二人の警部
~ 静岡県浜松中央警察署 ~
刑事課では、絞殺された被害者、松本剛についての捜査会議が開かれている。警察本部からも捜査第一課が来て合同捜査に踏み切るかを判断するようだ。被害者の背景から再度洗い直すため議論が続いている。
先日、村松泰成に謝罪した副所長の青柳が進行役だ。
「被害者の松本剛は、五年前に三方原で起きた婦女暴行容疑で送検されましたが、裁判で逆転無罪となり、検察も控訴を取り下げた事から、事件は迷宮入りとなりました」
「事件背景は、どんな内容だったのか聞かせてくれ。本部の人間は殆どが配属替えで全容を知らない」
「…はい。そもそもこの事件は五年前、浜松市北区三方原で発生しました。三方原小学校近くの県道319号線沿いにある本乗寺裏手の路地で、当時三十歳だった神田宏美が何者かに拉致され、近くの雑木林で強姦されたことがきっかけです。地取りから同時刻、新聞販売をしていた松本剛が浮上。被疑者として鑑取りについて調査を行い、裏が取れたので逮捕に至ったという訳です」
「被害者からは体液が見つかり、DNAが松本のモノであることは明らかだったんだな?」
「ええ、動かぬ証拠です」
捜査一課の鈴木は、腑に落ちぬ表情だ。
「DNA鑑定結果は、全てを物語っている。何故、裁判で逆転されたんだ?そこが腑に落ちない。状況証拠と物的証拠の両方揃っているんじゃないか。確かにこれで負けたら、他に捜査しようがない」
青柳は当時の裁判記録をかいつまんで読み上げる。
「絶対の自信で臨んだ裁判でしたが、相手の弁護士の主張は次の通りでした。『DNA鑑定結果は信憑性が高く信頼に値することから、体液は被告人で間違いはない。但し、原告側の妻、宏美は当時、不特定多数と不倫をしており、被告人もその一人であった。物的証拠として鑑定結果のみで結論付けるのは、明らかに証拠が不足している。現に犯行現場となった雑木林では被告人の毛髪や衣服の繊維は発見されたが、強姦されたと後で証言するために、原告の妻宏美が被告人をこの場所に誘い込み、野外性交を試みたものと考える。次に状況証拠であるが、同時刻、新聞配達をした被告人が原告側の妻、宏美と接触するのを目撃されたのは真実だが、拉致されたところを誰も見ていない。他の男と別れる手切れ金が欲しかった宏美が証言を作り上げ、被告人と性交後、自ら服を破り偽証した感を否めない。以上の事から被告人は潔白であり、金策のために利用された被害者である』…ここから空気が変わりました」
「…修羅場になったのか?」
「…はい。当然、原告人である夫の神田雄一は妻の不貞を知りませんでした。原告側の弁護士は身辺調査で既知でしたが、妻の宏美から懇願され情報を伏していたのです」
「その後は想像がつくが。…最後まで聞かせてくれ」
「はい。弁護側は全てを明らかにするつもりで、原告側の不貞を前面に出して、徹底的に戦おうとしました。証拠を山のように用意しており、いざ提示しようとした矢先、妻の宏美が泣き叫び、『偽造罪でも何でも良いからそれ以上は言わないで!』と。夫は怒り心頭で『裁判どころではない!』と投げ出しました。裁判官もホトホト呆れてしまい、『真実を明らかにすることが法廷のあり方ですが、裁判を続けるか否か審議します』と中断し、審議した結果、裁判にならないと判断し被告人を逆転無罪としました」
「まあ、そうなるわな。逆に名誉毀損で被告人側から訴えられるところだ。…君たちは、一体何を捜査したんだと言いたいところだが、済んだことは仕方がない。今後について議論しよう」
会議室は、重たい空気が流れる。
「二月十三日の深夜から二月十四日未明に掛けて、絞殺された訳だが目撃者はいたのかね?」
榎田が捜査状況を報告する。
「犯行現場付近は当時、人や車が殆どいませんでした。遠州鉄道の八幡駅は駅舎はありますが無人駅であります。日換算から利用数を割り出すと、時間あたり五十人程駅を利用しておりますが、さらに換算すると一回の停車では、利用数は十人を切ります。最終列車通過が二十四時くらいですから、人目につかないことを配慮すると終電後になるかと思われます」
鈴木は、苛々する。
「榎田くんと言ったな。誰もそんな説明聞きたくないんだよ。もっと端的に話してくれよ。通過列車に乗っている人間が少ないから何なんだ?人が少ない、車がいない。そんな事は田舎なら当たり前だ。不審車両が駐まっていたのか、変な声を聞いた人間はいなかったか、現場に残されたタイヤ痕から車種は特定出来たのか、防犯カメラ画像を解析したのか、地取りと鑑取りをきちっと行ったのか、結果を理路整然と話したまえ!」
「それが。…あまり、進展していません」
「進展していない?青柳副所長、あなたは何を指揮している?今話しただけでも、やるべき事は沢山あるはずだ。まさかとは思うが、何もしていない訳ではあるまいな?」
青柳も顔面が蒼白となっていく。榎田は何かないかと必死で回想し、ふと村松弁護士を呼んだことを思い出した。
「事件の当日、事件を担当した弁護士を呼び、被害者について聴取をしました。関係性を掴もうと」
(馬鹿、やめろ。それは言っちゃいかん!)
その一言で鈴木の表情が険しく変わる。
「ちょっと待て。何だそれ?…弁護士って当時の弁護士を呼びつけたのか?まだ初動なのに、君が会いにいかず、浜松中央警察署へ?」
「そうですが?」
「馬鹿かお前は!」
鈴木は、凄まじい勢いでテーブルを叩きつける。
「一体、何様で弁護士を呼ぶ!過去に関係はあったことは明白じゃないか。関係性を精査したうえで、事情聴取する必要が生じて呼ぶならまだしも、白紙の状態で聴取でもしてみろ?そこらの無関係な通行人を呼びつけ、聴取する事と同じ事だぞ!それだけで、訴えられる事だってある。越権行為も良いところだ。…一体、何を弁護士に話した?」
「…被害者の写真を見せて、現場不在証明を確認しました」
(…ああ、終わった)
青柳は目を瞑り下を向き、鈴木もポカンと開いた口が塞がらない。
「…青柳副所長、榎田を今すぐ警察学校へ送り返しなさい」
「…そんな人事権、私には。まずは本部にお伺いを立てて…」
「ちなみに、その弁護士は誰だ?静岡県警察本部に近い弁護士か?それとも警察OBか?」
「…む、村松弁護士です」
(村松。…村…松?)
「おい、村松って、あの村松泰成か?」
「…はあ」
「はあじゃない。…よりによって、今が旬の敏腕弁護士じゃないか!失礼なかっただろうな」
「不手際を丁寧に詫び、お送りしました。初めは大層ご立腹でしたが、何とか穏便にして貰いました」
(この浜松中央警察署は、駄目だ)
「…合同捜査の体制を確保しようと思ったが、本部の捜査に切り替える。浜松中央警察署は静岡県警察本部の指揮下の元、今後動くように。指揮した以外の単独行動は厳しく処罰する。それを肝に銘じ、捜査補助を行って欲しい。以上!」
こうして、これ以上捜査会議を行っても無駄と判断した本部の鈴木は躊躇せず、捜査指揮権を静岡県警察本部へ移すことにした。浜松中央警察署の捜査官たちは、静岡県警察本部の意向に誰も逆らえられない。重たい空気のまま、ただ罵倒されただけの虚しい会議となったのである。
(まずは、捜査一課長にありのまま報告し、今後の判断を委ねよう。…それにしても、浜松中央警察署の馬鹿が好き勝手やってくれたな。…あの弁護士、下手にマスコミに告発しなければ良いが。…何せ世間に注目されている奴だからな。…先手を打って懐柔するか、こちら側につく工作をする必要もあるな。事件解決よりも弁護士の方に神経を使うようになってしまった。…まあ、最悪は課長が尻拭いするだろうがな)
~ 同時刻、警視庁捜査第一課 ~
捜査一課では、先日発生した強盗傷害事件をたった一日でスピード解決し、今後の送致手続きを話し合っていた。課長の安藤も佐久間の指揮に大いに満足し、上機嫌である。
「それにしても警部、正に神眼でした」
「止めてくれよ、山さん」
「いいえ、止めません。五キロメートル圏内を二キロメートル圏内に絞り、犯人の行動を予想しドンピシャでした。田所英二、二十三歳は遊ぶ金欲しさから犯行を計画。現場を歩きながら、防犯カメラ位置を把握し、あの場所を選んだ。時間もパチンコ屋が開店する前を選択し、犯行後は店に直行したと自供しました。職業も警部の見立て通り、足立区内の専門学校生です。栃木県から上京し、学生寮に入寮していました。各所の防犯カメラには田所の姿を記録しており、犯行から逃走までのルートも立証出来ます」
「佐久間警部のプロファイリングも尋常じゃない領域まで来たな」
「課長まで、止めてください」
山川も自分のように自慢する。
「課長、驚くのはまだ早いですよ。警部に言われた通り、質屋や中古品売買ショップを一軒ずつ聞き込んだところ、高いゲーム機をクレジットカードで購入し、すぐに近所の店で現金化する田所が浮上しました」
「どういう事だ?金欲しさに自分のモノを売り捌くのは理解出来るが、何故そんな回りくどい事をするんだ?」
(………)
佐久間は腕を組んで思案する中、一つの答えに辿り着いた。
「もしかするとですがね」
「何が分かったんだね?」
「犯人はクレジットカードの現金枠が限度額に達していて、金が借りられなかったんですよ。金が手に入らないが、パチンコはしたい。では、どうするか?…まだ残っているショッピング枠に犯人は目を付けた。リボ払いで高いゲーム機を購入し、転売すれば購入した金額よりは下がるが、現金は手に入る」
「でも、ローンとして残るぞ」
「目先の欲に負けていますからね。パチンコで勝てれば、すぐ穴埋め出来るとタカをくくったんだと思いますよ。そして、ショッピング枠も限度額までいってしまって八方塞がりとなった。でも、パチンコをどうしてもしたくなり犯行に及んだ。…浅はかな学生が考えそうなオチです」
「山川、田所の余罪はありそうか?」
「履歴がないので、初犯のようです」
「親御さんは?」
「もう成人しているから助けないそうです、縁を切ると」
(…まだ学生だ。成人しているからといって、そんな簡単に見切りをつけて良いのか?…田所は若い。やり直しもきくだろう)
「警部?」
「…課長。田所の件ですが、送致まで時間があります。犯罪行為は裁かれるべきですが、少しでも罪が軽くなるようフォローしてあげられる部分があれば、追加捜査したいのですが?」
「まだ若いから、やり直しをさせたいと。…婆さんにも掛け合うのか?」
「お見通しですね。転倒しましたが、骨折しないよう加減しています。その為か、大した怪我はなかった。強盗傷害と窃盗罪では罪の重さも違うし、初犯なので出来れば執行猶予にしてあげられないかと。…甘い考えですがね」
「罪を憎んで、人を憎まずか。好きにしろ」
「ありがとうございます」
~ 三時間後、警視庁内留置場 ~
留置場の奥で、田所は三角座りをし、頭を両膝につけたまま、将来を憂い悲観している。人の気配を感じても、田所は微動だにしない。人生を完全に諦めてしまっているようだ。
「…田所。婆さんが被害届けを取り下げてくれたぞ」
(------!)
瞬時に牢屋の鉄格子を両手で握り締め、事情を請う。
「まさか、刑事さんが?」
佐久間は、鉄格子の間に手を入れると、優しく田所の頭を撫でた。
「…田所。いや、英二くん。君がした事は間違いなく悪い事だ。そこはきちんと反省し、罪を償うんだ。二十三歳で分別もある。世間からすれば、学生といっても君は成人だし、一人前の男なんだよ。君はこれから検察という所に一度、送致される。検察が起訴すべきと判断し、起訴されると今度がここではなく、拘置所と呼ばれる場所で身柄を拘束され、裁判を受ける。お婆さんが被害届けを出したままなら、強盗傷害という罪状が付けられるところ、被害届けを取り下げてくれたおかげで窃盗罪に変わるだろう。初犯だし、これなら執行猶予がつき、刑務所に入らず社会復帰出来る」
「あああああぁぁ」
田所は、人目も気にせず大声で泣いた。そして、何度も佐久間に感謝の言葉を口にする。
「あり…がとうござい…ます。ありがとう…ございます。俺。…俺。もう人生終わったと。…まだやり直せるんですよね?」
「当たり前だ。これからの日本は、君たちが担っていくんだ。執行猶予がついて釈放されたら、一緒に謝ってやるから、きちんと詫びるんだ。お婆さんも、痛い目に遭ったが、君の未来を憂いたんだよ。まだ、やり直せるってな。…お婆さんの気持ち無駄にするなよ」
「…俺、間違ってました。犯罪を犯した人間は、もうこの世にいちゃいけないって。でも、刑事さんやお婆さんの溢れる想いが、こんなにも身に染みるなんて。…俺、絶対やり直して、更生を誓います」
「うん、その意気だ。犯した罪を更生し、努力して打ち消すんだよ。そして今度は君が困った人たちを助けてやるんだ。まだ間に合うさ。釈放されたら、一杯やろう」
田所は、涙でぐちゃぐちゃになった顔をシャツの袖で拭いながら、嬉しそうに頷いてみせる。佐久間も無言で頷き、留置場を後にした。
(…これで大丈夫。きっと、田所は誰よりも人に優しく、誰よりも困った人を助けてくれる)
前途ある若者をまた一人、救った瞬間だ。