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9.ソールヴの農場

 濡れた綿入れの不快感に面当てと付け髭の下で顔をしかめたまま、エリアスは茂みを抜けてドルイドの野営地まで戻って来た。数人のドルイドに囲まれるようにしてフィニと名乗った年上――と思うが、年齢不詳だ――のドルイドに、トーレとボリスが待っている。


 トーレは我が物顔で地面に座り両足を投げ出していて、ボリスは露出した根を椅子代わりにしていた。外部の人間である二人より、周囲に立つフィニたちドルイドのほうが遠慮がちにしている。


(ここは彼らの場所なのに)


 二人の無神経さにエリアスはますます不愉快な気分になった。トーレが最初に反応して、「おっ、戻って来た」と首を伸ばす。それでボリスもエリアスを見て、ちらりと怪訝な表情をした。水たまりではしゃいだ後の子供のような有様で泥だらけだからだろう。しかし彼は何も言わず、声をかけてきたのはドルイドのフィニだった。


「ア……エルネッドには会えました?」


「ああ。また寄らせてもらう」


「えぇっ!? 何かおかしな事でも!?」


 驚くフィニに、トーレとボリスも続く。

「へっ? なんで?」

「なぜです?」


「理由を説明するつもりはない。それとも何か不都合でも?」


 不愉快な気分が意図せず口調に現れてしまったせいか、フィニはますます慌てた。「いや、全然、全く、こっちに不都合はないですけど……」


「ならいいだろう。また来る」


 早く綿入れを脱ぎたいエリアスは、そう言い残してさっさとその場を後にした。トーレとボリスも追いかけて来る。そのまま無言で森の中を歩き、やがてドルイドの野営地から離れるとボリスが横に並んで話しかけてきた。


「エリアス、あそこに何かあるんですか。前も守護者がどうのこうのって言っていましたが」


 いつ言ったっけ、と思いつつエリアスは答える。「守護者というのは、ドルイドにとって特別な場所と強い結び付きを持った者で、そこを守る役目がある――」


「こんの野郎、わっかんねぇのかよ!」トーレが割り込んで来てボリスの頭を小突いた。ボリスは不満げに長身のトーレを見上げたが、彼はまるで意に介した様子もなく、今度はエリアスの肩に腕を回す。「そんなにその娘が気に入ったんならよぉ、(さら)っちまうか!?」


「馬鹿を言うな!」


 怒声を上げて睨みつけても、エリアスの怒りなどトーレにとってはどこ吹く風だ。


「ドルイドどもが文句つけに来たって関係ねぇ。だろ? 自分のものにしちまえよ。〝汝欲するなら勝ち取れ〟ってやつだ」


 北方人の信条を表す言葉を引用され、エリアスは怒りと悔しさに拳を握りしめた。それは北方において比喩でも何でもなく現実だ。エリアスが気に入ろうが気に入るまいが関係なく、力無き者は力ある者に従うのが常識なのだ。


「……そんなんじゃない。次の策について考えているんだ。あの場所が利用できるかもしれないんだよ」


 努めて平静を装いつつ、エリアスは思い付きで誤魔化した。トーレはパッと顔を輝かせる。


「おー、マジかぁー! どんな策だよ、聞かせろよ」


「お前に言っても分からないさ」


「わはは、ま、考えるのはお前に任せた。俺は暴れる役だからな!」


 エリアスの皮肉にも気付かず――あるいは気にせず――に、トーレは笑ってエリアスの背中をバンバン叩いた。鎧と綿入れが無ければ赤く痕が残ったかもしれないほどの馬鹿力で。


 その後もぽつぽつと他愛のない会話をしつつ、三人はヨルゲンの従士団が拠点にしているソールヴの農場まで戻って来た。ドルイドの集落から半日とかからない距離にあるので、今は昼過ぎといったところだ。


 ソールヴは若い頃、先王の従士だったが、色々あって三つの農場を手に入れてからは自身の従士団を持つほどになっており、現王ヨルゲンとは同盟関係にある。この農場は彼の本拠地で、王の従士団全員が寝泊まりできる場所と滞在中の飲食全てを提供していた。


 そのような事が可能な人物は少なく、また、スケイルズ勢が上陸すると見られていた〈血吸いヶ浜〉にも近いため、ヨルゲン王の戦士たちをもてなす栄誉を得た、というのは表面的な見方であろう。ソールヴに軍の糧食を負担させてその力を削ぐのが目的ではないか、と思っているのはエリアスだけではあるまい。


 王とはいっても所詮、豪族の中でも抜きんでた権力者というだけで、力以外の何かによって地位が保障されているわけではないのだ。実際、王を自称するだけなら誰にでもできる。大抵は失笑されるか冷笑されるか無視されるかだが、例えばソールヴのような力ある豪族なら彼を王と認めて付いていく者もいるだろう。そうなればアード地方の王は二人になり、いずれは唯一の王となるべく戦うことになるはずだ。


 とはいえ、王が乱立していた群雄割拠の時代も今や遠い昔。ソールヴもヨルゲンを王として認めているし、野心を見せてもいない。初対面のエリアスにも、「王位を継がれた暁にはすぐさま馳せ参じますぞ」などと調子の良いことを言っていた。


 そんなソールヴの農場は、本人いわく、小さな丘の上から始まり、周囲の森を切り開いて大きくしてきたという。ゴルダー河から細く枝分かれした川の一つが丘のふもとを流れており、その川に沿うようにして大きなロングハウスや水車小屋、住居などが並んでいる。農場で最も大きな建物である納屋が三つ、畜舎と囲い、開墾して作られた畑などもあった。


「とりあえず飯だな」というトーレの提案に従って、三人は川沿いのロングハウスへと向かった。その途中でエリアスは足を止める。「僕は〝これ〟を脱いでから行く」鎧を鳴らして示し、二人の返事も待たずに提供された家屋へと進路を変えた。「手伝います?」というボリスの申し出には手を振って〝要らない〟と意思表示する。


 父王の指示かソールヴの気遣いか知らないが、エリアスに貸し与えられたのは川を見下ろす一軒家だった。木の壁に三角屋根のしっかりした家で、内部は一間続き。家具類はそのままになっていて、他人の家のにおいがする。追い出された住人が今はどこにいるのかもエリアスは知らない。中に入るなり不快感を呻き声にして吐き出しつつ、急いで鎧を脱ぎ捨て、忌々しい綿入れから解放された。ずっと濡れたままでふやけた肌を乾いた布で拭き、上等なリネンのチュニックを被る。脱いだものは全てそのままに、寝床の上にごろんと身を投げ出して目を閉じた。


 瞼の裏に浮かんでくるのは森の中の小さな泉と、そこに佇むエルネッドの姿だ。新緑の髪、泉の水底のような瞳。大人でもなく少女でもない、美しさと可愛らしさを絶妙に兼ね備えた森の妖精。彼女の目の動き、表情、語った言葉を思い出すと胸が高鳴る。


(彼女は何か隠している。その秘密を僕に打ち明けてくれないだろうか。もっと一緒にいられたら、そうしてくれるだろうか……)


 その気持ちが恋だと分からないほどエリアスは子供ではない。トーレに勘づかれたのには驚いたが。


 〝(さら)っちまうか――〟


 トーレの声が蘇り、誘惑する。そうしてでも一緒にいたい、自分のものにしたいという想いはエリアスの中にさえあった。ドルイドである彼女は、社会にも力にも守られていない。エリアスがそうすると決意して行動しさえすれば、できてしまう。一声かければ手を貸してくれる戦士はトーレの他にもいるだろう。しかし、それは彼女から自由を奪うということだ。彼女をエリアスに縛り付け、同じ檻の中に閉じ込めるということだ。


 北方の社会という檻の中に。

 アード地方の王ヨルゲンの息子という檻の中に。


 何とも言えぬ焦燥感に胸を焦がしながら、エリアスはベッドから起き上がった。


(何か腹に入れれば、落ち着くかもしれない)


 腰の位置でベルトを締め、剣を吊るして、家を出る。


 低い土手の上を歩いていると、三人の女と二人の子供が川辺にいるのを見かけた。ちょうど昼食に使った鍋や木べら、おたまなどを洗いながらおしゃべりしている。それを手伝っているのか、水遊びしているのか、どちらとも取れそうな二人の子供たちはきゃらきゃらと嬌声を上げていたが、エリアスを見つけるやピタリと動きを止めた。それで女たちもエリアスに気付き、ぎこちなく会釈をして作業に戻る。楽しげな声は消え、川辺は静まり返ってしまった。


 歓迎されていない、というよりも、戸惑っている。それまで存在が公になっていなかった三人目の王子が現れたのだから、無理もない。エリアスは下を向いてさっさと通り過ぎ、ロングハウスに向かった。


 川に沿って建つロングハウスは、土手の上からは正面が見える。三角屋根の頂点は切り妻がX字になっており、板葺きの屋根を支える柱が正面扉の前を除いてぐるりと囲んでいる。板張りの壁に空いた小さな窓と、屋根のほぼ中央に空いた排煙孔からはまだうっすらと煙が出ていた。


 内部は一間続きになっていて柱の他に仕切りなどはない。人間の呼気と体臭、食材と料理の匂い、酒、そして木に染み込んだ古い臭いが混ざり合って充満している。中央の炉は奥まで細長く切られているが、吊るされた料理鍋は一つだけで火はその下にしかない。あまり煙くないのはそのためだろう。壁際の一段高くなった寝床には藁が敷き詰められていて、戦士の一人がぐうたらしていた。立ち並ぶ柱の間には長テーブルと長椅子(ベンチ)が設置されており、数人の戦士たちが集まってわいわいやっている。トーレはその一団に加わっているが、ボリスは少し離れたテーブルに一人でいる。


 〈血吸いヶ浜〉での戦いが勝利に終わっても、ここにはまだ三〇人くらいの戦士が残っていた。全員が残党狩りという名目だが、この時間に酒を飲んでいる連中はどういうつもりなのか。エリアスは水瓶から水をすくって二杯ほどがぶがぶ飲み、籠に残った僅かな木苺やラディッシュを集めて何となくボリスの隣に座った。ボリスはパン皿のシチューにがっつきながらも「エリアスの分です」と同じものを押しやる。


「ありがとう」


 それを受け取ると、ボリスはシチューを飲み込んでから「全部トーレに食われちまいそうだったんで」と付け加えた。二人が黙ったまま温いウサギのシチューを食べていると、突然トーレがテーブルの対面にやって来て静寂を破った。


「なぁ、エリアス。俺、思ったんだけどよ!」


 酒臭い息とともに大声を浴びせられ、エリアスは思わず仰け反る。「なに?」


「ヨルゲン王の命令はさ、〝エリアスの残党狩りを手伝え〟だったよな。エリアスは明日、残党狩りすんのか?」


 エリアスは黙って首を左右に振った。


「ならよぉ、俺はもうお役御免で良いんだよな? だって、残党狩りしねぇんだもんな?」


「うん、まあ、そうだな」


 その答えにトーレはにんまりして振り向き、さっきまで一緒にいた戦士たちに「明日は俺も一緒に行くぜ!」と告げた。戦士たちからは「おおよ」と歓迎の声が返って来る。エリアスの苦手なトーレも、他の戦士たちには人気があった。それからもう一度向き直って今度はボリスに声をかける。「よっ、おめぇはどうする?」


「俺は残党狩りとか関係なくエリアスの護衛なもんで。ご一緒したいのは山々なんですけど」


「そっか」


 聞いておきながらさして興味もない様子で、トーレは元のテーブルに戻って行った。戦士たちの一人がひそひそ声で「玉無しボリスが」とか何とか悪態をついたが、トーレは全く気を使わずにいつもの声量で「だって仲間外れにしたら可哀そうじゃねぇかよ」と酒杯をあおる。


 エリアスは横目にボリスを盗み見た。トーレと話していた時の愛想の良い表情はもうしていない。シチューを見つめる瞳は石ころのようで、いかなる感情も読み取れない。ボリスは本当のところ、どう思っているのか――それはエリアスが子供の頃から抱いている疑問の一つだった。


 彼はエリアスが物心付いた時から護衛としてブルンドの農場にいた。時々は家の仕事を手伝ってくれたが、家から近くもなく遠くもない場所に武装して座っている姿のほうが印象深い。冬には火を焚いて、夏には汗を拭きながら、彼はいつもそこにいた。その距離感は単に居場所だけでなく精神的にもそうだった。家族と呼んでもいいほどの時間を近くで過ごしてきた彼だが親しい間柄とは言えない。かといって他人と呼ぶには近すぎる。


 母はボリスを忌避しているような雰囲気があったから、エリアスも自然とそうなった。だからボリスの生い立ちも、与えられた仕事をどう思っているのかも知らない。他の人たちの態度から察するに自由民ではなさそうだが奴隷でもない。これらの疑問をはっきりさせるべきかどうか度々悩んだが、結局はそのままにして今に至る。


 今回もエリアスは食事を終えると、何も訊かずにすぐ立ち上がった。シチューの器であるパンの内側をほじくっていたボリスが顔を上げる。「エリアス、農場の外に出ないで下さいよ」


「わかってる」


 ロングハウスの外では農場の人々が午後の作業に勤しんでいた。ちょうど冬に向けての干し草作りが忙しい時期で、女も子供も手伝って、刈った草を均等に広げて干したりひっくり返したり、束ねたりと汗水流して働いている。干し草作りはどの農場でも行われる重要な仕事だ。充分な干し草がなければ冬の間に家畜はやせ細って死んでしまう。手伝おうかと足を向けたエリアスだったが、先ほどの女子供らの目が思い出されて、止めた。


 夏の午後の強い日差しを手で遮りながら行く当てもなくブラブラと農場内を歩く。丘の斜面にいる羊たちも、家の周りにいる鶏たちも、木陰や岩陰に避難している。干し草作りには最適な天気だが、散歩するには向いていない。川辺まで下って涼んでいると、向こう岸から子供の声が聞こえてきた。浅瀬を渡って土手を上ると柵を巡らせた囲いがあって、その中で一人の少年が年長の若者に見守られながら羊の毛を刈っている。羊の毛刈りはもう終わっていてもいい時期だから、少年の練習用に残された一頭かもしれない。


 エリアスが眺めていると、体毛の一部をでこぼこに刈り取られた羊が勢いよく立ち上がって土を跳ね飛ばして逃げ出し、少年は怒りの声を上げた。指導していた若者が腹を抱えて笑う。


 無邪気に笑うその若者も戦いとなれば参加する年頃である。もし〈血吸いヶ浜〉の戦いに参加していたなら、彼も獣のごとく歯をむき、目を血走らせ、嬉々として敵の頭に斧を叩き込んだだろう。それが北方人というものだ。エリアスは栗色の髪を左右に振って、汗とともに嫌な気分を振り払った。そうしてしばらくの間、少年と羊が繰り広げる平和な戦いを楽しんでからその場を離れる。


 農場の入口が見えるモミの木の下で涼んでいると、外に出ていた戦士たちがぼちぼち戻ってくる頃合いになった。


 戦士たちの一団はスケイルズ柄のマントや武具、ブローチ、首飾りに腕輪や指輪などを抱えている。落ち延びたスケイルズの戦士を殺して奪ったか、死体から取ったものだろう。全裸のスケイルズ人を引き連れている集団もあった。囚われの男たちは両手を縛られ、足と首に縄をかけられている。最低限の尊厳すら守られず家畜同然の扱いをされている彼らは奴隷となる。


 視界を通り過ぎていくそれら全てが、エリアスの胸をぐさりぐさりと刺していった。エリアスの策によってアード勢は少ない犠牲者で勝利したが、そのぶんスケイルズ勢の被害は甚大になった。そして今も増え続けている。エルネッドのように気付かない所で無関係な犠牲者も出ているかもしれない。


 それが(いくさ)なのだとエリアスは痛感させられた。戦場の空気を肌で感じ、凶暴性を剥き出しにした人間同士の殺し合いを見て、その結果をこうして目の当たりにし――それに自分が関わっているのだと、加担しているのだと、自覚することによって。


 残党狩りの戦士たちとは別に、森の獲物を担いだ戦士たちもいた。ソールヴの従士たちだ。シカを二頭も仕留めている。まだ滞在している王の従士団へ振舞うためのものに違いない。ソールヴは今晩も宴を開くつもりなのか。宴となれば、先の戦いを勝利に導いたエリアスは当然引っ張り出される。そこで聞かされる称賛の言葉は、エリアスにとって全く逆の意味になる。戦士たちが盛り上がれば盛り上がるほど、反対にエリアスの心は暗く沈む。


 エリアスはまた居心地の悪さを感じた。皆と同じように勝利を喜び、称賛の声に満足し、飲み食いして宴を楽しむべきだとわかっている。だが、どうしてもそうできない。笑顔の人々に囲まれて愛想笑いを浮かべながら感じる孤独は、一人ぼっちの悲しみとは違って胃をぎりぎりと締め付ける。


(ここは僕の居場所じゃないんだよ、エルネッド。誰も僕の気持ちを理解しようとしない。あいつらは人殺しのクズだ。そして僕もその仲間……ああ、エルネッド、もし君が一緒だったなら。鎧を脱いだ時のように、自由になってここから抜け出せたなら……)


 白夜はこれからが本番で日はますます長くなっていく。琥珀色の西日が雲の上辺を燃えたたせ、幾筋もの光の帯が天へと広がる美しい情景を、エリアスは悲しげに見つめた。


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