17.トレグボルグ(1)
解放された一五人のスケイルズ人と共にアウラたちがトレグボルグに到着したのは、ソールヴの農場を出発して三日目の午後であった。
トレグボルグは〈世界の果て山脈〉から流れ出て北方を横断してきたゴルダー河の支流が〈鉄の海〉へと注ぎ込む河口の一つにある。この土地はスパイク谷を除く三地方のいずれとも交流可能な交通の要衝であり、過去何人もの豪族が入植を試みては失敗していた。いずこかの勢力に接近すれば、他の勢力から危険視されて潰される。あちらを立てればこちらが立たぬ、という言葉はこの土地のためにあるようなものだ。現在はその名のとおりトレグという豪族が支配している。『ドルイドは全ての豪族から距離を置いたが、トレグは逆に誰とでも付き合うという方法で中立を保っている。今のところ、その天秤は均衡を保っているようだ』とはファーンヴァースの言である。
トレグはいわゆる行商人から成り上がって地主にまでなった男だが、彼を尊敬する北方人はほとんどいないだろう。人から人へと物を動かし、その差額で儲けを得るという商人のやり方は他人の取引に入り込んでいくらかちょろまかしているようにしか見えない。北方人にとっては同意を得ているぶん盗人よりはマシという程度だ。
貨幣が一般に流通しているファランティア王国でさえ商人はどこか見下されている。それが北方人と同じ理由によるものなのか、カティヤは知らない。ファーンヴァースに訊ねればああだこうだと説明してくれるだろうが面倒だしそれほど興味も無かった。
道中の出来事といえば、盗人が野営地に忍び込んだ事と、無法者の襲撃があった事くらいだ。そのどちらにもアウラは的確に指示を出して対処した。結果、スケイルズ人にもソールヴから提供された物資にも被害はない。そんな彼女の仕事ぶりにはカティヤも感心させられた。離れていた三年間でアウラもまた多くを学んでいたのだ。弓はもともと優れていたが今では剣の扱いにも長けているし、きっと操船についても仕込まれているだろう。良い教師と訓練に没頭できる環境、そして必死の努力がなければ彼女の年齢で身に付くようなものではない。アイオルフとの政略結婚はそれら全てを捨てて掃除や料理や織物をしろと言うようなものだから、反抗するのもうなずける。
鬱蒼とした自然のままの暗い森から人の手が入った明るい森へと変わり、木立を抜けるとトレグボルグが見渡せる。地面は丘のようにゴルダー河へ向けて盛り上がり、その上に木製の壁とロングハウスの屋根が見えた。そこから土手下の家々、畑、果樹園の間をぬうようにくねくねと蛇のような道が集落の入口まで下ってきている。大きさも作られた時期もまちまちな、つぎはぎされた壁は過去の入植者たちが作ってきたものを流用しているのだろう。その内側に、比較的新しい家々が建っているという景観だった。
アウラ率いるスケイルズ人たちがぞろぞろ向かっていくと、集落の入口に武装した男たちが集まってきた。ソールヴから服や武器を提供してもらったとはいえ傍目には無法者の集団にしか見えないだろうから自然な反応といえる。弓の射程に入る手前でアウラは全体を止め、前方に集まっている人形のような大きさの人々に向けて大声で呼びかけた。開けた土地に凛とした声が響き渡る。
「攻撃の意思はない! 交渉のため二人だけそちらへ行く!」
前方の集団がもぞもぞと動き、やがて返答の声が返ってきた。アウラには聞き取れなかったらしく、目で問われたカティヤは「いいってさ」と答えた。アウラはうなずき、スケイルズ人たちに指示する。
「じゃあ、ちょっと行ってくるけど、あなたたちはここから動かないこと」
彼らはむっつりと短い言葉か態度で了承を示した。あまり良い態度ではない。カティヤは最後尾にいるファーンヴァースに視線を送ってからフードを目深に被ってアウラの後に続いた。
集ったトレグボルグの人々は、やって来るのが小柄な人物二人だけだと分かって少し緊張を和らげたようだった。互いの顔がはっきり見える距離まで近付くと一人の男が歩み出てくる。年齢は三〇過ぎというところか。背は低いが肩の筋肉は異様なほど盛り上がり、上腕の太さも尋常ではない。顔に走る三本の傷、むき出しの逞しい腕に走る無数の傷が、男の戦歴を物語っていた。両手にそれぞれ一本ずつ戦槌を持ち、左手の一本は肩に乗せたまま、顎をしゃくって誰何する。
「何者だ?」
「わたしはスケイトルムの主にしてスケイルズ諸島の王エイリークの娘アウラ。取引をしたい」
アウラは王女に相応しい格好をしていない。引き連れているスケイルズ人たちも無法者よりは多少整っている程度だ。そのせいか乾いた笑い声も聞かれたが、目の前の屈強な男はニコリともしなかった。「後ろの。フードを取って顔を見せろ」
カティヤは素直に従ってフードを背中に落とした。汗で湿った赤毛が跳ねる。男はじっとカティヤの緑色の瞳を覗き込み、彼女はその視線を平然と受け止めて待った。少しして男は再びアウラに尋ねる。「本物だという証拠は?」
「証明する必要がある? 仮にわたしが偽物だとしても取引するのに不都合なんてないと思うけど」
男はむっつりとして答えた。「偽物なら問題ない。本物だった場合に問題になるかもしれねぇんだ」
「どんな問題?」とアウラ。
男は答えず、本題に入る。「……で、用件はなんだ」
「船が欲しい。できればスケイルズの船が。古くても構わないし貸してくれるだけでもいい。わたしたちの持ち物を見てもらって、そちらが欲しいものを提供する」
ソールヴに提供された物資と無法者から奪った装備を合わせてもアウラたちの所持品には古い小舟程度の価値しかない。だからこの取引は上手くいかない公算のほうが大きかった。それでもアウラがトレグボルグに立ち寄ると決めたのは、ここで船が手に入れば陸路よりも早く安全にスケイトルムへ戻れるからだ。
アウラたちがスケイトルムへ戻る確実な方法は海岸線に沿って北上し、アルダー地方を越えてスケイルズ諸島の勢力圏まで歩いて行くことだ。提供された食料もそれを見越した量があるし、そこでなら船を無償で貸してくれる人もいるだろう。しかしそれは辿り着ければ、の話で、アルダー地方の豪族がスケイルズ人を無視してくれるとは限らないし、無法者や森の獣や魔獣に襲われるかもしれない。陸路を進む時間が長いほど危険と遭遇する確率は増す。
「残念だが」と男は前置きした。「俺は海に出られるような船は持っちゃいねぇ。川船だけだ。俺にできんのは、あんたらを河の向こう岸まで送ってやるだけだ」
断られるのは想定内だが、男の答えは想定外だった。アウラの声に困惑の色がにじむ。「信用できないのかもしれないけど嘘は止めて。トレグはスケイルズ船を持っていると聞いている」
「弟だ」と男。
「え?」
「俺は弟のトーキルだ。トレグは兄貴だ。川の向こう側に住んでる。スケイルズ船が欲しいなら兄貴と話してくれ」
「そ……」何か言いかけて、アウラは結局「……そうなんだ」と言った。それはカティヤが考えた中でも一番ましな答えだった。
トーキルはアウラたちの持ち物から鈍らでない武器四本、手を付けていない乾燥肉とチーズの塊を二つずつ要求してきた。多少割高な気もするが、浅瀬を探してずぶ濡れになりながら渡河するよりはとアウラは要求を飲んだ。
トーキルに案内されてスケイルズ人たちはぞろぞろと土手を上る道を行く。三度折り返して頂上に至ると、そこには武装した戦士が待ち構えていた。坂道で前後を挟まれた形になり、スケイルズ人たちに緊張が走る。先頭のアウラは門の前で立ち止まった。トーキルは家人から角杯を受け取り、蜂蜜酒をちびりと注いで差し出す。「当家のもてなしを受けられよ」
アウラは角杯を受け取って一気にあおり、それを返して少しむせながら宣言した。「もてなしに感謝する。貴家に害は成さぬと神に誓う」
「ならば当家の門戸はそなたを阻まぬ」
細部は地方によりけりだが〈もてなしの授受〉は古来より続く北方人の慣習である。これでアウラたちは客として認められ、トーキルの土地で安全を保障されたことになる。双方ともに緊張が和らぎ、スケイルズ人たちはトーキルの家の敷地内に足を踏み入れた。庭を横切って反対側の門から出ると土手の内側が見渡せる。河岸へと下っていく斜面には畑があって、作物は豊かに実り、そこで働く女たちの表情は明るい。ここまでの様子を見る限り、トーキルは普通の豪族のように見える。すなわち、農民であり地主であり戦士である、というものだ。行商で成り上がった小狡い男という印象は無い。行商人は傭兵として戦力を提供する場合もあるから、トーキルはそちらの担当だったのかもしれない。
船で河に出ると海が近いせいか潮の香りがした。スケイルズ人たちは沖に向けてぼそぼそと大海の神への祈りの言葉を呟く。河幅は半マイルもあって、途中にある中洲はまるで小島のようだ。低木が密集した木立があり、砂浜にはおもちゃのような小舟と干された投網。その近くで釣り糸を垂らす少年に、手を振ってくるような愛想は無い。
対岸の浮き桟橋に到着してぞろぞろと船を降りる。最後にカティヤがファーンヴァースと共に下船すると、トーキルとアウラが話しているところだった。
「あそこに見えるのがお兄ちゃん家だ」
思わずカティヤとアウラは視線を交わす。きっと考えていることは一緒だ。
――この顔で〝お兄ちゃん家〟だって!
「聞いてんのか?」
「ええ、もちろん」平静を装ってアウラは答え、カティヤは土手を見上げた。反対側にあったトーキルの家とよく似た造りだ。浮き桟橋のある土手の内側には農地があって、上には囲壁とロングハウス。
「通り道は分かるな。畑を踏み荒らすんじゃねぇぞ。これを持っていけば、お兄ちゃんに会える」
――お兄ちゃん!
カティヤが笑いを堪えている間に、トーキルは一本の紐で通したたくさんの木札を取り出してカラカラ音を立てながら二枚を外すとアウラに手渡した。
「ありがとう」
トーキルは無愛想に鼻を鳴らして船頭を呼び、船で対岸へと戻って行った。




