33.二人だけの結婚式
エリアスは〈古き川〉の泉のほとりで膝を抱えていた。もうすっかり夜のはずだが、空は群青に朱が混じった白夜の色をしている。森の暗闇もドルイドの結界に守られていれば恐ろしくはない。それどころか、今は居心地が良いとさえ感じていた。薄闇の中ではあらゆるものの輪郭がぼやけて曖昧になる。自分のした事も、その結果も、後悔も、自分という存在そのものも希薄になる。いっそこのまま闇に溶けて消えてしまえたら。
しかし、木々の隙間から差し込んだ一筋の茜色は〝目を逸らすな〟とでも言いたげに、森の薄闇を切り裂いて緑の髪のエルネッドが腰を下ろしていた倒木を照らしている。
あの時どうすれば良かったのか。あの時は。あの時、あの時、あの時――次々に何度でも押し寄せる〝あの時〟にエリアスはただ圧倒されるのみだ。考えているようで、考えていない。答えを求めているようで、求めていない。頭は働かず心は動かない。だからエリアスにできるのはただ、こうして座っていることだけだった。
ボリスの遺体を回収しに、そして自分のしでかした事の結果を見るために、エリアスは戦場跡へ戻ろうとしたが皆に止められた。危険だからという理由に反論の余地はない。それで結局、カティヤが一人で戦場跡へ行った。確かにそれが最良の選択だ。彼女はトーレのような化け物じみた男でも一瞬で殺してしまえる。並の危険などものともしないだろう。もし自分にそんな力があったなら、もっと上手くやれただろうか。それとも、もっと酷い結果になっていただろうか。少なくともボリスは死なずに済んだだろう。あの時どうすれば良かったのか。迫るトーレの前に立ちはだかった彼の背中が脳裏に浮かぶ。彼は最後に何か言っていなかったか。
エリアスは抱えた膝に顔を埋めた。そのままずっと、森の薄闇に一人溶け込んでいたかったが、そうはいかないようだ。誰かが近づいてくる音がする。「エリアス」自分を呼ぶアウラの声。すぐ傍まで来ている。「エリアス?」
アウラを無視している自分に驚いて、エリアスはぱっと顔を上げた。「えっ、ああ、ごめん。考え事をしていて気付かなかった」と嘘をつく。
「もう三日もそうしてるけど……大丈夫?」
「大丈夫だよ」また嘘。まるで自分の声ではないような、気の無い返事。
「今日はドルイドのお祝いの日なんだって。えーと、スニ……なんとかっていう」
「〈夏至の祝い〉だろ。一年で一番昼が長い日にやる」
「そう、それ。さすが」
そんな知識は何の役にも立たない。何も変えられず、誰も救えない。自分自身さえ守れない――虚しさを感じて、気分はますます落ち込んだ。アウラはそんな気持ちを知ってか知らでか、話を続ける。
「それで、コラン老とフィニが何かやってるの。一緒にどうか、って」
以前の自分なら惹かれたであろうそんな誘いも、今はまったく心に響かない。エリアスは黙って首を左右に振った。
「……そっか。なら、わたしもいいや」
アウラが隣に座る。エリアスは居心地の悪さを感じたが、邪険にもできない。少しの間黙っていると彼女はぽつりと言った。「最初にあなたとここで会った時、わたし、嘘をついた」
「君を守ろうとしてフィニがやったことだ」
「ほんとの最初はそうだけど、そうじゃなくて、ここで会った時の話」
「ああ……そういう意味では僕も偽っていた。猪の鉄兜に、鎧に、身体を大きく見せる綿入れ」
「ヨ……そうしろって言われたからでしょ?」
アウラは気を遣って〝ヨルゲン〟とは言わなかった。だからといって感謝する気分にはなれないが。
「そうなんだけど、僕は君を見た瞬間にあれを着ていて良かったって思った。立派に見えるだろうと思ったから」
「でも滑って、派手に転んだ。思い出すと今でも笑える」言葉とは裏腹にアウラはクスリとも笑っていない。「わたしたちの出会いは嘘から始まったけど、最後にはお互いの秘密を打ち明けられた。だからここは、これからもずっと、正直になれる場所であってほしい……ね、エリアス?」
エリアスは躊躇いがちにうなずいた。しかし、それで納得するアウラではない。
「神に誓って」
横目に見ると、彼女は真剣な眼差しを向けている。誤魔化すのは無理そうだ。少し投げやりな気分になってエリアスは答える。
「わかったよ。神に誓って」
大地の神に宣誓する時の簡単なやり方として、地面に手を触れた後、自らの額に触れる。それを見届けてからアウラは予想どおりに踏み込んできた。
「思ってること話して。一人で抱え込まないで」
そう来るだろうと身構えていたエリアスであったが、いざ話そうとすると、神の力を借りてさえ難しかった。言葉が喉に詰まってなかなか出て来ない。
「その……」
アウラは辛抱強く待っている。結局、神への誓いよりも彼女を裏切りたくないという気持ちからエリアスは言葉を絞り出した。
「僕は、その……どう言えばいいか……さ、寂しい。そういう感じ……」呻くように言って、続ける。「自分の居場所が無いような、世界の外に独りぼっちでいるような、そんな感じで……」
アウラは何も言わず、その沈黙に追われるようにしてエリアスは話し続けた。
「ずっと変だと思っていたんだ。この世は何かおかしいって。君の話を聞いた時、本当に実現するなら少しはましな世の中になりそうだと思った。それからソールヴとブルンドおじさんが味方になってくれて、本当は皆も僕と同じように感じていたんだって思って、すごく嬉しかった。だって普通に考えれば戦う危険なんて冒さないほうがいいに決まってる。交易を活発にして農場を大きくして、皆が豊かになって、奪い合いなんて必要無くなればそのほうがいいに決まってる……でもそうじゃなかった! 二人も、誰も、そんなの望んでなかった! あの戦場には僕しかいなかった!」
堰を切ったように、次々と言葉が溢れ出す。
「ボリスはそんな僕を守って死んだ。トーレを狂わせたのはたぶん僕だ。あいつが言っていた、〝おかしいのは俺か、お前か〟って。おかしいのは世界やトーレじゃなくて僕のほうだって、わかっていたはずなのに……最初から上手く行かないとわかってて……!」
そうだった。全ての〝あの時〟を辿っていけば必ず行き着く終着点。それを認めたくなくて考えないようにしていただけだった。辿り着かないようにしていただけだった。あの日、アウラの手を取ったことが全ての発端だと。
「そう。大元は、わたし。わたしが馬鹿な子供だったせい」
「それは違う」
「違わないでしょ」
エリアスは頭を振った。「そうじゃなくて……!」脳裏に閃く、あの日あの時。エリアスは世界と向き合い、折り合いをつけようとすることから逃げた。彼女の手にすがっておきながら、最初から上手く行かないとわかっていただなんて反吐が出そうな言葉で、アウラを選んだ自分自身から、その責任から、逃れようとしていた。一人で全てを抱え込んでいるような気になりながらその実、自分は悪くないのだと思い込むための理屈を探していただけだった。「そうじゃなくて……ごめん。これは二人で始めたことだから責任も二人にあるんだよね」
「うん。わたしが家を捨てたのはあなたのせいでもある」それは彼女の正直な気持ちで。
「あの場所でたくさんの人が死んだのは君のせいでもある」それは彼の正直な気持ちであった。
とてもとても久しぶりに見た彼女の蒼い瞳は挫折を知って、現実に翳っていた。全てが曖昧になる薄闇の中でも輝いてみえる金色の髪に白い肌。初めて会った時のような幼さはもうどこにも無い。
「わたしたち、これからどうなるのかな……」
肩を寄せてきたアウラにエリアスは腕を回した。彼女のように強い女性でも、世界や人生を前にして恐れ慄くことはあるのだ。大人になるのは一七歳になった時ではなく、それを知った時なのかもしれない。
「ボリスは最後まで僕に逃げろと言っていた。たぶん自分にはその勇気が無かったから」
「母様は、自分の人生を切り拓いていきなさい、って言ってた。たぶん母様にはその強さが無かったから」
二人は身を寄せ合って、互いの言葉の意味を考えた。白夜の空はずっと変わらないが、ふと気付けば倒木に差していた茜色はもう消えていた。ただ蒼い闇の濃淡でしかない森の中で、揺らめくものは泉の水面と彼女の瞳だけ。
「僕らの計画はまだ終わっていなかった」
え、と顔を上げたアウラにエリアスは姿勢を変えて向き合い、彼女の引き締まった腰を支えた。見つめ合う二人。彼女の瞳が次の言葉を待っている。
「結婚しよう、アウラ」
もう誰かに認めてもらう必要は無かった。二人はただそれだけの自由を得た。未知の荒野を歩む勇気さえあれば、人生を切り拓いていける。竜騎士のような強さは無くとも、二人でなら。
「はい」アウラは小さくうなずいた。
薄明の夜空を映す泉のほとりで二人の影が重なる。
その夜、二人は結婚して、一つになった。
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