39.ギブリム氏族
これから交渉するのはギブリム氏族というドワーフの氏族の一つだ。ドワーフにも人間と同じように〝家〟という概念はあり、氏族は複数の〝家〟が一つの思想によって束ねられたもので、必ずしも血縁であるとは限らない。最初に氏族を率いた始祖たるドワーフの思想を基礎とし、その名を頂いている。
戦士の氏族だが、〝秘密は秘密であるからこそ価値がある〟という価値観はドワーフにとって常識であり、その扱いについても非常に厳格である。カティヤは今回の取引について、〝家の庭を通してもらう代わりにお礼する〟くらいのつもりでいたがそんな簡単なものではなかった。それまで一度も他種族を入れた事のない秘密の地下都市を通行させてもらうために必要な対価が、どれほどになるか見当もつかない。ドワーフについて知らないまま交渉に臨んでいたら、「ケチ臭いこと言わないでよ。ちょっと通してもらうだけなのに」とか言ってしまっただろう。
「……これって、取引なんてできるの?」
『ドワーフは取引の提案を一方的に断りはしない。ただ、価値の所有権の譲渡や放棄、減少に対してどれだけの対価が必要になるか……それを決定して返答してくるだけだ。問題は我々が要求に応えられるか、それに見合うものを提示できるかだ』
いまやカティヤもドワーフについて知っているので、それは理解できる。値下げ交渉は相手を怒らせるだけだということも、今回ほどの取引となれば氏族評議会で議論されるだろうことも。
ギブリム氏族にはいわゆる王がいない。特定の役割や職能分野ごとに長がいて、その集まりを氏族評議会という。議長はいるが全会一致を原則とし、会期は定められていない。人間の五倍以上の寿命をもつ彼らの時間感覚は当然人間のそれとは違うだろう――カティヤは不安になった。夏が終わるまでだらだらと話し合うなんてことになれば、アウラたちは谷の奥で追い詰められてしまう。
ドラゴンが身動ぎした。不安が伝わってしまったらしい。カティヤはため息をつき、共有範囲を狭めてファーンヴァースを追い出した。山影から見上げる空は青色が優勢で、茜色はわずかに雲を照らすのみ。ここよりずっと南のアード地方と違い、太陽が完全に沈むことはないが、影の中は暗くて寒い。
「とりあえず、火を熾すか……火を使ったら怒られるとかないよね?」
『焚き木になるものがあればいいが』
周囲を見れば、森の中とは違って十分な量を拾い集めるのは難しそうに思える。低木を切ってもいいが、生木を燃やして煙を上げるのも気が引ける。
「……まあ、ちょっと周りを探してみる」
カティヤは交易所の周囲をぶらぶら歩き始めた。焚き木を探すというのはほとんど口実で、不安を紛らわすために動いていたかった。ドワーフについて知った今、不安は焦りへと変わりつつある。この交渉は絶対に成功させなければならない。門を開かせなければならない。しかし、自分たちに何が提供できるというのか。ファーンヴァースには当てがあるのだろうか。
低木の下や石の隙間に枯れ枝を見つけても、短く、ぼろぼろで、小さな火にしかならなさそうだ。それでもカティヤは何となくそれらを集めて歩いた。
ドラゴンと竜騎士は竜砦という天空に浮かぶ島に住んでいる。それだけ聞くと常人には想像もできない生活をしていそうに思えるが、そんな事は全くない。その暮らしぶりは狩人の生活を想像すればほとんど正しい。獲物は主に自分たちの食事になるが、野菜や果物は獲物から取れた毛皮や肉の一部を換金して購入したり、物々交換したりしている。普通の狩人との違いは、王や領主から狩猟許可を得る必要がなく税も払わないという特権くらいだ。とはいえ、竜砦には金銀財宝の類もある。かつては庶民から貴族、王に至るまでドラゴンに捧げ物をする習慣があり、それはやがて寄付と名を変え、最終的にドラゴン税という制度になった。ドラゴン税はおよそ百年前の竜騎士戦争後に廃止されたが、それまでに蓄えられたものは今も残っている。しかし、その全てを使ったとしても事足りるのか。
足を止めて、夏でも雪の残る山々を見上げる。極北の地は一年中凍ったままだという。全てが上手く行ったとしても、ここよりずっと過酷な世界にアウラたちを送り出す――いや、正確には放り出す――ことになる。そしておそらく、もう二度と会えない。竜騎士になれば自分の人生を他人に侵されず、奪われず、大切なものを失ったりしない、そう思っていたのに。
カティヤは弱気を振り払うように頭を左右に振った。極北の地へ、という話をした時、アウラの瞳に希望の火が灯ったのは確かだ。彼女は自分の道を見つけた。ならば、できるだけの事をしてやるだけだろう。
『カティヤ、彼らが来た』
ファーンヴァースの思念が届き、カティヤは拾った小枝を放り捨てて戻った。広場ではファーンヴァースがドラゴンの姿のまま頭を上げている。カティヤにはまだドワーフの気配は感じられない。
『心をつなげ。ドワーフの言葉を聞き取れるようにする』
カティヤは言われたとおりにした。竜語はまだ勉強中だが、何とかなるだろう。それから間もなく、三人のドワーフが姿を現した。ガチャガチャと鎧を鳴らして窪地を下りて来る。ドワーフを見るのは初めてだったが知識を共有してしまったせいで新鮮な驚きはない。
身長は小柄なカティヤよりさらに低いが、体重は何倍もあろうかというほど太くずんぐりした体格をしている。頭髪は人それぞれだが髭は豊かで全員が伸ばしており、その長さはドワーフの外見からでは判断しにくい年齢の目安になる。こちらにやってくる三人で言えば、真ん中にいるドワーフの三つ編みにした髭は腹まで届いているが、左右の二人はそこまで長くない。三人とも微妙に魔法の気配がする見事な武具に身を包み、短い脚でのっしのっしと歩いて来て、目の前で立ち止まった。左右の二人は武器に手を置いたまま、盾を持ち上げる。一番髭の長い真ん中のドワーフが一歩前に出て両拳を胸の前で合わせた。
「お久しぶりです、白竜ファーンヴァース殿。ふむ、こちらの騎士殿とは初対面ですな。私はギブリム・バン・ドスクスと申します」
まるで自分の耳で北方語を聞いているかのようだったから、カティヤは内心驚いた。なにせファーンヴァース経由で未知の言語を聞くのも初めてだ。ファーンヴァースが同時に話すような感じかと思っていたのに、相手の声音もそのままで言語だけが変換されている。ドワーフの言葉は丁寧だが親しみはなかった。自分たちの領地を侵犯されているように感じているのだろう。
カティヤは頭の中で準備していた下位竜語で挨拶した。下位竜語は必要以上の情報を含まない。「はじめまして。ギブリム・バン・ドスクス殿。私は白竜ファーンヴァースと契りし竜騎士、カティヤと申します」
ドワーフの名前は、〝氏族名・家名・個人名〟という組み合わせになっている。外部の者に対しては可能な限り氏族名もしくは氏族内での地位を示す称号を使いたがるので、個人名まで名乗らず済ますことも多い。今回は人間の流儀に合わせてくれたのだろう。カティヤの声を聞いて、控えている二人のドワーフが「子供か」「女の子供だ」と小声で囁き合った。
『ああ、思い出した。バン家のドルドスの子だな。ドルドスは息災か』
ファーンヴァースに顔を向けられてもドワーフたちが〈ドラゴンの恐怖〉に影響された様子はない。ギブリム・バン・ドスクスはわずかに目を伏せ、小さく頭を振った。「父は良くありません……もしや見舞いに来られたかと思いましたが、違うようですな。抜き打ち監査ですか?」
ドラゴンと竜騎士は〈盟約〉の守護者として、ドワーフとエルフが再びファランティアの地に戻らぬよう見張る役目がある。それをこのドワーフは〝抜き打ち監査〟と表現した。ファーンヴァースが鼻から白い息をたなびかせる。
『いや。もしそうなら直接フレスミルに行っている。ここに来たのは取引のためだ』
「ふむ、取引ですか」ギブリム・バン・ドスクスは太い腕を組んだ。
ファーンヴァースが赤いルビーの瞳をカティヤに向け、ドワーフたちも注目する。カティヤは一歩前に出た。
「我々が必要としているのは、あなたがたの地下都市フレスミルの通行許可です。三〇〇人程度の人間を〈世界の果て山脈〉のこちら側からあちら側へ通して下さい。一度きりの一方通行でも構いません。もちろんこれは取引ですから、それに見合うものを提示してください」
カティヤは用件だけを簡潔に述べた。アウラやエリアスの事情など彼らには関係ないし、それが取引に影響するとも思えない。三人のドワーフは沈黙したまま立ち尽くした。唖然としているのかもしれないが、カティヤにはまだドワーフの表情が読めなかった。
「どうです?」返答を促すと、ギブリム・バン・ドスクスが呻くように答える。「う……むぅ、そ、それは……本気で言っているのか」
『冗談を言いにわざわざこんなところまで出向いたりしない』とファーンヴァース。
「……私たちだけでは判断できない。氏族評議員の召集が必要になるでしょう……」
表情は読めないが、その声音で困惑しているのは明らかだ。予想どおりの反応なのでカティヤのほうは冷静だった。
「もちろん、そうでしょう。ただ、我々にはあまり時間がありません。フレスミルの中で待たせてもらいます」
ギブリム・バン・ドスクスはうなずいた。「ああ、ええ、それは問題ありません。ドラゴンと竜騎士は特例でフレスミル滞在を許されています……ただ、人間となると……こいつは前代未聞だぞ」
ドワーフたちは頭を捻りながら歩き出し、カティヤは荷物を担いでその後を追った。




