恐れる理由が無い。ハラルドは足を止めて振り返った。
「いいか。ここで問題を起こせば我が王への裏切りになるだけでなく、四王に対する反逆行為になる。仲良くする必要はないが、血は流すな。わかったな!」
アード勢にも聞こえるよう敢えて大声を響かせると、味方の戦士たちは渋々うなずいた。肩越しに覗き見ればアード勢も気勢を削がれたようになっている。
「わかればいい。全員ここで待て。騒動は起こすな」
ハラルドは船長三人と共にテントの前に立った。男が五人も入れば窮屈そうな大きさなので、入口に二人残して幕を潜る。中に入った瞬間、魚ではない乾いた生臭さが鼻をついた。まるで肉屋のような臭いだ。椅子に肥満体を預けて両足を組み立て机――誓約が行われた机――に乗せ、限界を試すかのようにギシギシと揺すっているのはエリアスである。このドルイド討伐でアード勢を指揮すると聞かされている。
エリアスは手にした酒杯を掲げて、「よう、さすが海賊。思ったより早かったな。一杯どうだ?」と陽気に言った。外の険悪な雰囲気などどこ吹く風。大物なのか無神経な馬鹿なのかは分からない。ハラルドはずんずんと目の前まで歩き、その酒杯を受け取った。
「いただこう」
ハラルドはワインの甘さが好きでは無かったが一気に飲み干した。北方の豪族同士では、こうしたやり取りに意味がある。
「いい飲みっぷりだ。気に入った」エリアスは足を地面に下ろして立ち上がった。「俺はヨルゲン王の息子エリアスだ。あんた、四王の会談の時にいたな?」
エリアスは丸々とした腹の横から手を差し出してきた。身長はハラルドより低く、肩までしかない。その手を取ると、べたべたしていた。
「ああ、いた。エイリーク王の従士でハラルドだ。スケイルズ勢を率いる」
「よろしくな、ハラルド」エリアスはもう一方の手のひらを見せながら言った。敵意はないという意味だろうが、もてなしの授受を慣習とする豪族同士ではあまりしない。まるで旅人同士が道端で出会ったような仕草だ。ハラルドが了解の意味でうなずくと、エリアスはさっそく酒瓶を取ってワインを注ぎなおした。「なんか変だったら言ってくれよ。俺はほら、非嫡子でアードリグ育ちじゃねぇからさ」
まるで心の中を読まれたようで、偶然だろうかとハラルドは訝しんだ。エリアスはどっかりと椅子に尻を戻す。「あんたもまあ適当にやってくれ」
ハラルドは反対側の椅子を引いて座った。小さな椅子で、長い脚を少々持て余す。テーブルに肘をつき、鼻歌でも始めそうなヨルゲンの息子に真剣な眼差しを向ける。「酒は後でも飲める。それより、今後のことを話そう」
エリアスは「ぶへへっ」と下卑た笑みを浮かべて、「あんた、仕事熱心なんだな。ますます気に入った」などと言って杯をあおる。
「考えはあるのか?」
どうせ何も考えてはいまい、というハラルドの予想はあっけなく裏切られた。
「おいおい、俺は〝エリアス〟だぜ。考えはある。ていうか、もう始めてる。あんたが来るまで待てなくて悪かった」
エリアスが〝こっちに持ってこい〟というように手招きすると、テントにいたアードの戦士が幕を開いて出て行った。少しして、テントの外から「娘は生きているのか? 娘に会わせてくれ」という声が近づいてくる。
声の主はすぐにテントの中へ引きずられて来て、膝の裏を小突かれ、エリアスの前に跪かされた。三〇手前くらいの男で、両手は後ろで縛られ、短い歩幅でしか歩けないよう両足首も縄で繋がれている。引っ張って来た戦士は首の縄を掴んだままだ。全く知らない男だったが、伸び放題の髪と髭にぼろを纏った姿からドルイドだとハラルドは思った。顔には何発も殴られた痕があり、鼻血が固まってこびり付いている。服に飛び散った血は量から判断して男のものだけでは無さそうだ。
「まずは獲物を知らねえとな」とエリアスはハラルドに言った。黙っていても一方的に話しかけてくる。「スケイルズじゃあ、あまり狩りはしねぇか。そうだな……魚釣りもそうだろ。海賊も同じか? ぶへへ、まあ、見ての通りこいつはドルイドだ。意外と近くで見つかった。俺たちゃ運が良い」
ドルイドの男は腫れた瞼の奥から憎しみのこもった目でエリアスを睨んだ。まだそうする気概があるらしい。そしてそれは平和主義者のドルイドらしくない反応だった。ハラルドが説明を求めてエリアスに視線を送ると、彼は肩をすくめ、それからドルイドに話しかける。
「なんだよ、まだ怒ってんのか。謝ったじゃねぇか。婆さんを殺っちまって悪かったってよ。俺はドルイドを見つけて連れて来いって言っただけだったんだが……まあ初めて出した命令だったからな」エリアスはふいにハラルドのほうを向いた。「それとも、俺の威厳が足らねぇのかな?」
するとドルイドの男までハラルドに話しかけてきた。「あなたは立派な人に見える。頼む、娘に会わせてくれ。一緒に連れて来られてそれっきり会ってない。声も聞いていない。やっと命名できる年齢になったばかりだ!」
必死に懇願するドルイドを見ながらエリアスは「ぶへっ」と吹き出した。「おいおい、この立派に見える人は何を隠そうスケイルズ諸島の海賊だぜ。海から来る悪魔だ。俺なんかよりよっぽど無慈悲で恐ろしい男だぞ! 女子供でも容赦なく首を刎ね、話しかけただけで舌を切り取り、見ただけで目玉をほじくるような……」
ドルイドの瞳に恐怖が浮かぶ。スケイルズの戦士としては望むところだが、今回ばかりはそういう気分になれない。「おい――」と言いかけたハラルドの言葉はエリアスによって遮られた。
「わかってるって。景気付けに血を見てぇんだろ。こいつと、こいつのガキを大海の神に捧げてぇんだよな。ああ、わかってる、わかってるとも」エリアスは前屈みになって身を乗り出し、ドルイドに囁く。「取引だ。俺の知りてぇ事を教えてくれたら褒美をやる。もちろんおめぇが今一番欲しいものさ。断るなら、おめぇら親子の運命をこの無慈悲な男に任せるしかなくなる」
「……何が知りたいんだ。はっきり言ってくれ」
エリアスの口元がにぃっと伸びた。
「俺たちはドルイドを一人残らず見つけ出したい。ドルイドはどこにいる。住処とか、集まってる場所とか、目印とか合図とか何でもいい……教えてくれ」
ドルイドの顔は明らかな苦悩に歪んだ。目を伏せ、顔を上げ、頭を振り、何か言おうとして唇を噛む。誰も何も言わず、テントの中は静まり返った。それを破ったのは怒気をはらんだエリアスの声だ。
「てめぇ、ガキの命よりもお友達のドルイドのほうが大事なのか? だとしたらてめぇは人の親じゃねぇ。クズ以下だ」
声を荒げてはいないが、静かな迫力がある。迫真の演技か、それとも本心か。ドルイドは恐る恐る口を開いた。「……娘が生きている証拠は?」
「俺がガキを殺すようなクズに見えんのか。あ? 俺はあのヨルゲン王の息子だぞ」
それは脅し文句にしかなっていなかった。アード地方でヨルゲン王の残虐さは有名だ。ドルイドはがっくりと頭を垂れ、ぶつぶつ話し始める。
「ドルイドは特定の場所に住まない。いつも移動している。仲間同士の合図には文字を使う。ドルイド文字だ。それで次に通るドルイドへ伝言を残す。ただし……聖地だけは別だ。そこには守護者と呼ばれるドルイドが定住していて、そして……」
最後の抵抗とばかりにドルイドの言葉は途切れ、「そして?」とエリアスが先を促した。その声は優しくさえあった。
「……そして、特定の日に祝い事や儀式をする。全員ではないかもしれないが、かなりのドルイドが集まる……」
「それはいつだ? 近いうちにあるか?」
ドルイドは観念したように、小さくうなずいた。それを見たエリアスは手を叩いて立ち上がる。「マジかよ! めちゃくちゃ運が良いな!」
突然の動きと大声に、ドルイドはびくりと反応して顔を上げた。エリアスは丸々とした腹越しにドルイドを見下ろす。「よっしゃ、約束だからな。褒美をやる。おい、あれ持ってこい」
エリアスに命じられて戦士が袋を持って来た。袋の底は黒く滲んでいる。ハラルドには見慣れたもので、すぐにわかった――血だ。戦士がどさりとそれをドルイドの目の前に置き、そして口紐を解く。一気にすさまじい悪臭がテント内に充満した。袋の中身を一瞥したドルイドは目を剥き、ハラルドを見た時など比べ物にならない恐怖の表情で顔を背ける。エリアスはドルイドの頭を掴んで「よく見ろ」と無理やり袋の中身に顔を向けさせた。
「きひぃぃぃぃ」
ドルイドはハラルドでも聞いたことのない、悲鳴とも嘆きともとれる奇声を歯の隙間から漏らした。ぎゅっと閉じた目から涙が溢れる。エリアスはニヤリと笑った。「目ぇ閉じてたら見えねぇだろが。これが何だかわかるだろ?」
「俺の……俺の……むす……っ!」言葉と共にドルイドは胃液を吐き出す。エリアスは慌てて飛び退いた。「うわっ、汚ねぇな!」
ハラルドは戦慄した。そして、偽物のはずの目の前にいる太ったエリアスが本物かもしれないとさえ思った。こんな残酷な人でなしこそ噂に聞くヨルゲンの息子に相応しい。
(こいつはここで斬るべきではないか?)
直感的にそう思い、指が剣の柄を這う。アードの戦士がぴくりと反応した。だが当のエリアスは無防備に背中を向けたまま、「おいおい、何度も言わせんなって!」と陽気に囃し立てる。
「ほら、よく見ろってば。てめぇのガキには尻尾があるのか? こんなに耳がでけぇのかよ?」エリアスは頭の上で両手を大きな耳に見立ててくいっと曲げ、豚そっくりに鼻を鳴らした。「子豚だよ。処理した奴が下手くそでこの有様だ。二日も食ってねぇから腹減ってんだろ。おめぇにやるから煮るなり焼くなり好きにしな」
ドルイドは口の端から胃液混じりの涎を垂らし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をそのままに、呆けたような目で袋の中身をもう一度確認した。そしてそのまま脱力する。股の間から染みが広がり、便の臭いまでも悪臭に加わる。
最後に、もはや抜け殻のようになったドルイドの耳元でエリアスは囁いた。「……んで、もちろん、そのドルイドの集まりに俺らも連れてってくれんだよな?」




