34.夏至の祝い
一番低く垂れ下がった大樹の枝にまたがって最後の紐を結び終えたフィニは、「よし」と独り言をつぶやいて指を離した。紐は先端に付けられた水晶の重みでゆらゆらと揺れている。フィニの体重でもゆさゆさ揺れる枝の上でバランスを取りながら左右を見れば、他の枝にも同様に水晶が吊り下がっていた。全部で二四個。念のために指差し数えて確認する。三五フィートほど下ではコランがのそのそとそれ以外の準備を進めていた。〈夏至の祝い〉の日は北方南部のアード地方でも夜のように暗くはならないが、それでも森の中は薄暗い。
「全部吊るしたよ!」
コランに呼びかけると、老ドルイドは顔を上げた。
「フィニ、最後までお前がやりなさい。呪文は知っておるだろう?」
「もちろん」と言いつつも、フィニは少しばかり緊張した。いつもは飾り付けまでで、魔法は別の人にやってもらうのが常だった。しかし今日は二人きりなのでコランがやらないならフィニがやる以外にない。枝を伝ってずりずりと、安定した太さまで後退する。上体を起こして頭の中で呪文をおさらいし、両手を広げていざ魔法を使おうとすると「フィニや」とコランが水を差した。
「なに?」
「危ないぞ」
大樹の枝を両脚で挟んでいるだけの状態がコランには危なっかしく見えたらしい。うっかり落ちたら無事では済まない高さだが、赤子の頃から母親のように慣れ親しんだ大樹だ。他の木ならまだしも、落ちるなんてあり得ない。
「大丈夫。落ちないよ」フィニはそう言い返して、今度こそ呪文を詠唱した。
ドルイドの魔法は自然の中にある力の源に触媒を介して働きかける。その感覚は練習だけで身に付くものではない。そして呪文には言葉と同じくらい抑揚も重要だから、ドルイドの魔法使いはすなわち優れた歌い手でもある。まるで歌うように腹の底から声を響かせると、〈大樹〉の力が枝を通じて水晶に触れるのを感じた。二四個の水晶がぼんやりと茜色の光を放ち、周囲を柔らかく照らす。魔法は上手くいったようだ。いつものようにするすると枝から幹を伝って下りると、入れ違いにコランが洞の中へ入っていくところだった。
用意された祝いの場は例年と違って大層こじんまりとしている。青銅製の長方形をした食事台は脛くらいの高さで、いつもならその上には焼いたり茹でたりした獲物が丸々一頭分乗せられているが、今日はファードルたちが置いていってくれた塩漬け肉を炙って細切りにしたものがちょこんと山になっているだけだ。この食事台を中心にして木製のより小さい食事台が三方に置かれる。豆類と麦のミルク粥もファードルたちが提供してくれた食材で作ったものだが、ミルクが無かったのでチーズで代用した結果冷えて固まり、臭いもきつくてあまりおいしそうには見えない。はっきり言って、完全な失敗作だ。川魚の香草蜂蜜漬けはこの日だけの特別な料理で、子供には不人気だが大人たちは黙って食べる。本当は大人も不味いと思いながら我慢して食べているのではないか、という長年の疑問の答えをフィニはまだ得られていない。北方の基準ではフィニももう大人だが、生臭くて食感も気持ち悪いこの料理をおいしいと思ったことはないからだ。逆に、炒った木の実と木苺などのベリー類を蜂蜜で丸く固めたお菓子は子供たちに大人気で、手と口の周りをベタベタにしながら食べる。もちろんフィニも子供の頃は大好きだったし、敢えて言う必要もないが、今でも好きだ。それら全てが普段の十分の一以下の量しかなく、きのこのクリーム煮も夏野菜の酢漬けもサーモンの香草焼きも無いので食事台の上はがらんとして寂しい。こんな〈夏至の祝い〉の席は初めてだが、参加者はアウラとエリアスを加えても四人なのでこんなものだろう。
フィニはコランを追って洞に入った。緑色の魔法の明かりに満たされた中では案の定、コランが両手で大きな瓶を持ち出そうとしている。
「それ、全部持って行かなくても良いんじゃないか。今年〈黄金酒〉を飲めるのはコランだけだ」
老ドルイドはしばし大瓶に目を落とし、もう一度フィニを見てから「ふむ……確かにそうだ」と髭を引っ張って別の容器を探し始めた。最終的に〈黄金酒〉は木の大皿へ注がれて祝いの場に置かれ、それで準備は整った。
ドルイドには年に数回特別な日がある。〈大夏〉は最も重要で儀式色も強いが、その三二日前に行われる〈夏至〉は前祝のようなものでお祭り色が強い。伝統的な歌や踊りが披露され、楽しく飲み食いする宴会という印象だ。その開始を告げるのは守護者の役目で、コランは〈大樹〉を背に上座へ着いた。フィニも例年どおり花でいっぱいの草籠を抱えて待機する。何度か〈古き川〉の泉のほうに目をやってから、ついに我慢できなくなり口に出した。「遅いな、二人とも。様子を見に行ったほうが良いかな」
「止めておきなさい」コランが制した。「万が一、二人に危険が及んだならターナリエンが教えてくれる。さあ時間だ。始めるとしよう」
老ドルイドは立ち上がって、羽織った織布の端がしっかり腰縄に挟まっているかを確認してから姿勢を正した。普段なら、各地からやって来た大勢のドルイドたちに注目される場面でも今日は二人である。少しの乱れなど気にする必要はないだろうとフィニは思ったが、もうその動作が癖になっているのだろう。コランは全身を緊張させ、朗々と祝いの言葉を吟じた。それは古いドルイドの言葉で、呪文に似ているが魔法を使っているわけではない。地に生きる全ての命に活力を与える太陽への感謝と、光に満ちた昼を賛美する祝いの言葉だ。フィニが合いの手を入れるように決められた節句で花を散らすと、その中をコランが歩く。そうして二人は会場を一周する。花びらが風に運ばれて食事台や料理にかかっても気にしない。花とその香りが、祝いの場と料理を彩る最後の仕上げとなる。
水晶が放つぼんやりした茜色の光は枝の下で浮かんでいるように見えた。その中を老人が歌いながら歩き、若者が花を巻き散らす光景はドルイドでない者にどう見えるだろう。気の触れた狂人か、怪しげな集団の邪悪な儀式か、それとも幻想的な光景か。そんなことを考えるのもアウラやエリアス、カティヤのようなドルイドでない人間と知り合ったせいかもしれない。ちょうど一周して、コランの祝いの言葉も終わった。フィニも草籠を足元に置く。
「今日は昼の力が最も高まる日じゃ。夜を忘れ、存分に祝おうぞ」コランは最後に開会を宣言したが、二人しかいないせいか、なんとも微妙な空気が流れる。老ドルイドは長く息を吐きながら腰を下ろし、フィニは木皿に料理を取り分けた。まずはそれをコランの前に置き、さて自分はどうしようかというところで老ドルイドが「隣で良かろう」と言った。普段であれば守護者の隣には次の年長者が座る。二人しかいない今回、確かにフィニにはそこに座る権利がある。
(今日は初めての事ばかりだ)
たった二人きりの〈夏至〉もそうだし、祝いの場でコランの隣に座るのもそうだ。そして初めてはまだあった。コランが〈黄金酒〉を小杯に汲み取って一口飲んでから、フィニの眼前にそれを差し出したのだ。咀嚼していた硬い肉を思わずごくんと飲み込む。「えっ、俺まだ一九だけど?」
〈黄金酒〉は特別に作られた蜂蜜酒で、木苺、数種類の木の実とハーブを加えて濾しながら何年も熟成させたものだ。通常、ドルイドは二〇歳になるまでこれを飲んではならないとされている。
「一年くらい早くても良かろう。それにお前の生まれた日は誰も知らん。すでに二〇になっておるやもしれん」
「ええ……?」フィニは躊躇いがちに小さな杯を受け取った。興味が無いといえば嘘になるが、ねっとりした濃厚な香りだけで頭がくらくらしてくる。本当に飲んで大丈夫なのか。
「一口飲んで、次の者に渡す。今日はまあ、わしに返す形になるな。さあフィニ、付き合っておくれ」
飲め飲めと手で進めてくる老ドルイドを横目に、フィニは一口ぐいと飲み込んだ。これを味と呼ぶべきか、刺激と呼ぶべきか。まるで火を飲み込んだように喉から胃の腑まで焼けるようだった。しかし鼻に抜ける香りは芳醇で、舌に残る甘さは蜂蜜菓子よりも深い。
「美味いか?」
フィニは正直に「わからない」と答えた。
「止めておくか?」
フィニはぺろりと唇をなめた。「もうちょっと試してみる」
「ほっほっ。なにせ、この〈黄金酒〉はお前と同い年じゃからな。美味いはずだ」
コランは笑って、小杯に残った〈黄金酒〉を飲み干してから汲み取り、フィニに差し出す。フィニは一口飲んでコランに返す。何度かそれを繰り返すと、フィニにも刺激だけでなく味らしきものがわかるようになってきた。それに、なんだか全身がフワフワする。自分の肉体と精神が微妙にズレてしまったような感覚、とでも言えばいいだろうか。
木の大皿に小杯を入れて、その名のとおり黄金色に輝く酒の水面に浮かぶ花びらを避けながら、ふいにコランが言った。「……お前とこの日を祝うのも今年で最後かもしれぬ」
「へ?」
「黙っておったが、去年の〈大夏〉で、わしは予言を得ていたのじゃ。もうすぐ約束の時が来ると。守護者としての役目を終える時だ」
コランは小杯を傾けて一口飲むと、フィニにそれを差し出した。不吉な物言いに困惑しつつも受け取り、ぐいと一口で飲み干して、フィニは努めて陽気に答える。「ああ、守護者を引退するって話ね。安心しなよ、俺がちゃんと引き継いで――」
「いや」コランは首を横に振った。「守護者とは引き継いだり、引き継がれたりするようなものではない」
「えっ、でも……それじゃおかしい。〈大樹〉の守護者は三〇〇年くらい前からいるって……」
その時、茜色の明かりが一つ、また一つと淡い緑の光へと変わっていった。それを見上げてコランが囁く。「静かに。沈黙の時間が始まる」
昼が最も長い〈夏至〉の白夜でも、アード地方ではわずかに太陽が地平にかかる時間が存在する。太陽が完全な姿を失っている間は沈黙するのが〈夏至〉の祝いの決まり事だ。水晶の光はその時間を示している。全ての水晶が淡い緑色に変わって、二人は口をつぐんだ。それほど長い時間ではない。フィニは軽く目を閉じたが、話の続きが気になってすぐに目を開き、隣を見て驚いた。そこにいたのはフィニより少し年上くらいの若いドルイドだった。
(だっ、誰だ?)
思わず誰何しそうになったが、沈黙の時間に口を開くわけにはいかず言葉を飲み込む。若いドルイドはきらきらした瞳で前方を見ていた。その視線の先にはエルフの娘がいる。外見は娘だが、二〇歳前後で変化が止まるエルフの場合は当てにならない。エルフの娘は若いドルイドに微笑みかけ、誘うようにくるくると回ったり、すらりとした手足を伸ばして跳んだりした。若者は笑みを浮かべて立ち上がると、エルフを追う。エルフもまた笑みを返して走り出し、森の木々の間を行ったり来たり、枝につかまって足をぶらぶらさせたり、森で遊ぶ無邪気な子供のようにはしゃいだ。彼女の動きに合わせて花びらが舞い散り、その中を若者は追いかける。淡い緑の光に満たされた無音の世界で二人とも声こそ出さないが、とても楽しそうな笑顔だった。
ついに若者はエルフを掴まえた。二人は身を寄せ、見つめ合って何かを確認し合うと、手をつないだまま森の奥へと歩き去って行く。緑の光の届かぬ先、森の闇の中へと――。
「――フィニ。眠ったのか?」
コランの声にハッとして目を開き、フィニは養父を見た。そこにいるのは物心付いた頃から変わらぬ老いたドルイドだ。頭上の水晶は全て茜色に戻っている。
「いや……うん、そうかも。夢を見たような気がする」
「……そうか。しかしお前には魔法の才がある。特別な日に見たものには意味があるやもしれぬ。過去か、未来か」老ドルイドはまだ少し心配そうにフィニを見ていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。「少し酔ったようじゃ。わしは横になる。片付けは明日にすれば良かろう」
のろのろと洞へ向かうコランの傍らに、先ほどの夢の中にいたエルフの影を見てフィニはぎょっとした。しかし瞬き、目をこすると、もうそんな影は見えなかった。




