裏の裏
~ 六月二十八日、村松弁護士事務所 ~
「では、これで」
捜査官の付き添いであるが、残務整理を終えた伊藤良子は、村松弁護士の脇に立ち、同僚たちに別れの挨拶をする。
村松弁護士を陥れる為に取った行動や病気の事は、捜査関係者以外は知らない。突然の別れに、村松弁護士の妻をはじめ、同僚たちも神妙な面持ちだ。ただ、捜査官がいる事で何か言えない事情がある事だけは、全員が肌で感じている。
「親御さんと引っ越すのは分かるんだけど、唐突すぎやしないか?」
「明るく送り出しましょうよ」
「良子ちゃんと仕事した日々は、忘れないよ」
「…身体には気をつけなさい」
全員が、大人の対応を執り、『流石は弁護士事務所』と佐久間は評価した。
「短い期間でしたけれど、色々な事を学びました。先輩達にしごかれて学生気分が抜け、やっと社会人になれた気がします。…いつかまた、お目にかかれる日を心待ちにしています」
「やっぱり、寂しいよお」
深々と頭を下げる伊藤良子を同僚たちが抱きしめ、周りが涙を拭う。
「…では、そろそろ行こうか。河合達彦が待っている」
「では、みなさん。…また」
佐久間は、村松弁護士にそっと耳打ちした。
「また連絡する。後は任せろ」
「ああ、よろしく頼む。…良子ちゃん、河合達彦によろしくな」
「はい、必ず伝えます。…お世話になりました」
村松弁護士の不起訴と事件背景について、今朝から各局の報道が騒がしい。
静岡県警察本部と検察庁は、合同で声明を発出し、犯人の情報と認否を伏せた。現在、最終的な事実確認を行っているとして強引に区切りをつけた捜査機関に対し、非難が集中したが、『大物弁護士の逮捕』自体に関心を示していた各局は、話題性がなくなった事を受け、早くも自粛する空気だ。
昨夜のうちに善後策を施し、情報流出を最低限に留めた結果であった。
~ 一時間後、浜松市北区三ヶ日町 ~
「おかえり」
河合達彦は、いつもと変わらぬ仕草で、伊藤良子を優しく迎え入れる。
「ただいま、お父さん」
憑きものが取れた伊藤良子は、幼い子供のように河合達彦に抱きつく。河合達彦も、事件が解決したのだと悟り、強く抱きしめた。
「終わったんだな?」
「うん、もう終わり。村松弁護士事務所も辞めてきた」
「そうか、しばらくゆっくりと出来るな」
「うん。…でも、そうでもないの」
(………?)
付き添う佐久間が、言葉を選びながら口火を切った。
「河合さん。伊藤良子の助けがあって、捜査は進展しました。ですが、隠している時間がありません。昨夜までに起こった事の全てをお話しますので、気をしっかりと持って聞いてください」
(………?)
「ええ、分かりました」
佐久間は、昨夜までの顛末と誘拐事件の真相、そして伊藤良子が末期の乳癌を患っている事を話した。顛末と真相を知った点については、納得がいった河合達彦も、伊藤良子の件については、当然顔を曇らせた。
(………)
「お父さん?」
「…なんで、神様はいつもいつも大事なものだけを奪うんだ。なんで、伊藤良子が親より先に逝かねばならん。…あんまりじゃないか!事件終わったんだろ?……理不尽過ぎて。この気持ちをどこにぶつければ良いんだ」
「…お父さん」
言葉を探しきれず、下を向く伊藤良子を見かねた川上真澄が、口を開いた。
「悔やむ時間すら勿体ないわ。河合達彦が、泣いても悔やんでも伊藤良子の病気は治らない。酷な事を言うかもしれないけれど、家族の悲しみは家族でしか分からない。知らぬ間に亡くなるのではない。残り時間が分かっただけでも儲けものだと思って、一秒一秒を大事に過ごすのよ。一番辛いのは、伊藤良子であって河合達彦じゃないわ。河合達彦は、伊藤良子のたった一人の父親なの。どんなに苦しくても、悲しくても、強がってでも伊藤良子を抱きしめるのよ!」
(川上真澄らしい、発破のかけ方だな)
河合達彦は、手拭いで涙を拭うと、伊藤良子を抱きしめる。
「…仰る通りです。父親がこんなんじゃ、安心して旅立てませんな。…良子、もう何も言わん。好きな事を全部やってから、逝きなさい。父さん、泣いちゃうかもしれんが、最後の一秒まで側にいるよ」
「…ありがとう、お父さん。健一兄ちゃんの分も甘えるよ。…寝る時も一緒に布団並べるんだから。放屁しないでよ」
「昔、よく母さんに叱られたよな。人前でするのはマナー違反だって。でも、家族だから良いじゃんかなあ。…加齢臭は仕方がない、我慢してくれ」
父娘の止まっていた時間の針が動き出した。
まだ空元気な様子だが、おそらく大丈夫だろう。
「お二人の邪魔はしたくありません。警視庁はこれで、引き上げます」
(------!)
佐久間と川上真澄は、あっさりと引き上げようとする。その様子に伊藤良子は驚き、思わず二人を引き留めた。
「ちょっと待って、刑事さん。まだ何も事情を聞かれてないですよ」
(………)
(………)
「では、一点だけお伺いします」
「…はい」
「この事件の発端は、伊藤良子と中村光利が、事件関係者の村松弁護士と野中英二に対して接触を図った事で間違いありません。でも、途中から介入してきた真犯人によって、事件が大きくねじ曲げられてしまった。伊藤良子たちは、本当は真相だけを知れば満足で、殺人などする気もなかった。伊藤良子たちを利用した真犯人は、決して危ない道は渡らない。伊藤良子は、中村光利を止めようと努力したが、中村光利は真犯人におそらく何か弱みを握られて、従わざるを得なかった。一連の事件の実行役は、中村光利と国元巡査で間違いありませんが、主に国元巡査が行ったのではないかと推測します。殺人教唆をした真犯人はノウノウと生きていて、その存在を恐れる伊藤良子は、警察組織から逃げる事以外に、真犯人からも距離を取る為に、『存在自体を消す』意味で居住箇所を引き払った。…そうではありまえんか?」
「…あり得ない把握力ですね、信じられません」
川上真澄が、溜息をつく。
「いつもの事よ、自分勝手に仮説を積み上げていくの。何故だか良く当たるのよ、仮説が。九条大河も、痛い目に遭ったから良く分かるんだ。でも、自意識過剰って、きもいよね?」
「自意識過剰ではないぞ。……多分」
「…冗談はさておき、刑事さんの言っている事は正解です」
「また、連絡しますよ。少々時間は掛かりますが、伊藤良子には、この事件の最後まで見届ける責務がある。全てを全うする為に、今は河合達彦と英気を養ってください。でないと、本当の円満解決になりません」
「はい、体力を落とさないように頑張ります。…どうか、気をつけて」
~ 浜名湖大橋 ~
浜名湖大橋をゆっくりと通過する地点で、佐久間は胸の内を明かす。
「真犯人の事なんだが…」
「なんだが、なあに?」
「今すぐ逮捕する事は可能だ」
「私も同感よ、先程の会話でピンと来たわ」
「流石だね。真犯人を逮捕する。…でも、それでは何も解決しない。真犯人には、最大の屈辱を味わって貰おう」
佐久間の考えを察した川上真澄は、再び深い溜息をつく。
「佐久間警部って、敵を作る時はとことん作るわね。程々にしないと駄目よ、分かる?日本人っていうのは、曖昧が好きなのよ」
「…曖昧か。日本人の気質は確かにそうだろうね。でもね、権力を持った大人たちが徒党を組んで悪さをする。お灸を据えなければ、死んでいった者や伊藤良子たちに申し訳が立たないんだよ。力には力、権力には権力、卑怯者には屈辱だ」
(………)
「やれやれ。これじゃあ、まだ豊橋市には帰れませんね。…でも、嫌いじゃないわ。手分けして情報収集しましょう。最高の舞台で、最高の決着を。…でしょ?」
「優秀な探偵で助かるよ。ひょっとすると、ひょっとするかもしれん」
(………?)
「どういう意味?」
「いや、まだ頭の片隅にあるだけだから、具体的には言えないよ。でも、そうなれば良いなと」
(………?)
「…はいはい」
~ 二ヶ月半が過ぎた九月十三日 ~
浜松市商工会議所の第四会議室では、浜松市内の名だたる医師たちが集い、下半期から中途で入れ替える理事候補二名を選出する為に、臨時理事会が開かれている。この医師会は、静岡県西部地区と磐田市・袋井市・掛川市まで跨ぎ、事実上、各病院の力関係や人事権を有する組織力を有しており、どの病院も医師会の理事席を確保すべく、水面下で権力者同士による交渉や駆け引きが行われている。
「皆さん、お早いですな」
「議長こそ、早いお着きで」
定刻十五分前。
開場となるや、古参の理事たちは涼しげな表情で着席する。その後、各病院の院長や大学教授、准教授も加わり、権力者たちが一堂に返す。
選考会メンバーは二十三名。今回の理事候補は、五名の中から二名が選出され、先行メンバーと入替が行われる予定である。一名でも多くの理事を医師会に誕生させれば、補助金の割り振りや医師会として人事構成、最新医療の推進権利などに意見出来る為、選考前から見えない火花が飛び交う。
定刻となり、理事長の鵜飼教授が冒頭挨拶をする。
「前回の選考会メンバーも、同時期に組織編成が成された。今の地位に甘んじる事なく、常に新しい風を取り入れ、刷新する。これこそが、組織改革であり、働き方改革にも寄与すると思う。今回も、忌憚ない意見を聞いたうえで、問題なければ投票を開始したい」
「異議なし」
「異議なし」
「ちょっと、お待ちください」
全員の視線が、待ったを掛ける医師に向けられる。
『空気を読めない男がいるようだ』と誰もが冷ややかな表情で静観した。
(…誰だ、一体)
(理事長に意見するとはね)
(集中砲火を浴びるぞ)
「…おや、浜松弘済会病院の塩飽教授。早速、ご進言ですかな?」
「理事会のバランスですがね?『聖隷』の名がつく教授や准教授が流石に多すぎます。候補を二人に絞らなくても、刷新するなら五名全員入れ替えたらどうでしょう?…勿論、それなら塩飽は志願して、辞意を表明しますがね。…いえね、鵜飼理事長の事を言っているのではありませんがね」
理事たちの中でどよめきが起こる。
(…策士め。駄目だと言ったら、刷新を強調する理事長の立場が危ういじゃないか。……どうする?規約には、一般理事にも投票権と決定権があるし。…ん?……ああ、そういう事か)
「いやあ、医師会の未来を見据えた、ごもっともな意見。…素晴らしい!このような意見を待ってました、ねっ皆さん」
(------!)
(…とんだ茶番だ)
(どういう意味だ)
(意図が分からん、静観だ)
全員が、あっさりと認める理事長を不審がる。
「その意見は、積極的に採用したい!…と言い切りたいところですがね、今回候補の中には、確か浜松弘済会病院の井上准教授がおります。結局、塩飽教授が退いても井上准教授が残れば座席数は変わらない。…おやおや困りました、皆さんはどう思われますかな?」
(……くっ)
塩飽教授は、黙って腕を組んだ。
「当医師会は、『見える化』を推奨していますので、現実に沿った組織構成になっております。仰る通り、『聖隷』の名がつく理事が他院より多いのは事実です。でも、偏りは世の常というもの。強い病院に優秀な人材が集まるのは、至極当然。ご理解頂けたのなら、このまま投票に移りたいのですが、宜しいでしょうか?」
もう誰も発言しようとする者はいないが、鵜飼理事長は、あえて間を取るあざとさを見せた。
(…茶番だ)
(見ろよ、あの面。笑顔だが、目が笑っていないぞ)
(この空気、嫌なんだよ)
「…誰も不服はないようです。皆さんも多忙だ、そろそろ始めましょう」
こうして、半ば強引に投票が始まった。木製の折りたたみ式投票用紙が全員に配られ、医師会の顧問弁護士が立会人として、全員に対し投票前の注意事項を伝えた。
「浜松弘済会病院皮膚科准教授の井上真三候補、浜松医科大学付属積志病院院長の山本貴文候補、浜松赤十字病院救急外科教授兼室長の高野宏候補、浜松聖隷病院内科准教授の鈴木伸明候補、磐田市雪見会病院院長の高田弘文候補。この五名の内、二名をフルネームで記入ください。なお、病院名は省略出来ますが、氏名の誤字脱字は無効となります。また、一名しか記入されない場合も、選挙権を行使した事になりません。投票は、壇上の投票箱に投函してください。誰を記入したか分からないよう、記入する本人氏名は書かないように重ねてお願いします。…では、記入を開始してください」
「皆さん。…公平にいきましょう、公平にね」
~ 十分が経過 ~
「只今をもって投票を締め切ります」
顧問弁護士が、投票箱を開票する。
「それでは、開票結果を順に発表していきま…」
「その投票、待った!」
(------!)
(------!)
(------!)
前方の扉が開くと同時に、見知らぬ者たちが壇上を支配する。
何が起きたのかと医師会メンバーは呆気にとられ、顧問弁護士が制止しようとした瞬間、佐久間が高々と警察手帳を掲げた。
(------!)
(------!)
(------!)
「この選挙、まだ保留としてください。そして、今から誰も動かないようお願いします。『公務執行妨害』を適用したくありません。用件が済めば、済みやかに撤退しますので、どうか捜査に協力をお願いします」
(………)
医師会メンバーからは、想定通り野次が飛ぶ。
「違法捜査だ!」
「顧問弁護士は何をやっている。有事の為にいるんだろう!」
「誰だ、警察を呼んだのは!」
(………)
「静かにしたまえ、鵜飼が呼んだ。…聖隷浜松病院の総括病院長の鵜飼がね」
(------!)
「どういう事ですか?」
「何の事前説明もなく?」
「いくら議長でも、それはあんまりじゃ」
鵜飼理事長は、他人の意見など気にする素振りはなく、ポケットから規約を取り出した。
「当医師会規則の第十九条ですよ。…読み上げましょう。『議長は、医師会メンバーに対し、外部からの要請で身分照会、重要事項、その他必要と認められる権利又は主張、事件等について理事会を緊急的に開く事が妥当と判断出来る時は、議長特権で特に過半数の賛同を得なくとも、発起または開催する事が出来る』…この刑事さんが、当医師会メンバーに対して捜査しているらしい。議長として、いや、理事長として何とか協力したくてね。黙っていたのは、全員の意見を聞いてみたくて黙っていたまで、どうか許されよ。……ささ、刑事さん。続けてください」
「ありがとうございます。では、自己紹介から」
一人ずつ、氏名と役職を紹介していく。
「まず私は、警視庁捜査一課警部の佐久間です。隣にいるのは、同じく警視庁捜査一課の山川刑事と助手の川上。その隣が、警視庁担当科捜研の氏原。最後に、静岡県警察本部の安波警部と鈴木警部。以上のメンバーです、どうぞよろしく」
「自己紹介どうも。それで、本日はどのような捜査を?」
「山さん、持ってきた資料を黒板に掲示してくれ」
「はっ」
山川たちが、捜査資料を黒板に貼りだした。
「昨今、村松弁護士に関する報道が話題になっていますが、皆さんご存じでしょうか?」
会場がざわついた。
「あれだけ、日本中が興味を持った事件は久しぶりだよ」
「不起訴で真犯人が捕まったと言っていたが?」
「いや、確か認否を明らかにしていなかったと言っていたぞ」
「その事件ですが、この中に『真犯人』がいる事が断定出来たため、鵜飼理事長にお願いして参った次第です」
(------!)
(------!)
(------!)
(------!)
全員がしきりに、互いの顔色を伺う。目でそれぞれを牽制し、腹を探る。
「見えない腹の探り合いは控えてください。今から説明しますので、どうかお静かに。それと再度忠告しますが、動かないようお願いします」
佐久間は、医師たちを制止すると、一呼吸間を空けてから説明を開始した。
「村松弁護士逮捕については、実に様々な過去事件が関与していました。直接の引き金は、平成十三年七月に発生した浜松市浜北区幼児誘拐事件です。元原告側の人間が、元被告人と弁護を担当した村松弁護士に恨みを持った事が発端です。そこから、第一殺人・第二殺人・そして第三殺人へと発展していった。その過程で、村松弁護士は犯人の罠に嵌まり、警察組織は、状況証拠から、やむを得ず村松弁護士を緊急逮捕した」
「村松弁護士は『不起訴となった』と報道されていましたよ。それはつまり、警察の『誤認逮捕だった』という事ですか?」
「はい、全くその通りです。ですが、誤認逮捕は実行犯を欺く為です。世の中には、公式に発表して良いものと悪いものがあります。それは、医術の世界でも共通ではないでしょうか?末期患者さんに告知をするかしないか、病床を巡り、緊急患者を受け入れるか否か等と同じです。まずは、その事をご理解ください。村松弁護士が、検察に送致され審議されていると世間では思われている間に、警察組織は新証拠を積み上げ、六月二十七日深夜解決しました」
会場中から拍手が起こる。
「…ありがとうございます。ですが、この事件まだ終わっていません。それは何故か?…今でも、村松弁護士の頭部には、真犯人によって施された電子標識器具が入っているからです。村松弁護士が、浜北区道本で襲撃に遭った際に入れられたのです」
(------!)
「電子標識器具?」
「一体、どうやって?」
医師たちは興味津々で食いつく。
「クロロホルムで気絶させられて入れられた様です」
「クロロホルムだって?麻酔代わりなら、吸引量と全身管理が必要だ。刑事ドラマじゃあるまいし、現場で本当に実行出来るかね?」
(………)
「その通りです。それこが、真犯人が考えた最大の罠だった。……高野宏室長さん」
(------!)
(------!)
(------!)
(高野医師が?)
(………)
医師たちが、一斉に高野から距離を取り離れる中、高野は無表情で微動だにしない。
「面白い冗談だ。…まあ、医師に対する冒涜というか、名誉毀損も辞さないところではある。…とりあえず、事情を聞いてから、『顧問弁護士が解決する』と思いますから、続きをどうぞ」
「ありがとうございます。では、続けます。…一連の連続殺人事件は、全てに村松弁護士が関係していました。殺人事件が起こる度に、村松弁護士の影が彷徨き、警察組織はどうしても村松弁護士が潔白なのか、犯人なのか掴めなかった。村松弁護士が襲撃された時、救急搬送されたのは浜松赤十字病院。そして、電子標識器具の事を説明したのが高野医師でしたね?」
「ええ、その通りです。事件性もあり、医学的根拠から話したまでですが」
「こうも仰いましたね。『村松弁護士は何者かに命を?』と。その時は何気なく聞き流しましたが、襲撃されて運ばれた事は明確なのに、事情をあえて聞かなかった。…これが、まず一点目です」
「二点目は?」
「『クロロホルムにて気絶した』と高野医師は仰いましたが、正式にはクロロホルムではなかった。あれは、『トリクロロエチレン』であり、この事実は、科捜研が再検証した結果です。トリクロロエチレンであれば、麻酔にかかる意思がなくとも、誰でも気を失う。高野医師は、『麻酔としてクロロホルムを用いるためには、かけられる側にも【麻酔される意志】が必要である』と明言する事で、村松弁護士が襲撃した犯人と共犯で、疑惑がある事を仄めかした。その発言の効果は絶大でした。村松弁護士を捜査すればする程、疑惑の目が向けられ、高野医師には好都合となるからです」
高野医師は、落ち着いた様子で微笑する。
「あの状況下だ。クロロホルムと断定することは医学界の中ではよくある事ですよ」
「それはおかしい。高野医師は、冒頭にはっきり断言しましたよ。『分かりやすい表現だとクロロホルム。専門的にはハロホルム反応に該当する。発がん性が高いトリクロロエチレンでなくて良かったですね』と。あれは嘘だったと?」
(………)
「そんな発言しましたか?…記憶にないですな」
「まあ、良しとしましょう。三点目は、電子標識器具が埋め込まれた際に出た血痕です。襲撃された場所を、徹底的に調べて発見しました。初めは、どの場所で埋め込まれたのか分かりませんでしたが、血痕が見つかった事で於呂神社だと判断したんです」
高野医師は、『待ってました』と言わんばかりに反論する。
「おかしいですな。その時間なら、病院救急外来でずっと仕事に従事していたし、佐久間警部自らが、現場不在証明をしている。言っておられる事が支離滅裂ですよ」
「言葉足らずで申し訳ない。血痕は確かに見つかりました。でもその血痕は、襲撃された際に出た出血とは違ったんですよ」
(------!)
周囲の医師たちは、二人の押し問答を静観し、聞く事だけに集中している。医学的根拠に抗う佐久間の言葉が、耳から離れず面白いのだ。固唾を呑んで見守る。
「いやあ、苦労しましたよ。捜査の過程で気が付いたのですがね、その日のうちに警視庁に戻り、科捜研に駆け込みましたよ。DNA解析や遠心分離器による時間的解析は、科捜研では設備がありませんから手続きを飛ばし、千葉県柏市の科警研に持ち込みました。この壇上に立っている氏原が対応したんですが、科警研・科捜研上層部からも大目玉喰らいました。二人とも減給ものです」
(………)
「改めて成分検証した結果を申しましょう。この血痕は、四月十二日に現場に残留したものではなく、昨年十月十七日のものだった。…何を言いたいか、もうお分かりですね?」
高野医師は、完全に黙っている。
早く真相を知りたい医師たちは、強引に割り込んだ質問を投げた。
「理事会にも分かるように話してくれ」
「では、お話しましょう。昨年の十月十七日は、村松弁護士が軽い脳梗塞で救急外来に搬送された日でした。病院の診療記録を開示させて頂き、確かに村松弁護士が治療を受けたという証拠は取れています。その時の治療者は、高野宏さんです」
(------!)
「ふざけるな。そんな違法捜査など無効だ!……じゃあ聞くが、治療中に怪文書が村松弁護士の家に届いたじゃないか!怪文書はどうなんだ?逮捕された中村光利たちが仕組んだろう。血液だって、看護師を買収し、血栓ごと利用したのかもしれない。高野医師が実行したという証拠はどこにもないんだ。それとも、監視カメラで見ていたとでも言うのか?そんな事をしても、違法行為なのだから、裁判になれば覆せるぞ!……もう良い、茶番は終いだ。顧問弁護士、裁判の準備をお願いしますよ!この刑事、知能指数が低すぎて話にならない!」
激情に駆られた高野医師が、その場から離れようとした時、山川が強引に席に戻す。
(------!)
「いっ、痛えな。理事会の皆さん、見てましたよね?この刑事、公然と暴力を振るいましたよ。ちょっと自分たちの推理が外れると、直ぐに暴力に頼る。顧問弁護士も見てましたよね?名誉毀損に、脅迫、そして暴行。報道各所にも大きく吹聴してください、暴力集団の佐久間警部ってね!」
(………)
「このクソ野郎!!」
佐久間の悪口を言われた山川が、胸ぐらを掴もうとする。
「待て山さん、まだ話は終わっていない」
(------!)
その言葉に山川は、慌てて一歩下がった。
「…語るに落ちたな。何故、高野医師が怪文書の事を知っている?それに、何故実行犯の中村光利の語尾に『たち』を付けた?報道各局にも公表していない事実をそこまで鮮明に話せるんだ?」
(------!)
「言い逃れはもう出来まい。詳細は、別途取調室で聞いてやる」
項垂れる高野医師に、山川が手錠をかけ、そのまま退室しようとする。
「待つんだ、山さん。事件はまだ解決していない。そのまま待機だ」
(………?)
(………?)
(………?)
医師たちも不審がる。犯人の高野医師に手錠が掛けられた以上、警察が選挙会場に用はないのは明らかだ。にも関わらず、佐久間がまだこの選挙会場に拘っているからだ。
「佐久間警部、その辺で宜しいのでは?そろそろ選挙をやり直せねばなりませんから、どうかお引き取りを」
佐久間は、ほくそ笑みながら強く拒絶した。
「理事会の皆さん。何故、高野宏は浜松赤十字病院に移ってきたか、ご存じでしょうか?」
(………?)
(あの男、何が言いたい?)
(さあ?)
「ちょっと待ちたまえ、それは関係ないんじゃないか?いくら何でも、不必要な介入は違法だぞ」
「どなたですか?」
「聖隷浜松病院の外科部長兼教授、桜庭だ」
(こいつが桜庭か)
川上真澄と目が合い、川上真澄も黙ったまま頷く。
「駄目です。この一連の殺人事件、高野宏は事件関係者となりました。何故、高野宏が犯行を企てたのか?それこそが真相の解明となります。…話を続けても?」
鵜飼が、桜庭を窘める。
(我慢して聞け。刑事のお陰で、候補者一名潰れたんだ。聖隷系列の人間が候補に残る好機、ここは泳がせろ)
(どうなっても、知りませんよ)
(どういう意味かね?)
(…いえ。何でもありません)
「では、話を続けます。事の発端は、平成十九年五月に発生した浜松市北区婦女暴行事件です。聖隷三方原病院で、桜庭光恵・当時三十八歳が元同僚の渥美直樹・当時三十二歳と口論となり、桜庭光恵の太ももに鉗子が刺さり、被害届けを出した事から裁判沙汰となった。つまり桜庭さん、桜庭教授の奥さんです」
(………)
「そうですよ。一審は原告側が勝訴し、渥美直樹には執行付きだが刑期が課せられた。でも、村松弁護士に担当が変わって風向きが変わった。二審では、逆転敗訴した」
「…桜庭教授は当時、この理事会選挙の最中でしたね。さぞ、大変だったでしょうな」
「当たり前だ。でも、鵜飼理事長に救って頂き、今こうして座っている。佐久間警部、何が言いたいんだ?」
「いえね、妙な噂を聞きましてね。何でも、桜庭教授は渥美直樹の元上司、高野宏が大嫌いだった。策を弄すことで、高野宏を他院へ飛ばす為、奥さんの桜庭光恵さんに指示し、この事件をでっち上げたと」
(------!)
(------!)
「…聞き捨てならんな、本当に名誉毀損で訴えるぞ」
「お好きにどうぞ、話を続けます。桜庭光恵さんは、渥美直樹さんと裁判後三ヶ日プラザホテルで密会していましたね。その際、金を二百万円支払っている。金銭提供についてはどう釈明されますか?」
(------!)
(------!)
鵜飼が慌てるのも無理はない。
佐久間が、平然と密会事実と金銭のやりとりを暴露したからだ。警察組織が公然と言及するには、それなりの証拠を集めたという事である。鵜飼理事長にとって、他院の高野医師が逮捕されるのは喜ばしい限りだが、懐刀の桜庭教授を失う事は、権力抗争の点からも死に等しい。
(おい、それは本当かね?)
(…虚勢ですよ、揺さぶりを掛ける為の)
「全く記憶にないですね、根も葉もない事を言わないで頂きたい」
「根も葉もない?そんなことはありません。何せ、渥美直樹さん本人から自供を得ました。それと、三ヶ日プラザホテルから当時の宿泊記録も確認し、証拠を取っています。もう一度だけ伺います、本当に身に覚えありませんね?政治家みたく『記憶にございません』は通用しませんよ」
(………)
(…どうすれば良い?)
桜庭教授は、貝になるしかなかった。返答次第では、偽証罪を問われる恐れがあるからだ。顧問弁護士も、目で『何も語るな、黙秘しろ』と合図している。
「…困りましたね。では、次の質問です。桜庭教授は、昨年の九月頃から村松弁護士にある相談をされていたはずです。それは何を相談されましたか?」
「記憶や夢に同じ人間が出て来て困っている。記憶障害なのか心配だから診て欲しいと」
(ほう?)
「都合が良い部分は、即答ですか。でも、ありがとうござます。村松弁護士は桜庭教授に相談をした。桜庭教授は何と答えました」
「医学的な解明が困難な事象だ。精神疾患でもないし、神経性疲労から来る自律神経失調症かもしれないと答えましたよ」
「まだ続きがあるはずです、お答えください」
(………?)
「続きなどない」
佐久間は、両手で困った素振りをして見せる。
「桜庭教授は、相談を受けた時に浜松赤十字病院の高野医師を紹介した。村松弁護士は、この時から浜松赤十字病院にも通院し始めています。不可解な話なのですが、村松弁護士が軽い脳梗塞で救急搬送された時、直前まで、とある場所である人物と飲食をしていました。ある人物とは、桜庭教授、あなたです。にも関わらず、救急搬送された付き添いには、桜庭教授の姿はない。……おかしいですね。普通なら、利害関係者の危機であり、桜庭教授は医師だ。その場で救命措置するか付き添ったはずです。…まだ他にも不可解な点があります。桜庭教授は、高野宏を陥れるために、妻の光恵さんと結託して高野医師の部下を利用し、浜松赤十字病院へ追い出した。にも関わらず、嫌いな相手に村松弁護士を紹介し、浜松赤十字病院に救急搬送される管轄で、わざわざ酒を飲み、村松弁護士が軽い脳梗塞で搬送。…不可解な筋書きが出来ていますね。高野宏と裏で繋がってるとしか思えません。…もしやと思いますが、何か弱みでも握られましたか?」
(------!)
「いい加減にしろ!もう終わりだ、俺は帰らせて貰う。不愉快だ!」
頓挫させようとする桜庭教授に、佐久間が怒号を発する。
「いい加減にするのは、桜庭教授だ。誰が、動いて良いと言った?即刻逮捕しても良いんだぞ?無駄口は後から幾らでも聞いてやるから、黙って聞け。これは厳命だ」
(------!)
(------!)
空気が一気に緊張する。
佐久間の猛烈な気迫に、桜庭は心底ひるみ萎縮する。
「全員、良く聞け。これは茶番ではない、殺人事件だ。この事件には、選挙会場にいる医師会関係者が何名も絡んでいる。捜査の邪魔をする者は、公務執行妨害で逮捕する。逮捕されたくなければ、黙って聞け。そこの顧問弁護士もだ、訴えられるなら訴えろ。録音するならするが良い。だがその前に、弁護士資格がなくなると思え。もう一度だけ最終警告する。これは殺人事件の捜査であり、真相を解明する段階だ。くだらん邪魔をするな!」
もう誰も身動きが取れなかった。
「では、続けましょう。先程の件に戻しますが、飲食していた店の従業員から聴取が取れてます。村松弁護士の様子がおかしくなった途端、桜庭教授が会計を済まし、逃げ去ったとね。他にもまだ続きがあります。この医師会の理事になるには、険しい難問がある。その難問とは、数年の間に一度しか空席が出来ないという事です。それも、同じ病院から選出されるのは規則で一名だけ。高野医師・桜庭教授の事を徹底的に調べ上げました。二人は、遠い親族で実際のところ仲が非常に良い。この事から、ある仮説が生じます。『理事に昇るため、最初からこの絵図を描いたのではないのだろうか?』と。桜庭教授は、誰もが認める鵜飼理事長の子飼いで出世族。片や高野医師は、能力は周囲から高く評価されているが、鵜飼理事長からは不評で先が見えている。そこで両名は、村松弁護士を利用して、遙かなる野望の為、長期間に渡る壮大な出世計画を立てた」
(------!)
(------!)
「丁度その頃、中村光利たちが村松弁護士や野中英二に仇を討つ為、同じ被害を受けた桜庭光恵と接触。この好機を利用しない手はないと感じたあなた達は、率先して話に乗る素振りをした。そして、いつの間にか犯行を主導的立場で指示するようになっていった。…違いませんか?」
「…証拠がない」
「証拠ならありますよ。…安波警部、お願いします」
「はっ、……入れ」
(------!)
(------!)
扉が開くと、桜庭教授と高野医師の表情が一変し、額から大量の汗が流れ始める。
「実行犯の中村光利です、拘置所から連れてきました。中村光利がね、とても優秀で、あなた達との会話を録音してましたよ。…再生を」
録音器具から、音声がゆっくりと流れ出る。
「良いか。もし中村光利たちが逮捕されても、桜庭や高野の事は知らぬ存ぜぬだ。逆の場合も同じで、中村光利たちの事は一切話さない。手を組むのも、利害が一致しただけだ。だから、その為に人を殺す計画には手を貸さない。…まあ、間違って事故になる場合には手を貸さんでもないが。それからな、中村光利が持ってきた計画なのだが。…あれは駄目だ、実現性が足らん。加筆修正してやったから、後は自力で何とかしろ。断っておくが完璧だぞ?IQマックスの医師二名が練りに練った完全犯罪なんだからな。警察は絶対に暴けんし、足は付かない。安心して、計画を実行しろ」
「…もう分かった。勘弁してくれ」
「聞こえませんね?ゆっくりと、もう一度大きな声で聞かせて貰えませんか?」
「桜庭教授と高野医師で力を貸した。この音声テープも、佐久間警部の推理も正しいよ。だからもう止めてくれ」
鵜飼理事長が、脱力する。
「…そっ、そんな。じゃあ、桜庭教授も逮捕されるのか?ちょっと待ってくれ、佐久間警部。…いや、佐久間警部さん。話が違う!」
(………?)
「何か約束しましたか?」
「佐久間警部、『悪いようにはしない』と約束したじゃないか?」
「悪いようにしていませんが?膿を出し切った医師会は正常化する。それのどこが不都合ですか?医師会の大事な組織を犯罪者の手から救った。豪腕理事長としての評価はうなぎ登りでは?」
(…全部、組織分解が最初から佐久間警部の目的だったのか)
桜庭教授の手に、安波が手錠をかけた。
「最後に、二人に問う。電子標識器具は本当に取らなくても命に別状はないな?」
「…ありません」
「中村光利が、この事件を猟奇的に行うには、深い理由があった。それは、お前たちが伊藤良子の乳癌治療を行っていたからだ。延命する為には高い治療薬、それも先進医療の更に先を行く認可されていない外国の薬が必要だった。伊藤良子の命を守る為、中村光利はあえて、お前たちの犬となり、手先となった。間違いないか?」
「……はい。伊藤良子の命を盾に取り、画策しました」
「一番大事な質問だ。嘘をつくと刑が倍に科されると思え。…本当に伊藤良子は末期の乳癌なのか?姑息なお前たちの事だ。偽物の医療診断書、CT画像を使用して欺したんじゃないのか?」
中村光利は、驚きを隠せない。
「おい、本当かそれは?なあ、答えろおっさん達よ!!それじゃあ、中村光利は何の為に、したくもない殺人なんかしたんだよ!全部、嘘なのか!伊藤良子と夢見た夫婦生活はどうなる?」
「どうなんだ?」
「……偽情報だ。末期患者の画像を利用した。伊藤良子は乳癌なんかじゃない。健康そのものだよ。……逆に聞きたい?何故、医者でもない警察組織が分かった?」
「末期と聞いた時、違和感を覚えた。リンパ節転移なら、乳房も何もかも切除するものだ。でも伊藤良子は、放射線治療と抗癌剤治療は受けたが、切除していなかった。だから、万が一の望みを賭けて、その事を洗ったんだよ。…山さん、安波さん。これで用は済んだ、二人を連行してくれ。氏原、そろそろ入れてやれ。我慢出来んだろう?」
(………?)
(------!)
(------!)
(------!)
伊藤良子と村松弁護士が、最後の最後で会場入りする。伊藤良子は、大泣きしながら中村光利に抱きつき、村松弁護士は桜庭教授たちに一発ずつ、鉄拳制裁を加えた。顧問弁護士とも目が合ったが、顧問弁護士は黙って目を瞑った。
「…刑事さん。いえ、佐久間警部!」
「約束しましたからね、完全決着で終わらせると。これで良いですか?」
「…感無量とはこの事を指すんですね。本当に何も考えられません、ありがとうございます」
佐久間は優しく、伊藤良子の頭を撫でると、中村光利にも声を掛けた。
「中村光利。模範生として一日でも早く出所しろ。早くしないと、伊藤良子は子供を産めなくなるぞ」
「えっ、それって?」
「中村光利はまだ二十三歳。単身で三名を殺した訳じゃない。国元巡査や桜庭教授たちから殺人教唆され、伊藤良子を守る為に仕方無く罪を犯したんだ。この事が考慮され、うまくいけば十年未満で出所出来るだろう。人を殺めた事は悪であり、言い逃れ出来ない。だが、情状酌量の余地も十分に残されている。早く出所して、今度こそ本当に幸せな家庭と唯一無二の家族を作れ」
「…はい。……はい。俺、人として取り返しつかない事したけど、生まれ変わったと思って頑張るよ。だから、…良子。しばらく不便を掛けるけど…」
「…うん。お金貯めて待ってる」
「その通りだ。村松弁護士事務所はこれからも人気事務所で人手が足らん。優秀な弁護士を育てないと回らんよ。…良子ちゃん、この通りだ。もう一度弁護士を村松弁護士事務所で目指してみないか?」
(------!)
(------!)
「………はい!」
「これで本当に事件が解決だ。……全捜査官に告ぐ、撤収せよ」
こうして、全ての事件を解決した警察組織が引き上げて行く。
狼狽える医師会メンバーを残して。




