28.混沌の戦場(2)
南の丘のふもとを西に外れた辺りから、一筋の狼煙が上がった。それを見るなりソールヴは諸手を叩き、「よしよし! やったな息子よ!」と大喜びした。それから胸を張って腹を突き出し、戦場の血と悲鳴を全身で浴びようとしているかのように両腕を広げて声を張る。
「大地の神ノウスよ! この戦いをご覧あれ! 生き延びた者には勇者の名誉を、雄々しき者には〈大地の館〉へ招かれる名誉を、授けたまえ!」
本来は開戦時の言葉だが、この戦いは不意打ちで始まったため言う暇が無かった。戦闘の中心は南へ後退し、もう矢は飛んで来ない。盾の壁は解かれ、丘の上は勝利が決まったような雰囲気だ。
エリアスはこの出来事にどう折り合いを付ければ良いか分からないまま、ぼんやりと南の丘に目をやった。丘を登る黒い影は緑の山にたかる虫けらのようだが、逃げるヨルゲン側の戦士であろう。そして武器を振り上げ、逃げる彼らを追う味方の殺人者たち。追い付かれた黒い影は動きを止め、ぷちっと血で緑を汚す。「もういいだろう……」というエリアスの呟きは誰の耳にも届くことはない。
そこへ、鎧を鳴らす騒がしい一団がこちらの丘を登って来た。ブルンドの腹心、赤毛のグンナーだ。返り血に塗れた味方を数人引き連れている。ソールヴの従士が「なんだ」と押し留めたが、グンナーは半ば強引に振り払って「ブルンド様より緊急の用件だ」と大声で告げる。武器を持ち上げた従士を手で制して、ソールヴは近寄ってくるグンナーに向けて言った。「もう話す事などあるまい。あの狼煙を見ろ。ヨルゲンは我が長男レイフが討ち取った。あとは戦いを終わらせるだけだ。ブルンドのところに――」
「緊急の用件です。ソールヴ殿にだけ内密に。お耳を拝借」
ソールヴは怪訝な顔をして耳を貸した。グンナーは彼の肩に手を置き、耳打ちする。「なっ!?」という驚きの声。びくん、とソールヴの大きな背中が揺れる。
いまさら何に驚くのか――エリアスはぼんやりとソールヴを見た。
老戦士はがっくり膝をつくと、そのままどすんと横たわり、「がふっ! ブぶぅっ!」とおかしな声を出しながら激しく痙攣した。グンナーは倒れたソールヴの肩に足をかけ、ごろりと仰向けにする。胸には短剣の柄が生えていた。吐血に黒く染まった髭。白く濁った瞳。つい先ほどまで満面の笑みを浮かべていた老人は、もう何回か痙攣して、目を見開いたまま動かなくなった。死んだのだ。
鎖帷子をこのように貫通する武器といえば鎧通しの短剣だろう。槍の穂先のようにまっすぐ尖った針のような刀身で、刃は付けられていないため突き刺す以外に用途は無い、純粋な殺しの道具だ。エリアスはソールヴの死体を見ながらぼんやりそんな事を考えていた。グンナーが周囲を恫喝するように叫ぶ。
「ブルンド様はこちらに付けば勝利の栄誉を分け与えると言っている。死んだソールヴと一緒に〈大地の館〉へ行きたい者だけかかってこい!」
その場にいる全員が動きを止め、お互いに見合った。誰が敵で、誰が味方なのか。この戦場で起こっているだろう混乱がここにもあった。その一瞬の静寂を切り裂くように大きな影がエリアスの隣を駆け抜ける。ちらりと見えたのは、目をらんらんと輝かせて笑みを浮かべたトーレの横顔。
グンナーを取り巻くブルンドの兵はトーレの急襲に反応できなかった。右手の斧の一振りで顔面を潰され、身体ごと吹っ飛んで道を開けてしまう。グンナーは両手斧を斜めに持ち上げて防御の構えを取ったが、トーレはお構いなしに左手の斧を振り下ろした。片手であるにも関わらず、長身から振り下ろされた彼の斧は両手斧の柄を両断し、グンナーの鎖帷子さえもバラバラに散らす。「うおおっ!」とグンナーは慄いてよろけ、その身体を仲間が支えた。トーレは近くにいたブルンド勢の一人を長い脚で蹴り飛ばし、身体を捻って槍の一突きをかわしながら叫ぶ。「ブルンドの野郎は裏切った! ソールヴはやられちまったがエリアスがいる! エリアスを守れ、野郎ども! ブルンドに味方するやつもヨルゲンに味方するやつも敵だ! 敵は皆殺しだ!」
言葉よりもその行動が、周囲のソールヴ勢を目覚めさせた。まだ立ち直れずにいるグンナーを中心に円陣を組んだブルンド勢を、ソールヴ勢が取り囲む。トーレは相手の円陣などお構いなしに嬉々として飛び込み、盾を前蹴りして相手を倒すとそのまま踏み台にして敵集団に斬りこんだ。ソールヴの従士たちもそれに続き、丘の上でも戦いが始まる。野獣の如き咆哮と断末魔の悲鳴、飛び散る血と肉。目の前で行われている殺し合いを見て、エリアスは思わず「ふふっ」と乾いた笑いを漏らす。こうも立て続けに驚かされるとは思ってもみなかった。ソールヴとブルンドの共謀。そしてブルンドの裏切り。
「エ……ス」
この戦いは何のためにあったのか。
なぜ彼らは殺し合っているのか。
「……リア……」
エリアスには全く分からない。なのに、トーレたちは何をすべきか分かっているかのように戦っている。
「……エリアス!」
ぐいぐいと腕を引かれているのに気付いて、誰かと見ればボリスだった。「エリアス、計画は失敗です。ここにいてはいけない。離れましょう」
「あ、ああ……」言われるがまま立ち上がったエリアスの足元に何かがドサリと落ち、赤黒い跡を残して転がった。グンナーの頭だ。
「おいおい、冗談だろぉ?」トーレの大声にエリアスは振り向く。「ここからが最っ高に面白れぇとこじゃねぇか。一緒に楽しもうぜ!」
返り血を浴びたトーレと戦士たち。その足元に転がるいくつもの死体。眼下では男たちが狂ったように叫びながら血の饗宴を繰り広げている。
――誰のために?
――何のために?
エリアスには何も分からなかった。




