31.混沌の戦場(5)
びゅんびゅんと音を立てて木々が右へ左へと通り過ぎていく。まだらな緑の天蓋の下を抜けた先で突然地面が途切れても、カティヤは恐れずにたーんと跳んだ。両手両足を突っ張って地面に二本の線を引きながら着地し、勢いそのままさらに加速して目の前の丘を駆け上がる。まさに疾風のごとし。丘の上に飛び出しても、まだ誰一人その存在に気付いていない。フードを深く引き下し、肩で息をしたまま呼吸を整える間も無く宣告する。
「お前、エリアスから、離れろ」
その声でやっと彼女の存在に気付いた男たちは全員目を丸くした。地面にへたり込んだままのエリアス。彼の顔を覗き込むトーレ。二人の脇に転がっている頭の割れた死体はおそらくボリス。それを見て奥歯を噛み、カティヤは再び警告した。
「もう一度言う。死にたくなければエリアスから離れろ」
「へっ、そうかい。てめぇも俺からエリアスを奪うつもりかよ」
トーレはよっこらしょと立ち上がり、二本の斧を持ち上げてぺろりと唇を舐めた。狂気じみた殺意が膨れ上がるのを感じてカティヤは面食らう。フードを被っていてもトーレなら声や背格好からカティヤだと分かっているはずだ。彼女が竜騎士だと知りながら、そんな敵意を向けられる人間に出会ったのは初めてだった。
「なら俺も、もう一度言うぜ……エリアスは俺んだ!」
その隙を突いて、トーレは巨躯に見合わぬ速度で突撃してきた。二本の斧が垂直に振り下ろされる。何もしなければ、彼女の両腕は肩からすっぱりと切り離されていただろう。カティヤは外套の下から竜剣を抜きざま片方の斧を弾き返した。剣を返してもう一方を受けるつもりだったが、予想以上に重い一撃で腕の動きが鈍る。剣も、防御のための竜語魔法も間に合わない。
トーレの斧は外套を切り裂き、カティヤは剥き出しの左腕で刃を受けた。腕ごと身体まで真っ二つに薙いでしまいそうな勢いであったが、素肌には傷一つ付かず、ただ鈍い打撃音が響く。カティヤに竜語魔法を口にする余裕が無くとも、ファーンヴァースが守ってくれる。しかしその重い一撃にカティヤは片膝をついてしまった。左腕に走った痛みは一瞬で、これもすぐにファーンヴァースが引き受けてくれたが衝撃までは消せない。骨まで響く一撃に腕が痺れてしばらく使い物にならなさそうだ。
カティヤは歯を食いしばって地面を蹴り、素早くトーレの背後に回り込んだ。首から上を狙って飛びかかる。常人には見切れるはずもない速さなのに、トーレは反応した。右手の斧の刃をくるりと背後に向けて、振り向きながら横に振るう。それが直感に従った当てずっぽうだったとしても、トーレの斧はカティヤを捉えていた。空中で身を縮めて剣を盾にする。剣と斧が激突し、吹っ飛ばされたカティヤは茫然と見ている戦士たちの頭上をぽーんと越えて、地面の上をごろごろ転がった。周囲にいた戦士たちはやっと状況を把握したのか、膝立ちになったカティヤを取り囲もうと動き出す。
「邪魔だ! どけぇ!」
トーレは怒声を上げて追撃してきた。暴走する馬かなにかのように味方を跳ね飛ばし、立ち上がったばかりのカティヤに接近して両手の斧を連続で振り下ろす。技も何も無い、ただ純粋に力と速さで相手を圧倒しようというその攻撃を、カティヤは右手の剣一本で全て弾いた。両者の周囲に剣風が巻き、火花が散る。
「うは、うはは、はははっ!」堪え切れない、というようにトーレが歓喜の声をあげた。「すっげぇ、すっげぇぞ、お前! なんで死なねぇんだ! なんで切れねぇんだ! うははは!」血走った目は狂気にぎらついている。
こいつ、まともじゃない――まだ痺れが残る左腕を忌々しく思いながら、カティヤは心中で毒づいた。それがファーンヴァースに伝わってしまったらしい。
『それは人格的に? それとも身体能力のことか? 武器はドワーフ製品のようだが』
ドラゴンはあくまで冷静だ。それをも忌々しく思いながら、カティヤは心の中で告げる。
『本気でやる』
ファーンヴァースは了承した。
嵐のような斬撃の中に隙を見つけて力いっぱい竜剣を斧に叩きつけると、斧の一部が欠けてトーレの身体も僅かに傾いた。その隙に地面を蹴って後方へ距離を取り、竜語を呟く。
『ファーンヴァース、我に力を』
普段から、ファーンヴァースはある程度の力をカティヤに貸している。それだけでも彼女は充分に超人的だが、あくまで常用に過ぎない。カティヤの竜語は魔法となって、真に竜騎士としての力を彼女に与えた。
その瞬間、世界の動きは緩やかになった。
トーレの動きでさえ、今やのろのろとして見える。再び距離を詰めようというカティヤの動きに反応して腕の筋肉がぴくぴく動いている。そのまま前方へと跳躍したカティヤの動きは見切れるはずもないが、トーレの腕は持ち上がっていった。頭で考えた動きとは思えない。反射的なものだろう。その手にある斧の刃の腹を踏み台にして、カティヤは曲芸師のようにくるりと前方宙返りでトーレの頭上を飛び越え、背後に着地した。彼女の手に剣は無い。
意識下で竜語魔法を解除すると、時の流れは正常に戻る。
突進していたトーレは振り向きもせず、やがて速度を緩めながら足をもつれさせると、顔面から地面を削るようにして突っ伏した。頭頂部には竜剣が深々と突き刺さり、剣先は顎を割っている。即死だ。死を自覚する間もなかっただろう。
『戻れ、竜剣』
カティヤが竜語魔法を唱えると、トーレの頭に突き刺さっていた剣は抜けて脳漿を撒き散らしながら飛んできた。剣の柄を手にするなり、目にも止まらぬ速さで空を斬って付着物を払う。周囲の戦士たちは愕然として固まったままだ。カティヤは彼らを無視して、まだ立ち上がれずにいるエリアスに駆け寄って手を差し伸べた。彼がその手を掴む。
「カティヤ……どうしてここに?」
「フィニから事情を聴いて、ここの様子も教えてもらった。一人のほうが速いと思ってアウラは置いて来たんだけど……ごめん、少し遅かった」
「アウラの声が聞こえた気がしたんだ」
「そう? フィニと一緒にいるよ。とにかくここを離れよう。これ以上の大立ち回りはファーンヴァースが嫌がる」
カティヤはエリアスの腕を引いた。彼はそれに従いながらも、「でもボリスが……」と死体を見下ろす。
「今はあんたを優先する。生きていたら、この人もそうしろって言ったと思う」
カティヤはエリアスを抱え上げると、じりじり輪を狭めてくる戦士たちを睨みつけて牽制し、来た時と同じく風のように丘を下って戦場を去った。




