最後の十点
~ 二十二時二十分 ~
遠州鉄道線小松駅から乗車した野中英二は、これから自分の身に降りかかるであろう災いに対して、複雑な心境で西鹿島駅に向かっている。
伊藤良子からの手紙からは、心の叫びが聞こえ涙した。許されるのならば、すぐにでも会って謝罪したい。
裁判では無実となったが、長年悔やみながら生きてきた。会う機会があれば、釈明したうえで殺されても当然だと考えていた野中英二は、手紙を見るや、全てを打ち明けようと決めていた。
だが、この手紙は罠であり、『拉致するか殺すために、実行犯だけが来るだろう』と佐久間に注意を促されたのである。
伊藤良子の手で殺されるならまだしも、『赤の他人に理不尽に殺されても良いのか?』という気持ちと、『この形を伊藤良子が望むのであれば』という気持ちが交差し、落ち着かないのだ。
(保護具は身にまとったし、発信機も万全だ。警察に身を委ねてくれと言われたが、正直おっかない)
心の整理がつかないまま、西鹿島駅のホームに到着してしまった。
(二十二時二十六分。約束の時間まであと、…十九分。犯人はどちらから来るんだ?すでに見張られているかもしれない)
開札を出てから、全ての人間と目が合った気がするし、犯人にも見える。
普段では決して感じる事のない緊張感で押し潰されそうだ。駅前の県道45号線笠井街道に目を向けると、鋭い眼差しを送る男、場違いな釣り人の格好をしている男、カップルに扮して様子を伺う捜査官などが、あちらこちらに待機しているのが分かった。佐久間の指示での待機だろうが、その存在が分かると、無意識に安堵のため息をついた。
(ここからどう行くんだっけ?……あっちか?)
野中英二は、極度の緊張から待ち合わせ場所までの経路を完全に忘れてしまった。街路灯で照らされた笠井街道沿いを南下せず、あろう事か、地域住民も夜には滅多に利用しない、真っ暗な線路沿いを歩き始めたのだ。
(------!)
(------!)
(------!)
「業務連絡、業務連絡。野中英二が経路を変更し、目的地に向かいます。県道沿いでなく、線路沿いに進みました!」
(何だって?どこかで犯人と接触でもしたと言うのか?)
無線を傍受する捜査員たちに緊張が走る。突然の想定外が生じたからだ。
「落ちつけ、正しい状況報告を頼む。もう犯人と接触しているのか?」
「単身で歩いているので分かりませんが、何か様子が変です。どこか一点を見据え、ボーッとして歩いてます」
(…極度の緊張から放心状態になったんだ。…まずいな)
「そこから一番近い人間は?」
「草薙です」
「草薙、聞こえるか?安波だ」
「草薙、聞こえています」
「そこから、野中英二を確認出来るか?」
「木材店と和菓子屋に邪魔されてまして、目視出来ません。追いますか?」
(…やむを得まい)
「豆腐店と生花店にいる二名も、持ち場を離れて追ってくれ。絶対に一緒には歩かず、二十メートル離隔で頼む。その位置からだと、追いつくまで少々時間を要する。野中英二が目的地に着くまでに、何とか背後に回るんだ。空白の数分間に、拉致でもされたら終わりだぞ」
「草薙、了解」
「加藤、了解」
「渡辺、了解」
各捜査員たちが計画の軌道修正をするため、危険を冒して持ち場を離れ追跡する中、野中英二は、放心状態のまま薄暗い線路沿いを真っ直ぐ進む。
伊藤良子からの手紙を握る右手が少しずつ湿っぽくなっていく。三百メートル程トボトボ進むと、視界が少しだけ明るくなった。
(あそこは?…ああ、車両基地か。そういえば、昔よく撮り鉄したっけ。ということは、丁度中間地点だから、あと半分か)
遠州鉄道線と天竜浜名湖線の中間地帯は、全幅100メートル程もあり、設けられた車両基地には整備中の赤電が停車している。何故だろうか、ふと昔の記憶が鮮明に蘇り、例えようがない感情が湧いた。
(ひょっとして、これが走馬燈ってやつか?…死を身近に感じて、思い出が蘇るっていう。この世に未練はない、多分。…いや、違うな。ただ、懐かしく感じただけか?)
残りの半分、目的地まで何を考えて歩こうか。伊藤良子のこと?罪滅ぼし?時間にしてあと数分であろう。このまま、何も考えずに歩くのも悪くない。立ち止まった足を再び、目的に向かうため動かした時。
「……動くな」
(------!)
目的地まで、あと五十メートル。
恐る恐るゆっくりと、声のする方向に目を向ける。
思いもしなかった角度から、拳銃が野中英二の頭を狙っている。
(------!)
(車両基地に潜んでいたのか?…いや、違う。柵を乗り越える音はしなかった)
「両手を挙げろ。…お前が、野中英二だな?」
(………)
「いっ、伊藤良子はどうした?伊藤良子に会わせてくれ」
野中英二は、打たれる恐怖に震えながらも、下唇を噛み締めながら伊藤良子の姿を探す。だが、黒いニット帽を被った男が、ニンマリと薄ら笑いをしながら銃を構えているだけである。佐久間の警告が蘇る。
(言われたとおりだった。伊藤良子は来ないのだ)
「…会わせるはずがないだろう?野中英二のせいで、伊藤良子の人生は滅茶苦茶だ。…いつでも野中英二を殺すことは出来た?でも、あえて今日にした。この意味が分かるか?」
「…むっ、村松弁護士が起訴される日だからだろう?」
(……ほう?)
男の表情が、一瞬変わる。
「もっと鈍感で無知な男だと思ったが。…新聞でも読んだか?それとも、自分を助けた弁護士に興味があったか?」
男が、トリガーに指をかける。
「伊藤良子に会って、どうしても謝罪したいんだ。それまでは、待ってくれないか?謝罪が済んだら、殺されても文句は言わない」
(………)
「良い心意気だ。……気に入った。野中英二を線路脇で、始末するのは止めてやる。ゆっくり、こっちへ来い」
(………)
「このまま、死ぬか?」
「分かったよ。今、そちらに行…」
「そこまでだ、中村光利!」
(------!)
野中英二の返事がかき消され、安波の怒声が周辺に響き渡った。
安波たちが拳銃を構え、ゆっくりと二人に近づく。
(駐車場から?……ほう?)
「野中英二が、まさか刑事を呼んでいるとはね?伊藤良子が知ったら、何て言うかね?」
「中村光利、完全包囲で逃げられんぞ。野中英二を解放して、拳銃を捨てろ」
(……へえ?)
「名前まで知られているとはね。中々、優秀じゃないか。……良いぜ、撃ってみな?…でもその前に、野中英二だけは殺すがな」
不適な笑みを浮かべる中村光利を前に、緊張が走る。
「馬鹿な真似は止めろ!何故、伊藤良子がいない?」
(………)
「知るかよ、伊藤良子は関係ない。俺が野中英二を殺したいだけだ」
「もう一度だけ警告する、拳銃を捨てろ。命を粗末にするな、投降するんだ」
(………)
「さてと、困ったね。…どうしよっかな」
安波たちに包囲されてもなお、中村光利の表情は曇らない。
(この落ち着きよう、やはり変だ。…背後には車両基地……まさか!)
「爆弾でも仕掛けたか?」
中村光利は、ニンマリと笑う。
「撃った瞬間、後ろの倉庫から大きな花火が上がるだろうぜ?警察ってのは、やっぱり馬鹿だろ?普通に考えたって、線路脇じゃ、捕まらないだろう?」
(安波さん、どうします?)
(待て。様子見しながら、揺さぶってみる。…待つんだ)
「虚勢だ。頭をぶち抜かれた瞬間、倉庫が爆発するなど聞いた事もない。…野中英二。すまんが、中村光利を逃がすわけにはいかん。最悪、野中英二を見捨ててでも、このテロリストを殺す!お前たちは巻沿いになってはならん、少し下がれ!」
(------!)
(------!)
捜査官たちは、五メートル後方に下がった。
(………)
「おいおいおい。…正気か?…一般人を平気で見殺すって?俺はテロリストじゃないぜ?」
「こっちだってそうだ、守ってくれるんじゃなかったのか?」
「爆発すれば、一般市民が多く被害を被るかもしれん。一つの命と多数の命。どちらも大事な命だが、発生源はこの場所で潰す」
安波は、中村光利を真っ直ぐ睨み付け、ゆっくりと安全装置を解除する。
(------!)
(------!)
「本気か?…本気で俺を殺すのか!」
安波は微動だにしない。
(この目、本気だ!)
自分だけを狙う銃口に、警察を甘く見ていた中村光利は突如恐怖感を覚え、安波と野中英二、二人どちらを撃てば良いか、瞬間的パニックから狙いが定まらない。
「最後の警告だ。五秒だけ待ってやる、拳銃を捨てろ。安波は死ぬかもしれないが、間違いなく中村光利もあの世行き。せめてもの情けだ、一緒に死んでやる」
(…このおっさん。本気で、俺を殺す気だ)
無情なカウントダウンが始まる。野中英二には抗う術はなく、眉間にしわを寄せて目を瞑る。
「………五」
「おい、ふざけろよ。おっさん」
「………四」
「やめろよ。カウントダウンなんかするんじゃねえ!」
「……三…」
(------!)
「…二……」
「…カチャ」
「そこまでだ、安波警部。…銃を下ろして」
(------!)
(------!)
(------!)
一瞬で、その場にいた全員の動きが音と共に、凍り付く。
「何の真似だ?………国元」
国元の銃口が、安波の後頭部に押し当てられ、そのまま、羽交い締めされる。拳銃もゆっくりと取り上げられ、国元の胸元に収まった。
「正気か、国元!」
「国元巡査!」
(………)
「…裏切り者は、お前だったか?国元」
中村光利は、やっと落ち着きを取り戻し、国元に罵声を浴びせる。
「もっと早く動けよ。危うく、このおっさんに殺されるところだったじゃないかよ!」
(………)
「勘違いするな。本当だったら、まだ正体をバラさないはずだったんだ。全部、中村光利が撒いた種だ。舐めた発言をするなら殺すぞ?」
国元は、冷静かつドスの利いた口調で中村光利を恫喝する。ギラギラする眼光は、中村光利を瞬時に畏怖させた。
「……ちっ、分かったよ。でも、バレたのは仕方ないだろう。遅かれ早かれ逃亡するんだから」
捜査員たちは、動けない。
安波が、同僚の国元に羽交い締めされ、今にも撃たれそうだからだ。
「安波さん。あんた、さっき面白い発言したね。『裏切り者は、お前だったか?』ってどういう事?…お前等も聞きたいよな。…そのまま、動くなよ。動くと、容赦無く安波警部の頭は豆腐みたいに飛び散るぜ。拳銃を握ろうとした瞬間おさらばする事になる。同僚のよしみだ、お前たちまで殺したくはない」
「安波警部」
「国元巡査、やめましょうよ」
「お前たち、言われた通りにしてくれ。…完全に形勢が逆転してしまった」
「さあ、話せ。何故、国元が裏切り者だと分かった?完全に欺せていたはずだが?…話難いだろう?羽交い締めだけ解いてやるよ」
国元は、羽交い締めを解きながら安波から三歩程後方に下がり、中村光利と並んで銃口を安波に向ける。
「さあ、これで話せるはずだ。妙な動きをした瞬間、国元が安波を、中村光利が野中英二を撃ち殺す。…言え!」
安波は、右手で喉元を摩りながら立ち上った。
「その問いに答えよう。第一に、偽村松弁護士がひき逃げをした時、一早く、船明ダムにいた安波に生中継の携帯連絡をしてきた。第二に、平成十九年五月に発生した浜松市北区婦女暴行事件を捜査させていたが、原告人の桜庭に『事件性関与なし』と一早く断定し、打ち切った。医療関係者である事を隠してだ。事件背景から国元巡査を怪しいと感じた佐久間警部がこっそり内偵させていたんだよ」
(………)
「本当に切れ者だねえ、警視庁は。逆を言えば、静岡県警察本部がだらしなかった」
「犯行に使用された車両は、貴布祢で発見した。静岡県警察本部の手の内にある」
(………ほう?)
「それも、佐久間警部が導き出したのか?」
「そうだ。内偵を進める内、国元巡査が事件関係者となった。そこからは単純だった。最短手法で、自宅駐車場を割り出した」
(………)
「おい、国元さんよ。誰だい?その佐久間って?」
「…警視庁捜査一課の敏腕警部だ。一連の事件は、全てこの警部によって暴かれている」
(------!)
「全て?じゃあ、何か?今日の出来事も、その佐久間って奴が読んだのか?」
「野中英二まで辿り着いたんだ。広告看板の謎も、読み解かれたという事だ」
(そんな有能な刑事がいるなんて聞いてないぞ)
「国元さんよ、どうする?」
(……まだ勝機はこちらにある)
「正体がバレたのは誤算だったが、この後の行動は予定通りでいくぞ」
「オッケー」
意思確認を終えた二人は、次の行動に移ろうとしている。
「安波警部を殺されたくなかったら、全員両手を挙げたまま、そこの防除柵に並べ。下手な動きをした瞬間に撃つぞ!」
「安波警部?」
安波は、動けずに従うしかなかった。
「言われた通りにしろ」
捜査員たちが、防除柵に並ぶ。中村光利と国元大介は、銃口を向けたまま、野中英二の腕を掴み、ゆっくりと後退すると、中村光利が、隠してある車両にエンジンを掛け合図を送る。
「死にはしないが、我慢してくれよ。…期待に添える演出はしてかなくちゃな」
国元は、右ポケットからスイッチを取りだし、煙幕を投げつつ、ボタンを押した。
(------!)
(------!)
(------!)
「ドッカ------ン!」
車両基地の屋根が、轟音と共に宙を舞う。安波たちは、衝撃で吹き飛ばされた。何とか立ち上がろうとするが、煙幕のせいで周りが一切見えない。
(やられた!)
手元の携帯から連絡を入れようにも、文字が見えない。足を引きずりながら、何とか煙幕外へ出た時には、三名の姿が完全になくなっていた。
気を失う直前、何とかリダイヤルで電話を掛ける。
「もしもし?」
「…ホ、犯人は、中村光利と国元大介の二名。現場から逃走、逃げた方向は…」
「もしもし?…逃げた方向は?…もしもし!」
完全に裏を掛かれ、捜査チームAが完敗した瞬間であった。
~ 二十三時十五分 ~
犯人を捕り逃がした連絡が、捜査員経由で佐久間へ伝えられる。
佐久間は、鑑識課の山下香織が立ち上げている衛星監視システムから、逃走経路を予測し、次の一手を打った。
「佐久間から各捜査チームへ。現在、犯人は西鹿島駅から天竜区方面へ移動中。逃走者は、中村光利と国元巡査の二名で、野中英二を人質にしている。辛いだろうが、国元巡査をもう同僚とは思わず、犯人の一味として現認してくれ。時間がないので手短に話す。捜査チームBは、都田、三ヶ日方面へ逃走しないよう国道362号、県道68号線、県道296号線を速やかに閉鎖。赤佐小・中瀬小・内野小に待機しているパトカー・覆面車両を総動員せよ。それ以外の浜北区に配置した車両は待機とする。捜査チームAは壊滅したから、予定を少し変更し、天竜区チームを北上させる策に切り替える。捜査チームDは、そのまま配置を解かないでくれ。県道40号線の双竜橋交差点で封鎖しておけば、船明ダム方面にしか進めなくなるだろう。天竜警察署の応援部隊を増援し、事に当たれ。捜査チームCは、本日未明に予行演習した通りとなりそうだ。山さんの指示に従い、指示系統を遵守せよ」
「捜査チームB了解」
「捜査チームC了解」
「捜査チームD了解」
~ 同時刻、中村光利たちの車内 ~
「何とか逃げられたが、どちらに向かえば?捜査情報、何か握ってないのかよ?」
(………)
「今思えば、意図的に捜査から外されてたからな。愛知県から戻って来たのも夕方だったし」
「愛知県?そんな所に行って、何をしてた?」
「浜松市天竜区衣類強奪事件、原告人の黒澤君枝を洗わされてた」
中村光利は、苦笑いする。
「おいおい、それって加藤昭博の原告人だろう?今更調べて何になる?加藤昭博は、中村光利がひき殺したんだぞ?」
(………)
「前から戒めようと思ってたんだが、もう少し年上を敬ったらどうだ?二十三、四歳の小僧に同期口叩かれるほど、落ちぶれちゃないんだが」
(………)
「まあ、今は良い。無駄な捜査だという事は百も承知だ。国元巡査を疑った安波警部が、捜査情報を漏らさない為に、仕組んだ罠だったんだ。お陰で、今回もギリギリで…」
(------!)
「ちょっと待て。…ギリギリ?……おい、中村。国道を南下するな、罠だ!」
(------!)
鹿島坂下交差点で、左折しようとした中村光利は、慌てて急ブレーキを掛け、右折する。衝撃で後部座席に座る野中英二は右側のドアに身体をぶつけた。後続車からは、パッシングとクラクションが浴びせられる。
「罠ってどういう事だよ。東名高速道路経由で関西国際空港に向かうんじゃなかったのか?」
(今までと同じ捜査なら、野中英二に辿り着けなかったはずだ。でも、ピンポイントで安波警部を配置した事を考えると、十中八九佐久間が指示したのだろう。佐久間警部は、プロファイリングに長けている。…思考を前に進めろ。…こちらは逃走を企てる。…どこに逃げる?新幹線、高速道路、飛行機?…佐久間警部なら、こちらの意図を読んで先手を打つはずだ。…まずい)
「佐久間は切れる男で、読みが尋常じゃない。新東名高速道路と東名高速道路は検問していると考えた方が良い。原島方面から国道1号経由で名古屋か神奈川に抜けたくても、既に手を打たれているかもしれない」
「じゃあ、どうするんだよ?明日朝一の飛行機に間に合わなくなるぞ。良子だけ先に行かせるか?」
「…関西国際空港は危険だ。誰だって、浜松市から高飛びするなら、最寄りの名古屋空港か関西国際空港へ行くと考える。警視庁の裏を掻くんだ。このまま、長野県を越えて、山梨県経由で関東へ行く。時間は掛かるかもしれないが、危険を冒すよりも成田空港に変更した方が良いだろう。パスポートは持ってきているな?」
「ああ、後ろのトランクに入っている。後で伊藤良子に『一旦、夜行バスで九州まで逃げろ』と伝えるよ。福岡県経由で脱出させよう。福岡空港がダメなら、観光船経由で韓国に行かせる」
「この状況下で、こんな事自分が言うのも何だが、伊藤良子には会わせて貰えるのか?いつの間にか、あんたらと一緒に逃げてるけど」
国元が、助手席から銃口を野中英二に向ける。
「少し黙ってろ」
「はっ、はい。…すみません」
双竜橋前方で、パトカーが道路を封鎖している。磐田市、袋井市方面へ抜ける車両を一台ずつ検問しているようだ。
「おい、まずいぞ。先手を打たれている。突っ込むか?」
「頭が良いんだか、悪いんだか良く分からん奴だな。良いか、まだこの車両が追尾された訳じゃない。国元と野中はシートの下に身を隠すから、法定速度で自然に左折するんだ。加速するのは、次の二俣大橋交差点を過ぎてからだ。野中、身を隠せ。下手な真似したら、即殺すからな」
野中英二に、抗う術はない。
「…分かりました」
中村光利は、遮光眼鏡を掛けると、煙草に火をつけ、わざと大胆に窓を開けた。右手を外ドアに垂らし、何事もないように自然を装い、前方車両と同じ速度で通過する。警察官がこちらを見ているが、相手からはこちらの様子が分からないらしく、すぐに顔を背けた。検問の方へ気を取られているようだ。
(冷や冷やだぜ、…全く)
秋葉街道をそのまま北上すると、程なく山東交差点に差し掛るが、遠巻きに「ピピピ」と笛の音が聞こえる。この先の国道362号方面で、検問が実施されているようだ。
「おいおい、検問だらけだぞ。この先、大丈夫なんだろうな?」
(……そういう事か)
「読めたぞ、このまま進んで問題ない。佐久間は、我々がこんな中央経路を突破するとは考えなかったみたいだ。佐久間は、我々が『脇道から闇に紛れて逃げる』と考えたようだ。『策士策に溺れる』とは良く言ったものだ。佐久間の裏を読んで、堂々と正面突破するだけで良い」
「本当か?それこそ、罠だったらどうする?」
「その時は、この拳銃でパトカーを撃って損傷させてやる。信用して、そのまま突っ走れ」
「…刑事の勘ってやつを信じるぞ」
船明ダムだ。
「どうする?分岐点から阿多古経由で長野県に抜けるか?」
(………)
「…罠だ。抜けるのは、佐久間町経由の方が無難だろう。そのまま直進しろ」
国元の思惑通り、車は真っ直ぐ進路を北に進み、横山町に入った。
前方に秋葉隧道が出てくる。ふと、旧道の秋葉街道が視界に入る。
「見ろ、あの旧道も封鎖されている。やはり、徹底的に脇道を潰しているんだ。あの道は、確か一度入れば袋小路になっていたはずだ。選択を間違えば、いずれは淘汰されてしまうぞ」
「もう秋葉ダム近くまで来てるぞ。参道方面に行かないのか?」
「真っ直ぐだ、何度も同じことを言わせるな。山道方面になど行ってみろ?秋葉山神社の駐車場で待ち構えているに違いないし、逃げられなくなるぞ。余計な事は考えず、佐久間町を目指せ。そのうち、パトカーも視界から消える」
その時であった。
秋葉神社入り口交差点を通過した瞬間、左右の路地から一斉に覆面車両が煌々と赤色灯と共に、サイレンを鳴らし、追跡してきたのである。
(------!)
(------!)
「勘付かれたぞ!速度を上げて振り切れ、何とか逃げ切るんだ!」
「…ちっ、分かったよ。まずは先手を打つから、失敗したら責任もって損傷させてくれよ」
中村光利は、遮光眼鏡を投げ捨てると、追跡をかわす為に持参しておいた小箱を取り出す。
(………?)
「何するつもりだ?」
「これか?…見てれば分かる、とっておきの秘密兵器だよ」
左手でハンドルを操作し、右手で箱から単一の乾電池を無造作に掴んで、車窓から外へばら撒く。乾電池を避けようと急ハンドルを切った覆面車両は、片輪走行となり脇の山道へ突っ込んでいく。
「ほらよ、もう一丁!」
再び、中村光利が乾電池を後方へばら撒いた。二台目の車両が、乾電池を踏み大きく回転しながら滑走していく。後続の覆面車両も次々と接触し、たちまち国道152号は通行止めとなったのである。
「…乾電池は御法度なんだぞ。暴走族狩りだって使用しない。下手すれば、死ぬぞ?」
「三人も四人も、関係ないさ」
(------!)
(------!)
「それよりも前だ!前の隧道が封鎖されてる、検問だ!」
(………)
「そのまま突破だ。中村の銃も貸せ。絶対に速度は落とすんじゃないぞ」
猛スピードで突っ込む車両を、捜査員たちが止めるべく拳銃を構えている。捜査班を撃ちたくないが、背に腹は替えられない。国元は腹を据え、車窓から半身を乗り出し、計十二発威嚇射撃し、車両を損傷させた。捜査員たちは、驚きのあまり、その場から動けないようだ。
「…これで良し。このまま秋葉ダムを抜けて佐久間町へ行くんだ!」
何とか追跡をかわし、闇夜を疾走する。
~ 一方、その頃。天竜警察署 ~
「安波警部。…良かった、意識が戻りましたね」
西鹿島駅近くの線路脇で意識を失った捜査チームAは、病院ではなく天竜警察署内で手当を受けている。中村光利たちが、車両基地の屋根を爆破した関係で、付近の家屋が損傷し、一般人や駅職員に多数のけが人が出たため、近くの病院は一般患者優先となり、警察関係者は天竜警察署内に運ばれていた。
「犯人はどこに向かっている?野中英二はどうなった?」
先に意識を回復した草薙が、説明する。
「今犯人は、野中英二を人質に取ったまま、秋葉ダムを越えました。途中の検問も突破され、覆面車両も歯が立ちませんでした。検問突破の際、国元巡査が躊躇いなく発砲したとの報告です」
(………)
「そこまで墜ちたか。…国元巡査は、何発発砲した?」
「現場警官からは、十二発だったと」
(十二発?…さしずめ、中村光利と国元の拳銃だろう。となると、残りは儂の拳銃だけか)
「分かった、ご苦労さん」
(どうやら役目は果たせたようです。…後は、どうかよろしく)
「安波警部、どちらへ?」
「山ノ内課長に連絡だ。これだけの騒ぎだ、報道陣が騒いでるだろうから相談してくる」
(………?)
「捜査指揮を執られないのですか?」
「全部、佐久間警部の筋書き通りだ。…後は、佐久間警部が解決させるだろう。静岡県警察本部は、自分たちにしか出来ないことをする。無理に出張ると、警視庁の足を引っ張りかねん」
「分かりました、お供します」
~ 再び、中村光利たちの車両 ~
「どうにか逃げ切れたな」
「一生分のカーチェイスをした気分だよ。でもお陰で、何とか佐久間町まで辿り着けた。この道だと、国道151号経由で長野県に抜けるのかい?この経路なら何度か走った事があるから知っているけど?」
「いや、国道1号で佐久間ダム上流に沿って北上しよう。途中、佐久間ダムに止めてくれ。邪魔な荷物は捨てていく」
一瞬、フロントミラーで野中英二の様子を確認する。
「ああ、そういう事?…了解」
~ 佐久間ダム ~
「着いたぞ、降りろ」
野中英二は、中村光利に銃口を突きつけられながら、ダム中央の道路上に半ば強引に降ろされる。国元は、野中英二の存在には興味がないらしく、トランクルームから逃亡する為のバッグを取りだし、中身を最終確認している。
「伊藤良子に会わせてくれるんじゃなかったのか?」
「相変わらずウザいね。言っただろう?伊藤良子は、野中英二になんか会わないって」
野中英二も、振り回されて心底ウンザリしている。どうせ殺されるのなら、言いたい事を全てぶちまけてから死んでやろうと腹を決めた。
「もう我慢ならん。どうせ死ぬなら、これだけは言わせて貰うぞ。野中英二は、伊藤良子になら喜んで殺されてやる。だがな、中村光利みたいな小僧に舐められて死ぬのはまっぴらごめんだ。そもそも、何で伊藤良子じゃなく、中村光利がしゃしゃり出て野中英二を殺す?何故、真実を聞こうとしない?中村光利は、道楽で人を殺すのか?」
(------!)
その瞬間、銃で思い切り殴打され転倒した。
(………)
野中英二も負けてはいない。歯を食いしばって立ち上がる。
「言いたいことはそれだけか?…おっさん。どれだけ伊藤良子を傷つけた?どれだけ、中村光利を振り回したと思っている?」
(………?)
「何故、中村光利を振り回した事になる?」
「高校生の時、伊藤良子と再会した。初恋だったからさ、それは嬉しかった。口説きまくって、やっとデート出来ると思ったら、デートそっちのけで、伊藤良子は野中英二の事を一生懸命調べてた。復讐しようと頑張ってたよ。だから、恋人らしい付き合いが、野中英二のせいで何も出来なかった。時間は戻らないと知りつつ、青春の全てを野中英二や村松弁護士に費やした。…これだけでも万死に値する、だから殺す。それの何が悪い?」
(………)
「野中英二も馬鹿だが、中村光利はもっと馬鹿な奴だ。そんなもので、伊藤良子は幸せにはなれない。何だか、中村光利に殺されるのが阿呆らしくなってきた」
(------!)
「吠えてろ、おっさん。今、殺害してやる。幼児好きの変態おっさんは、月に変わってお仕置きだ!」
(……伊藤良子、すまなかった)
「プウォ-----ン!」
(------!)
(------!)
ダムの放流音と共に、佐久間ダムの国道上が一斉にライトアップされる。
次の瞬間。
両方向の出口は、隙間なく警察車両で埋め尽くされ、目映い光に思わず三人は目を背けた。
「ああ、そのまま、そのまま」
(------!)
(------!)
(------!)
「黙って話を聞いていたが、愚かすぎて警察組織も阿呆らしくなってきたぞ。お前たちも知能犯なら、それらしく最後まで警視庁と闘って欲しかったな」
(誰だ?)
「眩しすぎて目が眩むか?…少しだけ、ライトを落としてやれ」
佐久間が右手を挙げると周囲が暗くなる。
(------!)
(------!)
(------!)
ようやく事態を呑み込めた中村光利と国元大介は、完全包囲された状況に項垂れる。
「ここまで事件を大きくしたんだ、関係者全員が納得しないとな。…中村光利、それと国元巡査。何から話をしようか?」
「おい、あれが佐久間か?」
(………)
「そうだ、もう終わりだ。…初めまして、と言えば良いか?」
「ふざけるなよ。国元が、真っ直ぐ行けと言ったから、佐久間ダムまで来たんだぞ!佐久間の推理を出し抜いたんじゃなかったのかよ!」
「…所詮、仏陀の掌だったという事だ。誘導されたんだよ」
「誘導されたって?…納得出来るかよ!」
内輪揉めし、殴りかかろうとする中村光利を、逆に国元が投げ飛ばす。
(------!)
「終わりって言ったら終わりだ!瞬時にこれだけの包囲網を敷く。…相当な準備をしないと無理な芸当だ。秋葉街道を進んだ時、浜北区方面に罠があると思った。高速道路・駅・空港に比重を置いて包囲網を張るから、山林方面は手薄になるとタカをくくった。捜査人数のにも限界がある。脇道を抜けられたら困るから、意図的に封鎖したと思った。……全て逆の発想だったんですね」
「……三十点だ」
(三十点?)
「そんな浅はかだから巡査止まりなんだ、国元巡査。少しだけ種明かしをしてやろう。予想した高速道路に比重を置いたことは正しい。だが、空港と駅には捜査員を配備していない。何故か分かるか?」
「…分かりません」
「『策士策に溺れる』と考えるお前たちを、佐久間ダムで確保する自信があったからだ。そのために、佐久間ダムに誘導する必要があった。まずこれが、十点分だ」
「残りの六十点は?」
「鹿島坂下交差点で、咄嗟に左折せず右折したことは評価してやろう。浜北区・東区・中央区・西区そして北区。どこに逃げても、捕まえられるだけの人員とパトカー・覆面車両を配備済みだが、結局は、天竜区方面にしかお前たちは逃げられなかったという事で、これが十点。西鹿島駅近くで安波警部を振り切って逃走する。これもあえて泳がすために仕組んだことで、これが十点」
(今しかない!)
中村光利が隙を見つけ、国元の胸元から拳銃を奪うと、銃口を佐久間に向けた。
「そこをどけ!」
「おい、止めろ!警部一人撃ったところで、事態は変わらん。…もう負けなんだ」
「ふざけるなよ、中村光利は一人になっても生き残って、伊藤良子と結婚するんだ。…海外の教会も予約したんだ、佐久間ダムで捕まってたまるかよ!」
(………)
「おい小僧、撃つなら早く撃て。ちなみに撃つなら、頭か、胸を頼む。苦しんで死にたくないからな」
佐久間は真顔で、頭部と心臓を指差した。
(------!)
「撃てないと思うか?今更、何人殺しても変わらない。おっさん、なめんなよ!」
「よせ、止めろ!」
「パ------ン!」
虚しく空砲だけが、ダム上にこだまする。
中村光利は、何度もトリガーを引くが、佐久間は真顔で静観している。
そしてとうとう現実を悟り、膝から崩れ落ちた。
(………)
「気が済んだか?中村光利が撃った拳銃は、安波警部のものだ。国元巡査、これがどういう意味か分かるか?」
(------!)
「…まさか。…奪った拳銃も?」
佐久間は、ニンマリと笑った。
「西鹿島駅での攻防戦は、間違いなく安波警部が中村光利を追い込む状況となる。極限まで追い込んだら、裏切り者の国元巡査は、必ずや土壇場で中村光利を助け、本性を現す。その状況を考えてみた。…十中八九、拳銃で安波警部を脅し、安波警部の拳銃を奪うとね。そこから、推理はこの佐久間ダムまで飛ぶ。完全包囲されたお前たちは、必ず発砲をして逃走を図ろうとするだろう。状況が読めれば、次は展開だ。一人のけが人も出したくない。では、どうすれば?…答えは簡単だ。弾が入っていない拳銃を国元巡査に持たせれば良いんだ。普通に考えれば分かると思うのだが、奪った拳銃をすぐに使わないだろう?まずは、自分の拳銃から使用して、どうしようもない場合になってから、奪った拳銃を使用するものだ。では、初めから所持した拳銃は、どうやったら弾切れとなるか?…答えは、『途中で撃たせて空にすれば良い』だ」
「…その為に、あんな面倒くさい検問を?」
「その面倒くさい事をするから成果が出せるんだ。突如、山道入口交差点から複数の追跡車両が現れたら、思考は停止し冷静さをかく。その状況下で、正面に新たな障害が出たら、『強行突破』しか思いつかなかったはず。そして、躊躇いなく実弾を撃って損傷させると予想した。これが十点」
「…まさか、そこまで考えるとは。残り三十点は何ですか?」
完全に戦意を失っている国元に、愛想をつかした中村光利は、『もう逃げられない』と悟り、死を決意して欄干に飛び乗った。
(------!)
「…捕まれば死刑だ。伊藤良子にも会えない、高飛びも出来ない。…俺は、中村光利だ。誰にも捕まらないし、誰にも裁かせない。……あばよ!」
(------!)
(------!)
(…やれやれだ)
佐久間は、深くため息をついて左手を挙げる。
中村光利が、湖面に死の飛び込みを強行した瞬間、ピンと張られた防護ネットが瞬時に機能し、欄干上まで中村光利を押し戻し、そのまま元の道路に打ち付けられたのだ。
(------!)
(------!)
「なっ…!」
「話の腰を折るんじゃない、小僧。まだ、佐久間が話をしているのだぞ?中村光利は、黙って大人しく座っていろ」
「なっ…!……ちっ、分かったよ」
「犯行を食い止めるという事は、今の様に、『どんな場面でも臨機応変に対処が可能』という事だ。考えてみろ?完全に逃げ場を失った、拳銃も駄目、次に死ねるのは飛び込み自殺か舌を噛み切る事くらしかあるまい。これが十点」
佐久間の合図で、山川が中村光利を取り押さえ、口輪を施す。
(------!)
「それにしても、ここまで愚かな男だったとは。伊藤良子さんが呆れてるぞ」
佐久間の背後から、佐久間ダムにいないはずの伊藤良子が現れた。
(------!)
(------!)
「…みっちゃん、もう良いのよ。みっちゃんの気持ちはよく分かった。真面目に、純粋に悩みの為だけに付き合ってくれていると信じてた。でも、中村光利はただの愉快犯。人を殺して楽しんでただけ。口酸っぱく言ったよね?『野中英二から真実を聞きたい。何故、家族がこんな事になったのか?』その為だけに、みっちゃんは力になってくれると約束した。でもみっちゃんは、私の想いを『無にする形』で野中英二を拉致して殺そうとした。…『真実を知りたい』と願う気持ちを無視して」
「ちっ、違うんだ良子。ちゃんと話すから、ちゃんと理由を言うから待ってくれ!」
中村光利は、強くクビを横に振り否定する。
「中村光利、村松弁護士を欺いたPC技術は正直感心した。だがな、警視庁の鑑識官の方が一枚上手だったぞ。中村光利が駆使した瞬間コマ送り映像も、精巧な覆面も、電子標識器具も全てを暴いてみせたんだからな」
(------!)
山下香織が、恐縮そうに前に出て、ペコリと会釈する。
「そんな事ありません。山下香織がしたのは技術解析だけです。謎を見抜いたのは、佐久間警部と川上真澄さんです」
(------!)
(俺の自信作をこの刑事が見破った!?…素人の刑事が?)
「謎が解ければ、解決するのは簡単だ。『絶対に見破られない』という奢りから、足がついた。何せ中村光利は、その過信からか慎重にすべき場面で、あろう事か本名で覆面を注文したんだからな。中村光利が加担した事は、全て証拠を立証出来る。…完全なる中村光利の敗北だ」
(………)
「国元巡査、これで九十点。…最後の十点は何だと思う?」
国元は、静かにクビを横に振った。
「この犯行現場でこそ為し得る完結だ。…さあ、出て来てくれ」
(------!)
(------!)
(------!)
川上真澄が、村松弁護士とゆっくりと歩いてくる。伊藤良子も驚きを隠せない。
「…村松弁護士」
伊藤良子は、ただ黙って深く頭を下げ、言葉を探す。村松弁護士も、伊藤良子の気持ちが痛い程分かった。何も言葉を発する事なく、伊藤良子の頭を静かに撫でたのである。
「これで役者が揃った。『記憶殺人』の名のもとに、村松弁護士・伊藤良子・野中英二が一堂に会す。これこそが、最後の十点であり、合計百点だ。伊藤良子は、野中英二から真相を聞く義務がある。野中英二は、当時の様子を説明する責任がある。村松弁護士は二人を導いた張本人として、見届ける責務がある。初めから、この三人が相まみえれば、殺人計画も殺人事件も不要だった。だからこそ、三人が生きて『この場所』に集結する場を強引に設定させて頂きました。…これで宜しいですか、伊藤良子さん?」
(…はい。……はい)
大粒の涙を流す伊藤良子に、野中英二が土下座しながら、真相を語り始めた。
「…昔、あなたのお兄さん、健一さんを連れ出したのは野中英二です。殺すつもりは全くない。ちょっと悪戯するつもりで、親御さんから離れた健一さんを家に連れて帰ったんです。でも健一さんは無邪気に接してくれて、悪戯は出来ませんでした。『ハッ』と我に返って、すぐ親御さんに帰そうと。何気なくテレビをつけたら、誘拐事件だと大々的にニュースになりました。このまま捕まれば死刑になるかもしれない。でも、健一さんを傷付けたくはない。これは本当です。だから、目隠しをして、暗くなってから、西鹿島駅近くの線路脇で隠れんぼしようと言って別れ、逃げました。あそこなら、すぐにでも帰宅者の目に止まるし、保護されるはずだ。でももし、健一さんが自分の家を覚えていて、捕まったのならば、それは身から出た錆であり、仕方が無いと腹をくくりました。…でも、帰ってテレビニュースで、置き去りにしたはずの健一さんが誤って線路に侵入してしまい、赤電と接触して死んだと知りました。…自分は言葉を失いました。あんな可愛くて良い子が、自分の判断で死んでしまった。悔やんでも悔やみ切れない。…それが真相です」
(………)
伊藤良子は、そっと腰を落とし、野中英二の手を握る。
「…やっと聞きたかった事を知ることが出来ました。正直に話してくれてありがとう。野中英二が犯した罪は消えないけれど、お兄ちゃんが悪戯されず、事故でこの世を去った事。それだけでも救われた。あれから、どれだけ野中英二が悔やんで生きてきたのか、伊藤良子には計り知れませんが、伊藤良子や河合達彦が味わった後悔の時間と同じ時間を過ごしてきたと思います。…許すことは、決して出来ないけれど、お兄ちゃんをずっと忘れずに、生きてきてくれて…ありがとう」
(くぬううぅぅぅ)
死んでも惜しくないと覚悟を決めていた野中英二の心の靄が、長く暗いトンネルから光を垣間見るかの如く、晴れていく。伊藤良子の本心が、厚く閉ざした氷の壁を溶かしたのである。
「いっその事、死んだ方が楽だと何度も何度も思って生きてきました。でも、それでは健一さんに申し訳がない。これからも残りの人生、生涯を掛けて供養させて貰います」
野中英二もまた、人目をはばからず、大声で泣いた。
「自分からも一言詫びさせて欲しい」
「…村松弁護士」
「あの裁判はね、どうしても負けられない裁判だった。当時はうだつが上がらず、結果を残さないと廃業寸前だったんだ。野中英二から真相を聞いていた。だが、弁護士として負けられない自分は、野中英二を説得したんだ。…裁判に勝つにはそうするしかなかった。『野中英二は殺していない。結果的に事故に遭い、亡くなってしまった不運な結果だ。無事に帰そうと行動した、誘拐する気は微塵もなかった。目を離した親の代わりに一時的に保護しただけだ。世間が、マスコミが早とちりした事で事件になっただけで、決して間違っていない。だから、これは誘拐でも何でもない。野中英二も被害者なんだよ』って。結果は知っての通り、証拠不十分で不起訴。その後、伊藤良子ちゃんのお母さんが自殺するなど微塵にも考えなかった。自分の家族を守りたかった。立ち上げた村松弁護士事務所を守りたかった。…でも、そんな考えが皆を巻き込んで、人生を狂わしてしまった。………この通りだ、心からお詫びします」
村松弁護士も、野中英二の横で伊藤良子に土下座する。
佐久間たちは、その様を黙って見届けた。
(………)
「二人とも、顔を上げてください。もうこれで思い残すことはありません。お気持ちは十分に頂きました」
(………?)
(………?)
「伊藤良子には、何かの病気で時間がない。…伊藤良子さん、違いますか?」
(------!)
(------!)
佐久間の言葉に、中村光利を除く関係者全員が絶句する。中村光利はただ黙って悔しそうに下をむいたままであり、伊藤良子は明るく佐久間に接してみせた。
「あれ?やっぱり、分かっちゃいました?みっちゃんしか、知らない事なのに」
「捜査過程でずっと気になってたんです。何故、村松弁護士に復讐する為に弁護士を目指していた伊藤良子が、掌を返して村松弁護士事務所に就職したのかを。常識で考えるなら、大学院に進んだうえで資格を取得する。復讐するには時間を要しますが、堅実な道です。間違いなく聡明な伊藤良子なら選択するはず。…ならば、何故そこまで時間を急くのか?…専門学校時代の櫻井宗久教諭からの言葉も助言となりました。卒業間際まで進学すると決まっていたのに、急に鞍替えしたと。それとまだあります。その事は、川上真澄から説明しましょう」
佐久間に変わって、川上真澄が話を続ける。
「疑問が確信に変わったのは、伊藤良子の部屋を家宅捜索した時よ。初めは、犯行の足がつかないように証拠隠滅を図ったのだと決めつけた。でも、佐久間警部の推理と照合すると腑に落ちるのよ。生活に関わるほぼ全ての痕跡が消えている。写真・日記・手紙・日常の生活用品、文字通り全てがね。伊藤良子は、おそらく半年も寿命がない、だからこそ、強引にでも犯行計画を練って、野中英二に真相を聞かなくてはならなくなった。いつ事態が急変しても問題ないように、終活を済ませたうえでね。…どうかしら?」
伊藤良子は、全てを悟った表情で静かに微笑む。
「ご名答ですわ。…乳癌なんです。気が付いたのは、専門学校の三年生。放射線治療とか抗癌剤治療とかやったけれど、発見した時は既にステージⅢで、リンパに転移していたの。その時から、死の宣告が始まった。みっちゃんも言ってくれた。『死ぬまでに、野中英二に本音を吐かせてやる』って。だから、その時は恥ずかしいけれど、復讐だけを支えに生きてきました。死ぬと分かっているのに、みっちゃんはプロポーズもしてくれて、『復讐が終わったら、海外で式を挙げよう』って言ってくれた。……本当に嬉しかった。刑事さん?宮口駅で『逮捕する気はない』と言ってくれたのは、この事を知っていたからなんですね?」
黙って頷いた佐久間は、中村光利の口輪を外すよう目で山川に合図する。
「…ええ。伊藤良子は、確かに殺人計画を立てたかもしれない。でも、それはどこにも物的証拠がありません。そこにいる中村光利が手を汚して、伊藤良子を庇ったからです。それに、状況証拠を調べても伊藤良子からは何も出て来ない。それも、中村光利が全てを背負っているからです。中村光利は、粗暴の素振りを見せましたが、全て伊藤良子の事だけを想って行動したこと。矢面に立つ事で、最悪の場合でも中村光利だけが捕まり、伊藤良子には娑婆で生きて、終末の時を穏やかに過ごして欲しかった。強行に野中英二を殺そうとしたのも、真相を知った伊藤良子が幻滅したり、悲壮に駆られる様を見るのが耐えられなかったからだと考えます。…どうか、最後まで『中村光利の妻』として誇りをもって生きてください。…それが、中村光利の最後の望みだと思います」
(------!)
それまで無言を貫いていた中村光利も、この言葉でついに陥落し、声を出して泣いた。
(何もかもこの男には適わない。…でも、気持ちを分かってくれてありがとう)
「佐久間ダムでの事件究明、全て解決です。警視庁・静岡県警察本部・愛知県警察本部並びに関係所轄警察署の合同捜査本部総指揮者として中村光利及び国元大介を第一から第三殺人容疑・器物損壊容疑・その他容疑で現行犯逮捕する。なお、伊藤良子は証拠不十分で逮捕はしないが、事情を再度任意聴取したうえで、釈放とする」
それは、正に捜査終了を示唆する宣言であった。配備中の捜査官たちも、やっと張り詰めた緊張から解放され、歓喜と拍手が起こる。
「パチパチパチパチ」
「お疲れ様です!」
「…という訳で、本日の事件は解決です。よろしいですね?山ノ内捜査一課長、それに安藤捜査一課長」
(------!)
(------!)
(------!)
全員が虚を突かれた。
浜松中央警察署第二会議室にいたはずの、両課長がいつの間にか、姿を現したのだ。だが、捜査関係者全員がすぐに分かった。全身包帯だらけの安波警部が、課長たちの背後でピースをしているからである。
「長い事件だった。そして、よくぞ解決へ導いた。…評価する、大義であった」
「全員、両課長に敬礼!」
「はっ!」
「はっ!」
「はっ!」
こうして、佐久間ダムでの最終攻防は、警察組織に軍配が上がったのである。
村松弁護士と佐久間が、無言で握手を交わす様を見る川上真澄の目には、その姿がとても美しく映った。
「…終わったな」
「…ああ、終わった」
「すぐに警視庁に戻るのか?」
この言葉に佐久間は呆れて、溜息をつきながら軽く村松弁護士の頭をこつく。
「痛いじゃないか?」
「それが答えさ」
(………?)
「電子標識器具だよ。取り除かねばならんだろうが」
「ああ、その事か。電子標識器具は、このままで良いぞ。死ぬこともないと言っていたし。老後、万が一徘徊した時に役に立つかもしれないからな。ほら、居場所が分かるという事は、早期発見が出来る事を示唆するという事だよ」
川上真澄は、すぐにピンときたようだ。
「村松弁護士。佐久間警部は、それを言いたいんじゃなくってよ」
(………?)
「まだ何か残っているのか?」
「事件は、真の解決をしていない。真犯人が残っているのさ」
(------!)
「伊藤良子さん。明日その事で、少々伺いたい事があります」
(------!)
(------!)
国元大介と中村光利は、目を丸くして口を紡ぐ。伊藤良子は、バツ悪そうな表情で苦笑いした。
「…やはり、お見通しなんですね?…上手く隠し通せたと思ってましたのに。……全てを話しますわ」
「おい、佐久間。一体何のことだ?真犯人は、中村光利と国元巡査の二人じゃないのか?」
「二人は犯人だよ。でも真犯人じゃない。真犯人なら、きっとこの時間就寝しているさ。私利私欲の為だけに、伊藤良子たちを巧みに利用して事件を混乱させ、自分だけ高見の見物をしている。…自らは絶対に手を汚さずにね。真犯人を排除してこそ、初めて『真の解決』となるんだよ」
~ 十分後 ~
伊藤良子たちを乗せたパトカーが現場を去っていく。川上真澄は、ずっと秘めていた事を口にした。
「あのね、どうしても聞いておきたかった事があるの?」
不意な質問に、佐久間は虚を突かれた表情で振り向いた。
「どうした?」
「この事件の始まりは、村松弁護士のパソコンに組み込まれた仕掛けだったよね?」
「その通りだ」
「あの時、村松弁護士は浜松中央警察署の留置場にいた。川上真澄も佐久間警部も、村松弁護士のパソコンを触ったのは、あの時初めてだったよね?」
(………?)
「そうだよ、初めてだった」
「村松弁護士のパソコンは、暗証番号を入力しなければ、破壊する仕様になっていたはず。どうして初見なのに、間違わずに入力出来たの?」
佐久間と村松弁護士は、この質問に対して、顔を見合わせて大笑いする。
「そりゃ、そうだよな」
「何だ、そんな事か?」
「とても不快な気分だわ、『二人だけが知ってる』って感じで」
佐久間は、慌てて川上真澄のご機嫌を取るような仕草で、種明かしする。
「…村松弁護士の性格を知ってるからこそ、直感で分かった。昔から、我々二人には共通する大恩師がいてね。その大恩師が、いつも熱く語って教えてくれた大切な金言があるんだ」
「どんな言葉?」
二人は、昔を懐かしむ表情で口にする。
「信頼だ」
「信頼だ」




