16.婚約の夜
その晩、ソールヴの農場にいるほぼ全員が集められ、二人の婚約が発表された。アード勢でこれに反対する者はなく、むしろ歓迎されたのはアウラにとって意外だった。無言で去った者もいたが予想よりずっと少ない。そんな彼らとは対照的に、味方であるはずのスケイルズ人たちは終始無愛想で、はっきりと反対してはいないが歓迎してもいなかった。ひとまず黙ってこの場をやり過ごそう、というような雰囲気だ。
全員の前で二人は唇を重ね、ソールヴは蜂蜜酒と料理を振る舞い、捕虜たちの枷は外された。
それらが済んで月も高い深夜、アウラは提供された家の窓枠に腕を置いて外を見ていた。この家の住人である女子供は同じ屋根の下で眠っている。カティヤも一緒だ。夏の夜は窓を開けていても文句は出てこない。すぅすぅという彼女らの寝息は川の流れのように穏やかだ。
窓から見えるのはソールヴの母屋がある丘の黒い影とその上で瞬く星たち。月明りが手前の水面に銀色の帯を作っている。アウラの視線は川に沿って土手の上を移動し、二つの燃える松明台で止まった。その炎が照らす納屋の中には解放されたスケイルズ人たちが押し込められている。騒動は起こさないと誓った彼らだが、だからといって農場の中を自由に歩き回って良いということにはなっていない。納屋の出入口は武装した戦士が見張っている。
エリアスとの計画は今のところ順調に進んでいるが、アウラは憂鬱な気分だった。それはスケイルズ人たちの反応のせいだ。婚約発表の後、アウラは直接彼らに自らの計画を説明したが理解してくれた者は一人もいなかった。それもそのはずで、彼らは友を殺して自分たちを家畜同然に扱ったアード人を憎んでいる。その憎しみは解放されたくらいで薄れるようなものでは決してなく、アウラもまた同じ気持ちでなければいけないはずであった。しかし、そんな気持ちを思い出そうとすると決まってエリアスが邪魔をする。強面な猪戦士の恰好で現れて突然滑って転んだことや、胸の内を明かした時の悲しげな横顔や、二人で笑い合った時の笑顔や――出会って数日しか経っていないのに、アウラの心はどうしようもなくエリアスに占められている。
複雑な感情で胸がいっぱいになり、小さなため息が漏れた。顔を上げると、丘の斜面にちらちらと灯りが見え隠れしている。
――エリアスだ。
直感的にそう思い、灯りを目で追う。それは確実にこちらへと向かって来ており、やがて持ち主も見えてきた。松明を手に歩いてくるのはずんぐりむっくりのボリスで、エリアスも一緒だ。近くまで来て窓から顔を出しているのがアウラだと分かったらしく、彼は手招きをして、そのまま誘導するように川岸へ下りていった。
他の人を起こさないよう忍び足で家の中を横切って、アウラはそっと扉を開いて外に出た。夜は昼間に比べてずっと涼しく快適だ。切り拓かれた農場内では森の中よりも風通しが良く、ふと海風を恋しく思ったが、ここの風もさらさらとして悪くない。
草に覆われた斜面を歩いて川岸へ下りていくとエリアスが待っていた。肩に掛けたマントを金細工のブローチで留め、刺繍に縁どられた立派なチュニックに腕輪、ブーツという婚約発表の時の恰好のままだ。アウラのほうは首から下をすっぽり覆う薄手の寝間着に、足元は柔らかい皮靴のみで、不釣り合いだった。
「こんばんは。アウラ姫」
真面目な顔のエリアスに、少し悪戯っぽい笑みを返す。
「こんばんは。エリアス王子」
エリアスは黙ってアウラを見つめている。
「どうしたの?」
「……綺麗だ。君の髪、昼間は太陽のようだったけど、夜は月のように輝いている」
ふいにそんなことを言われて、アウラは急に恥ずかしくなった。せめて借り物の寝間着じゃない時にして欲しい。照れ隠しに腕を組んで横を向くと、土手の上にいるボリスの背中が見えた。午前中にはエリアスを殺そうとした男が今は護衛として付き従っている。客観的に今日を振り返れば、アウラ自身でさえにわかに信じられないほど激動の一日だったのだから、スケイルズ人たちが受け入れられないのも仕方ないかもしれない。計画はまだ始まったばかりで全てはこれからだ。そう考えれば多少は気が楽になった。
「そ……わざわざそれを言いに来たの?」
「いや、違う」エリアスの真剣な声音に、アウラは彼のほうに向き直る。「僕は最初に、君に謝らなければいけなかった」
「全く同じことを初めて会った時にも言ったね。その後、謝ってたと思うけど?」
「いや、あの時は君個人に……エルネッドに謝ったんだ。そうじゃなくて、君がアウラ姫だと名乗った時点で、あの戦場でのことを――」
「やめて!」
顔を背けてアウラは鋭く言った。自然と眉間に力が入り、ぎゅっと皺が寄る。「その事はまだ……考えたくない。考えないようにしてるの」
「……ごめん」
二人は沈黙した。雑音といえば水車の軋みくらいしかない夜の静寂の中、川を渡る涼しい風に吹かれて立ち尽くす。やがて気持ちを静めたアウラは顔を上げた。
「話はそれだけ?」
「いや、今晩のうちにどうしても言っておきたいことがもう一つあって」
アウラが明日、この農場を発つのはもう決まっていた。解放された捕虜たちを連れてスケイトルムへと戻り、父王エイリークを説得しなければならない。ヨルゲンとの和解は無理でも、エリアスとの結婚を認めさせることができれば状況は大きく変わる。いくら強勢を誇るヨルゲンでもエリアスを無視できなくなるはずだ。それは一日でも早いほうがいい。だから今夜を最後に、二人はしばらく離ればなれになる。
「君との婚約の件なんだけれども、その……はっきりさせておきたい」
ドキリとして、アウラは腕を組んだまま身を固くした。これがただ計画のためだけの関係だと言われたら自分は傷つくのだろうか。せめて友情くらいは感じていて欲しいが……いやそれはなお悲しい。世界が揺らぐような一瞬の後、エリアスは緊張した面持ちで続ける。
「僕としては、その、今回の戦争のこととかヨルゲンのこととか、そういうのが無くても君と出会っていたらこうしていたと思う。つまり、その、目的のための手段じゃない、と言いたくて……」
世界は再び安定を取り戻した。エリアスのほうはまだ口元を強張らせて言葉を継ごうとしている。
「その、はっきり言うよ……初めて見た瞬間から君のことが気になっていた。話しているうちにどんどん好きになった。君の名前がエルネッドでもアウラでも関係ない。髪の色が何色でもかまわない。ずっと僕のそばにいてほしいと思っている。君も僕と同じ気持ちだったら嬉しい……」
「……ふふっ、それを言うためにわざわざ正装して?」
肩を揺らしたアウラに、エリアスは「そ――」と何か言おうとしたが、彼女は先んじて彼の肩にぽんと手を置いた。「大丈夫。政略結婚的な感じになっちゃってるけど、わたしも同じ気持ちだよ」
「そうか、良かった」
ふーっ、と大げさに息を吐いてエリアスは胸を撫で下ろした。肩に置かれたアウラの手を取って優しく包む。
「だから、本当は君を行かせたくない。どうか気を付けて、僕の大切なひと。もし父親の説得に失敗しても君だけは無事に僕の所へ戻って欲しい」
彼の声と握った手のぬくもりから、真心が全身に染み渡っていくようだった。それはとても心地よく、もっと感じていたくて、身体は自然に引き寄せられる。エリアスもまた同じ気持ちに違いなかった。
「あなたも……」
そして二人は身を寄せ合い、月明かりの下で本物の口づけを交わした。




