30.混沌の戦場(4)
戦場はますます混沌としていた。最後まで集団を維持していたブルンド勢までも散り散りになり、今では個人同士の戦いになってしまっている。草地のあちこちで殺し合う男たちは、相手が敵か味方かどうやって判断しているのだろう。そもそも、判断などしているのだろうか。いずれ起こるとされている大地の神と大海の神の最終決戦も、きっとこのような有様に違いない。だとしたら、この雄叫びと悲鳴が響き渡る血で血を洗う混沌こそが神々の、そして人々の望みなのか。
エリアスの視線は戦場から徐々に足元へと落ち、そこに転がるグンナーの頭へと行き着く。見開かれたままの瞳は何も映しておらず、ただの暗い穴のようだ。縁に溜まった涙がついと一筋流れ落ちるのを見て、突然エリアスは我に返った。ハッとして顔を上げる。
「トーレ、味方に戦いを止めて集まるように言ってくれ」
「は? なんで?」
エリアスは苛立って手を振るった。「見てわからないのか!? ソールヴ、ブルンド、ヨルゲンに分かれて……もう誰が敵で誰が味方かも分からないまま殺し合ってる。これは何のための戦いなんだ? 僕にはもう分からない!」
トーレはニカッと歯を見せて笑った。こんな状況でなければ無邪気な笑顔と言えたかもしれない。「おめぇは難しく考え過ぎだ、エリアス。もっと単純でいいじゃねぇか。見たまんまでよ。ほら、敵も味方も、血も肉も、何もかもごっちゃごちゃのごちゃ混ぜで……すっげぇ楽しそうじゃねぇか! 今が祭りの最高潮だ! どいつもこいつも大興奮! おめぇが作った戦場で踊り狂ってやがる!」
らんらんと目を輝かせて熱っぽく語るトーレの迫力に、エリアスは気圧されて半歩退いた。
「僕が作った? 違う、これは、僕は、こんなつもりじゃ――」
「わかってるって。こんなはずじゃなかったんだよな? 戦わず、話し合いで、解決するはずだったんだよな? そんなん言いながら、こんなすげぇ戦場を作っちまうのがおめぇだ。やっぱおめぇは俺が見込んだとおりの野郎だった! おめぇに付いて行きゃあ、俺は退屈しねぇ。心が死んでいくみてぇな、頭がおかしくなりそうな退屈を感じなくて済むんだ!」
「そんな……そんなのはおかしい……」
「何が? 誰が? 俺か? こいつらか? それともお前か?」
その答えはもう明らかだった。おかしいのは、自分だ。これが人々の望む世界で、自分一人だけがそれを否定し続けている。いつまで背を向け続けるのか。もうそろそろいいのではないか。目の前にいるトーレも、他の従士たちも、動かなくなった獲物を前にして退屈し始めている。死体をつま先でつつき、早く行かなければ取り分が無くなってしまうとでも言いたげに何度も戦場に目をやっている。それはまるで、頭上に集まり始めたカラスたちのようだ。戦場に響くのは悲惨な断末魔の悲鳴だけではない。高らかに勝利を叫ぶ喜びの声もある。トーレの言うように、この戦いを楽しんでいるように見える。
死んだソールヴの頭に一羽のカラスが舞い降り、エリアスをじっと見つめた。その黒い瞳の中に囚われているのはエリアスただ一人で、他には誰もいない。トーレと共に丘を下ればこの孤独な世界を抜け出して彼らの世界に華々しく飛び立てるだろう。ヨルゲンを殺し、ブルンドとソールヴという障害たりうる二人の豪族までも一度に排除した〈血塗れ草地の戦い〉の覇者として。武勇と栄光を求めて群がる戦士どもを引き連れてアードリグへと進軍し、玉座を手にすれば誰もアウラとの結婚を邪魔できる者はいない。アウラとスケイルズを手に入れて、戦士どもには退屈しないよう血の遊び場を適時用意してやればいい。我が侭をやめて、意地を張るのをやめて、世界と折り合いをつける時だ――。
『エリアス』
アウラの声がしたような気がした。暗い妄想を切り裂いて清浄な風がすっと吹き抜けていき、ボリスが腕を引いているのに気付く。「行きましょう、エリアス。こんな奴の言う事なんてまともに聞いちゃいけません」
ぎっ、とトーレの顔が怒りに歪んだ。まるで全身から殺意を放っているようで、エリアスは恐怖にすくみ、カラスは一声鳴いて飛び去る。
「てめぇ、俺のエリアスをかっさらうつもりかよ。そいつは俺のだぞ」
長い腕がみるみる筋肉で膨れ上がり、肩を怒らせて無防備に前進してくる。
「下がって、エリアス」ボリスが盾を高く構えて前に出た。その裏で剣を抜き、ずんぐりした背を丸めて待ち構える。
トーレは様子見などしない。最後の二歩を一気に詰めると長い脚で盾を蹴った。転んでしまったらそれで終わりだというのはエリアスにもわかる。ボリスはたたらを踏んだが、転びはしなかった。盾も構えたままだ。
「いいね」にぃ、とトーレは笑みを浮かべた。遊び相手を見つけたというような顔をして。
両者の距離は開いたが、トーレは斧の柄で自分の肩をトントンと叩きながら様子を見ている。背の高いトーレから見ると、ボリスはほぼ完全に盾の陰に入っているはずだ。ボリスはそのままじりじりと前進した。トーレは相手が自分の間合いに入っても手を出さない。ボリスは自分の間合いまで近づくと、盾の下から攻撃を仕掛けた。素早く短い攻撃を繰り返し、トーレは足をひょいひょいと動かしてそれを避ける。まるで踊っているかのような、滑稽にも見える動きだ。
かつてエリアスと戦った時のような大胆さは全く無いが、こちらのほうが農場で剣を教えてくれた頃のボリスらしい戦い方だ。エリアスはこれが、相手の注意を低い位置に向けさせるためのフェイントだと知っている。事実、トーレの視線はどんどん下に向き、今はほとんど足元しか見ていない。
(いまだ!)
まるでエリアスの心の声が聞こえたかのように、ボリスは盾をずらしてその陰から剣を突き上げた。身長差があるので、その剣先が向かうのはトーレの腹だ。その一撃に鎖帷子を突き破る力があるようエリアスは祈ったが、無意味だった。ボリスの剣先は鎖帷子にかすりもしなかった。トーレは驚くほど素早い動きで突きを横に避けつつ、一気にボリスの背後へと回り込む。ボリスはきょろきょろ左右に敵を探して、振り向いた。その顔面に、トーレの右の拳がまともに入る。
「ブぷっ!」ボリスが奇妙な声を漏らした。その強烈な一撃は、兜の鼻当てごと彼の鼻を砕いて潰し、前歯をへし折っていた。ねっとりした血で空中に線を引きながら黄色い歯が飛び散る。
「盾に隠れてっとよぉ、回り込まれた時、相手が一瞬で消えたみてぇに感じるよな」
トーレは、焦点の合っていない目をして倒れようとするボリスの顔を大きな手で掴んだ。そして強引に振り回し、エリアスに向けてぱっと離す。ボリスはよろよろとエリアスのほうへ倒れかかってきた。思わず受け止めようとしたせいで一緒になって倒れる。
「エヒアス、ひげて――」
それがボリスの最後の言葉になった。
エリアスの目の前で、ベキン、という鉄のひしゃげる音がして火花が散る。頭蓋骨が割れる音に紛れて、柔らかいものがぐしゃりと潰れた音まで聞こえたような気がした。トーレの斧は、ボリスの頭を兜ごと叩き割っていた。血と、薄桃色の何かが混ざった液体が兜の割れ目からボタボタとエリアスの胸に落ちる。口は悲鳴を上げる形になったかもしれない。しかし声は出なかった。
トーレは斧を引き抜き、ボリスの身体を足蹴にして除け、しゃがんでエリアスと目線を合わせる。
「こんな弱っちい奴じゃ、おめぇの護衛は務まらねぇな。でもま、安心しろよ。これからは俺が守ってやる。邪魔者は全部俺が殺ってやる。だからおめぇは好きにやりゃあいい。女と玉座を手に入れて、話し合いとかを頑張りゃいいんだ。さぁ、俺と行こうぜ」




