12.第三の選択肢
泉の水面に顔を映して、アウラは緑色をした髪の毛に手櫛を入れ、粗紡布の服に絡まっている金髪を見つけては取って捨てた。茂みの中を近付いてくる物音の主はエリアスに違いない。自然体に見えるよう居住まいを直したが、直後には顔に汚れが付いていないか気になって再び泉を覗き込む。そこへ、茂みを揺らしてエリアスが現れた。
先日同様に猪戦士の恰好をしていて「やあ」と髭を揺らす。もしかしたら微笑んでいるのかもしれないが、面当てと付け髭の下に隠れて見えない。
「あっ、エリアス。こんにちは」
顔を上げてアウラはエルネッドとして挨拶した。彼の衣装が放つ革と油の臭いが清浄な泉の空気を冒して思わず眉根を寄せる。それに気付いたのか、エリアスは泉の奥を指差して付け髭を揺らす。
「いきなりで悪いけど、ちょっと着替えさせてもらってもいいかな?」
「ええ、ご自由に」
エリアスは足元を確かめながら泉を回り込み、水面に木漏れ日を作っているブナの木の裏に隠れた。がちゃがちゃ、ごそごそと物音を立てた後、裾が膝下まであるチュニック一枚という恰好で出てくる。細い腰は紐で縛り、剣帯を肩にかけて立つ彼の姿はかつてアウラが夢想した王子そのものだ。まるでおとぎ話ね、とアウラは思う。
(魔法が解けて、王子様は猪から素敵な男性の姿に戻り……そして泉の乙女と恋をする……)
胸の奥で生じる、微かなときめきと痛み。
「えーと、その……そっちに行ってもいい、かな?」と、エリアスが遠慮がちに問う。
「うん」
エリアスは泥濘にくるぶしまで汚しながら泉の淵を歩き、アウラが腰かけている倒木まで来た。
「怪我、ずいぶん良くなったみたいだ。最初に見た時は……かなりひどい怪我に見えたけど。ドルイドの魔法なのかな?」
「え、ああ……うん、そう。詳しくは言えないけど……」
「いいよ。ドルイドの魔法に興味はあるけどね」エリアスは微妙な距離をあけて倒木の端に座り、肩にかけていた剣帯を枝に引っ掛けた。
(あの剣を奪えれば……)
一瞬エリアスと視線が交差し、アウラは慌てて足元に視線を落とした。エリアスは隙だらけだ。そうする機会はいくらでも見つけられるし作ることもできるだろう。ただ自分に、その覚悟さえあれば。その選択に伴う犠牲を受け入れられるなら。
何か話をしなければと思いながらも、迷いが、喉に詰まったようで言葉が出てこない。エリアスのほうから何か話してくれればいいのだが、彼も黙ったままだ。ちらりちらりと横目に様子を窺うと、何かを言いかけては止めている。それは全く、北方の男らしくなかった。北方の男であれば単刀直入にさっさと用件だけ言うか、厳めしい表情をして腕でも組んで黙っているものだ。
前回と同様に最初から調子を狂わされている自分に苛立ちを感じていると、エリアスは話のきっかけになるものを見つけたのかやっと言葉を口にした。「それ、昨日はしてなかったね?」彼の視線は、アウラの首元に向かっている。
「え、ああ……これ?」と、アウラは貝殻の首飾りを持ち上げて見せた。「子供の頃からずっと大切にしている物なんだけど、紐が切れちゃって。昨日、フィニが直してくれたの」
「ああ、あの灰色の髪の。面倒見が良いんだな。子供の扱いにも慣れていそうな……」
アウラは含み笑いをしながら言った。「ふふっ、それ、本人には言わないほうがいいよ」
つられたようにエリアスの声にも陽気さが混じる。「えっ、なんで?」
「彼、わたしたちとそんなに年齢違わないよ」
エリアスはフィニを思い出そうとするかのように一度上を向いてから、神妙な顔つきになって視線を戻した。「……もしかして、からかってる? 本当に?」
ついにアウラは声を出して笑ってしまった。「あははっ、わたしも最初は年上扱いしちゃって。本人は気にしてないふうだけど、気にしてるの、バレバレで!」
「ええーっ、一〇は年上だと思ってたよ!」
二人は普通に笑ってしまってから目配せしあい、声を落としてクスクスと笑った。葉がざわざわと揺れ、泉はキラキラと輝いている。微笑みを浮かべたままエリアスがさりげなく言う。「やっぱり君、スケイルズのほうにいたんだね」
「やっぱり? え、どうして?」
「言葉にスケイルズ訛りがあるから、そうかなーと思っていたんだけど……その首飾りにしている貝殻は〈シーリの二つ心〉だよね。それが採れるのはスケイルズ諸島だけだ。子供の頃から持っていたっていうからさ」
アウラは驚いたというより不思議に思った。そんなに色々考えながら人と話したことは無いし、気にする人間がいるとも思っていなかった。それに貝の名前まで知っているなんて、エリアスはまるで何もかもを知っているかのようだ。もしかしたら、エルネッドの正体がアウラだと見抜いているのではないか。でも、もし見抜いたうえでこうして友達のように接してくれているのならそれは――嬉しい、というのがアウラの正直な気持ちだった。
「もしかして、シーリのお話も知ってる?」
エリアスはうなずいた。「もちろん。北のほうでは有名なお話らしいけど南のほうで語る人は少ないね。でも〈シーリの二つ心〉なんて名前を聞いたら由来を知りたくなるのが普通だろう?」
アウラの感覚では、それは普通ではない。仮にそういう名前の貝だと知っても珍しい名前だな、とか、ふーんとかで済ましてしまうほうが普通だ。やはりエリアスは変わっている。不思議なもののように見つめていると、彼は視線を逸らして慌てたように言葉を継いだ。
「あ、えっと、二人の男から一人を選べなくて、自分を二つにしてしまう娘の話だよね。最後は死んでしまうっていう……」
「そうそう」アウラはうなずいてから、ふと彼があの話をどう解釈しているのか気になった。「ねえ、わたしの友達がね、あれは選択に伴う犠牲を避けようとズルした結果、全て無くしてしまったっていう教訓を含んだお話だって言うんだけど、あなたはどう思う?」
「なるほど。昔話はたいてい教訓を含んでいるものだ。その解釈はいいな……でも、うーん、そうだな……」
エリアスは腕を組んで上を向いた。それは考える時の彼の癖なのかもしれない。そのわずかな沈黙の時間にアウラは今までにない平穏を感じた。血も怒りも闘争もどこか遠くの世界に行ってしまったようだった。まるで水底から湧き出るようなエリアスの言葉が、彼女の心を満たしていく。
「僕は……シーリのように選択する自由を持っている人への憧れと嫉妬から生まれた物語だと思う。世の中のほとんどの人は選択する機会そのものを持たない。それを自覚していない人も大勢いるし、そのほうが幸せだとも思ってしまうけどね」
「それって……エリアスもそうなの? 選択する自由がない?」
エリアスは悲しげに微笑んだ。その表情がアウラの胸をぐっと締め付ける。
「僕の話を聞いてくれる?」
「ええ……ええ、もちろん」感じた胸の苦しさに動揺したままアウラはうなずく。
「僕は自分がアードリグの王ヨルゲンの子だと物心付いた時から知っていた。母様はいつも誇らしげにそう言っていたし、周囲の人たちもそのように僕らを扱っていたから。僕と母は父の従弟であるブルンドおじさんの農場に住居を与えられて暮らしていたんだけど、農場の仕事にはほとんど関わらせてもらえなかったし、狩りにも連れて行ってもらえなかった。大切にと言えば聞こえはいいけど実際には隔離されたような暮らしでね。暇を持て余していたから僕はよく本を読んで過ごした。ブルンドおじさんの家はたぶん北方で一番本があるよ。こんな大きさの棚いっぱいに本がぎっしりあったんだ」
エリアスは両手をめいっぱい広げて棚の大きさを表現し、「すごい」とアウラは素直に驚いた。スケイトルムでもそんなにたくさんの本は無いだろう。北方では物語も詩も口伝が当たり前で文字にして残すことはあまりない。権力者はよく本を飾っているが、それはあくまで文化的な薫りのする装飾品として、だ。
「まあ実際に読んでいる人は僕以外にいなかったけれど。持ち主のブルンドおじさんも新しい本を手に入れたら本棚に突っ込んでそれっきり」
ブルンドはヨルゲンの右腕と言われている人物でエリアスの従叔父にあたる。〝ブルンドおじさん〟という言い方からは父であるヨルゲンよりも近い存在と感じているのが窺える。
「子供の頃は……大人になったらファランティア王国に行こうと思っていたんだ。王都ドラゴンストーンには図書館という本が詰まった館まであるんだよ。そこで本を読んだり……書いてみたり、したい、と思っていて……」
エリアスは恥ずかしそうに頭を掻いた。本を書く、という行為は戦士である北方の男がすべきことではない。
「……でもそれは無理だとすぐに悟った。僕は日没までに必ず農場へ戻っていなければいけなかったし、母様を置いていくわけにもいかない。母様は農場を離れるなんて考えもしなかったと思う。いずれ王が迎えに来る、と妄信していたから……結局ヨルゲンが迎えをよこしたのは母様が死んだ後だった」
ぎゅっと拳を握り、肩と声を震わせる。
「〝いずれヨルゲンはお前を必要とするだろう〟って、ブルンドおじさんはいつも言っていた。今にして思えば予言みたいで不気味だよ。現に異母兄が全員死んで僕が呼ばれたんだからね。でも僕は全然嬉しくなかった。母様を小さな家に縛り付けてその人生を奪ったのはヨルゲンだ。僕はあいつが憎い。あいつのやり方も、考え方も、何一つ認めたくないんだ。だけど……」
握った拳をゆっくりと開き、エリアスは自らの両腕を抱いた。
「だけど、君の言ったとおりだ。僕は怖い。あいつも、あいつの周りにいる連中も、人殺しを楽しんでいるようにしか見えない……でも僕にはあいつの言いなりになって、あいつらの仲間になる以外に選択肢なんてない。いつかこの悩みも苦しみも忘れて、あの頃はただ殺しに慣れていなかっただけだ、ただの臆病風だったんだなんて恥じるようになったら、一体そいつは誰なんだ?」
「エリアス……」アウラは同情した。望まない役割を与えられて、従わされるという境遇は彼女も同じだったから。
「でも……でもね、エルネッド。たぶん僕のほうが間違っているんだ。みんなと同じように考えて、みんなと同じようにできなきゃいけないんだ。みんなが望む自分にならなきゃいけないのに、その期待に応えられない。その罪悪感で窒息しそうなほど苦しいんだ」
アウラはハッとした。罪悪感――それこそまさに、自分を苦しめていたものの正体ではないか。アウラも理解しているのだ。スケイトルムに戻ってアイオルフと結婚することがエイリークの娘として生まれた自分の役割であり、人々が期待するものなのだと。しかし心は、それを激しく拒絶している。
(エリアスも同じなんだ。彼が敵じゃなく味方だったらどんなに良かったか。これからもこんなふうに相談したり話したりできたら……あっ)
その瞬間、アウラは急に道が開けたように感じた。
(エリアスを味方にする……そうだ、どうして今まで気が付かなかったんだろう!)
それまでの迷いが嘘のように、未来への道筋がはっきりしていく。「ねぇ、エリアス」アウラは興奮を抑えて問いかける。「あなたは王になりたくないの?」
「……そうだね、少なくともヨルゲンのようにはなりたくない。〈血吸いヶ浜〉の戦いを見て、こんなのは二度とごめんだと思った。あんな殺し合いが人々の幸福につながるなんて信じられないんだよ」
「でも王になることとヨルゲンになることは違う。あなたが嫌だと……ううん、無意味だと思うならしなければいい」
エリアスは両腕を掴む手を緩めて、わずかにアウラのほうへ顔を向けた。葉が落とす影の下で表情には苦渋がにじんでいる。「君はアードリグの内情を、僕の評価を知らないから。僕を王と認める人間はほとんどいない――」
「王は戦士に名誉を、その家族に豊かな暮らしを与える者」
「――えっ?」
驚いたように、エリアスは顔を上げてアウラを見た。二人の視線がはっきりと交わる。
「ヨルゲンには無理でも、あなたにならできる。スケイルズと手を組めばいい。スケイルズ船のアード地方通過を許せば、アルダー地方の内陸部まで遠征できる。そこで得た品物を取引する市をアードリグか、その近くに立てる。手を取り合えば戦いは終わるしスケイルズもアードも豊かになる」
はっきりした物言いに、驚いていたエリアスの表情がみるみる変わっていった。「エルネッド……」彼は、きっと気付き始めているのだろう……しかし、アウラはそれを待たなかった。
「わかってる。世の中から戦いは無くせない。戦いと勝利なくして得られるものなんてこの北方にはほとんど無いから。でもわたしたちが戦うべき相手はその罪悪感とかで、アードでもスケイルズでもない。ただ黙って自分の心が死ぬのを待つなんてわたしは絶対に嫌」
「エルネッド、君は……」
彼と協力すれば絶対に上手くいく、という確信がアウラを興奮させ、彼女はぴょんと倒木から泉に飛び降りた。冷たい水に足を浸しても興奮は冷めない。二歩、三歩と飛沫を上げながら泉の中を歩いてアウラは振り向き、木漏れ日の中で胸に手を当てて告白した。
「わたしの本当の名前はアウラ。スケロイ島の島主にしてスケイトルムの王エイリークの娘。だからできるはず。わたしたちが結婚すれば!」




