大法螺
~ 六月二十七日、十五時 ~
伊藤良子から野中英二に郵送された書簡には、指定場所と落ち合う時間が明記されていた事から、合同捜査本部では、早い段階から厳戒態勢に入っている。
十四時には全ての配備が整い、捜査チームAは、西鹿島駅付近の県道45号線笠井街道沿い、捜査チームBは、天竜浜名湖線と遠州鉄道線沿い及び国道152号秋葉街道と二俣街道の主要交差点、捜査チームCは、天竜区横山町から佐久間町、そして捜査チームDは同天竜区の天竜川東岸で待機している。
佐久間の厳命で、各捜査員も用途に応じた私服警察官と警察官に分かれ、牽制用途で封鎖する場所は、パトカーを配備し、追跡や暗躍する部隊は、覆面車両が用意された。不用意に任務失敗となった者は、厳正に処罰されるため、どの捜査員たちも『自分だけは足を引っ張らない』という覚悟で臨んでいる。また、個を優先させ失敗した場合、チーム全体も連帯責任で処罰されるとあって、全員が必死だ。どの捜査チームも、日が変わってから早朝までの数時間、予行演習出来る者は、時間を惜しんで繰り返し、手順を確認した。
パワーハラスメントにも近い権力の行使に、山ノ内は少し違和感を覚えたが、安藤は特に意見を示さなかった。佐久間の性格を熟知してるからこそである。個々の作戦可否連絡も、山ノ内や安藤には逐一報告はしない。大局を見極めた佐久間から、必要な報告のみを行う事で承認済みだ。佐久間からの依頼で、山ノ内達は二人揃って、ドシッと本部を守っている。報道陣や関係機関との緊急的な対応の為である。
十五時の段階で、佐久間がふらっと合同捜査本部に戻って来た。
「では、これより作戦を開始します。時間的にはまだ早いですが、捜査チームC以外のメンバーに対して、最終確認のうえ、鼓舞して回ります」
(…鼓舞?)
「やはり、意図があったようだな?」
ほくそ笑む安波に、佐久間もまたほくそ笑んだ。
「昨夜の会議で全体説明を行った時、客観的に捉える者、気が緩む者、誰かがやるだろうといった空気を醸し出す者が若干いました。そのような者は、自分の動きを把握すると、連携よりも個々を優先して身の安全を図ろうとする。全員で一つの作戦を全うさせるためには、仕方の無い手法を取りました。それでも、まだ背筋が伸びない者は今夜の作戦からは外しますし、体制が整った班は評価して褒めちぎります」
「正しく、飴と鞭だ」
「単純ですが、人間誰しも圧力を掛けられては、萎縮し能力を発揮出来ません。みな、共通して言えることは、褒めて伸ばす。叱っても、その後を評価する。努力をきちんと認めて貰えると分かれば、多少無理してでも我慢が出来ます。警察学校で習う事ばかりですが、基本ですよ。安波警部から電話を貰いましたが、細かい指示通りに予行演習も様になってきたようです。初めは、恐怖心一杯だった者も、目的意識を高めて臨む中で、やっと本質を理解し始めたと、嬉しそうに話してました」
「…という訳だ。山ノ内捜査一課長どの」
「…ふん。そんな説法いらんわ。それより、今日は一網打尽に出来るのだろうな?明朝には、世間が騒ぐだろう。『村松弁護士はどうなった?』とな。そうなったら、流石に検察も黙っていないぞ」
「心得ております。一網打尽と課長は仰いましたが、お二人には伝えなければならない事があります」
佐久間は、別室に両課長を案内し、さらに耳元で囁きながら小さなメモを提示した。それには、今回の作戦で逮捕しようとしているメンバーの氏名、順序が事細かく記されているのである。
(------!)
(------!)
二人は、この内容に驚きを隠せない。
「ここに書いてあることは、事実なのか?」
「作戦に、支障しないのか?」
「全く問題ありません。当初は、全員を同一箇所で捕獲しようと考えました。でも、それだと逆に捕り逃がす事もあると考えたんです。逃走経路が一つとは限りませんし、同時に多方向に散ったら、現場は混乱する。むしろ、順番を決めて策に嵌めていきます」
「…実に面白いな。この事実も衝撃だが、明日の事を思うと胃が痛くなる。なあ、山ノ内」
「まあな。…このメモ内容は、安波警部は知っているかね?」
「はい、きちんと話しました。初めは驚いたようですが、今、別件で裏を取ってくれています。夕方までには確定出来るでしょう」
(………)
「…分かった。やはりこの事件は、佐久間警部でなければ、解決しなかったかもな」
「いいえ、山ノ内課長。警視庁は、元々部外者です。部外者だからこそ、この巧妙な手口に気付けただけの事です。逆の立場であれば、山ノ内課長や安波警部が助けてくれたでしょう。それが、組織というものかと」
(………)
「よろしく頼む」
「はっ、お任せください」
~ 同時刻、浜松市浜北区貴布祢 ~
「安波警部。何故、このような所に?」
鈴木は、安波と同じ捜査チームAである。本日未明に行った予行演習で検証済みであるが、部下たちの動きを再度把握する観点からも、一秒でも早く戻りたい。時間的に焦る中、安波が何をしようとしているか分からない。
「安波警部?」
「鈴木警部に話しておきたい筋書きがある。その為に、確認作業が必要だ。黙って、付き合ってくれないか?」
(…筋書き?一体、何を言っているのだろうか?)
安波たちは、秋葉街道から予備校脇の路地を進み、二つ目の交差点を右に曲がると、住宅が密集する場所に辿り着いた。
(全く意味不明だ。ここで何を?)
安波は、空き地にある駐車車両を端から順に目で追っていき、ある地点を指差す。
(………あったぞ)
「やっと、見つけたぞ。偽村松弁護士が乗っていた車両だ!」
安波が指差した車両は、深緑色の保護シートで全体が覆われており、傍から見ても分からない。だが安波は、その車両が犯行に使用されたものであると断定した物言いをしている。先程からの言動が、鈴木には支離滅裂に思えてならない。
(疲れているのか?)
「あの、安波警部。まだ保護シートを剥いでないのに、何故断定出来るんです?石橋を叩いて渡る安波警部の発言とは、到底思えませんが?」
鈴木の発言は、耳に入らないようだ。
安波は、一度周囲を慎重に見渡してから、やや興奮気味に不審車両に近づいていく。そして、躊躇せず保護シートにゆっくりと手を掛ける。
(------!)
「まずいですって。捜索令状もないし。その行為は、明らかに違法行為です!」
(………)
「責任は、佐久間警部と安波警部が取る。鈴木警部は、黙ってみていなさい。…剥ぐぞ」
安波は、意を決して両手で下からシートを捲った。
(------!)
(------!)
安波が見立てた通り、偽村松弁護士が乗っていた車両が発見された。
「やはり、こんな所に隠していたか。…車番は?……確かに一致する。鈴木警部、写真を撮ってくれんかね?」
(………)
「了解しました」
鈴木は、言われた通りフロント部分を撮影していく。その間安波は、佐久間に電話連絡をして指示を仰ぐことにした。
「安波です、証拠が取れました。…ええ、そうです。六月四日の二十二時二十五分に発生した、ひき逃げ車両を発見。指示を仰ぎます。…はい、そうです。ここにいるのは、安波と鈴木警部のみです。……それはまだ話していません。…了解です。では、一度合流してから、その時に。その時間、そこへ行けば良いんですね?…はい。鈴木警部に依頼しておきます。では、後ほど」
写真を撮り終える鈴木に、安波は側の自販機でコーヒーを購入し、差し入れた。
「ご馳走さまです」
「鈴木警部。浜松中央警察署の誰かを呼んで、監視させよう」
「直ぐにレッカー移動しないのですか?」
「これには、少々きな臭い理由がある。何故、こんなピンポイントで発見出来たかを話す必要がある。そして、証拠が取れたので、今夜起こりうる想定話もしなければならん。これは、鈴木警部にしか話せん内容だ。…心して聞いてくれ」
安波は、コーヒーを飲みながら、この二週間佐久間と極秘で進めてきた内偵捜査情報を鈴木に伝えると、鈴木は唯々驚愕し、事実を知る事になった。どうしても納得が出来ない。
「馬鹿な!あいつが、そんな事を!?」
「これは信じがたい事実だ、こうして証拠も取れたしな。だからこそ、今夜起こりうる事態も予測がつくというもんだ。…信じたくない気持ちは分かる。それでも、非情に徹しなければならん。静岡県警察本部にとっても、正に正念場というものだ」
「あの、この事は、山ノ内課長には?」
「既に、佐久間警部から説明済みだ。証拠が取れたら、安波警部から鈴木警部にだけ話してくれと仰せつかってね。だから、鈴木警部だけをこの場所に連れてきた。佐久間警部の気持ち、山ノ内課長の気持ち。…察して欲しい」
「目の前の現実が、真実とは思いたくないですが、確かに存在する以上、否定しません。でも何故です?何故、こうも最短距離を佐久間警部は進めるんです?だって、おかしいと思いませんか?いくら、元地元だったからといって、何十年も土地を離れた一警部が、プロファイリング捜査だけで見抜けるんですか?勘だけで捜査出来るんなら、私がやっている捜査は一体何なのですか?」
(………)
「勘違いしているのは、鈴木警部じゃないのかな?」
(------!)
「捜査の基本は、足だ。プロファイリング捜査は、その為の手法だぞ。仮説を積み重ね、刑事は証拠を取るために、二本の足でヘトヘトになるまで歩き通しながら、検証する。佐久間警部がどうやって捜査していたかを、実際に目の当たりしなくとも、分かるんじゃないか?この数日間、佐久間警部が何を捜査したのか挙げてみたまえ」
(……確か)
「村松弁護士が逮捕されてから、送致されるまで、正味一日と半分。佐久間警部は、留置場で村松弁護士から事情を聞き、一連の犯行現場を把握し、看板の手口を暴いた。加藤昭博と岡田順平の関係から、職場を調べ、野中英二にも接触した。そして、野中英二から河合達彦に辿り着き、伊藤良子の所在を掴んだ」
「どの程度、移動したと思う?」
(………)
「浜松中央警察署から各鉄道駅、遠州鉄道線を往復。天竜区の鰻屋、同天竜区の野中英二への接触、三ヶ日町の河合達彦への接触といったところでしょうか」
「愛知県にも顔を出して捜査したようだぞ。いくら静岡県警察本部でも、何ヶ月、場合によっては年単位で掛かるかもしれない。…まあ、少し大袈裟かもしれんがね。だが、並みの刑事では出来ない移動距離だ。新事実を、湯水が湧く如く暴いていった佐久間警部は、全て机上でプロファイリングしただけか?」
(……俺は馬鹿だ)
「いいえ、全て自ら動いて掴んだ情報です。…しかも、組織力を当てにせず、自分の足だけで」
(………)
「分かったようだな。静岡県警察本部が、佐久間警部に追いつきたくても並べないのは、人並み外れた推理力もそうだが、抜群なる行動力だと思い知らされたよ。瞬時に、判断し行動する。おそらく、時間概念がないのだろう。人が休む間も、時間を有効に使用して捜査する。村松弁護士を助けたいという、断固たる意思がなければ、出来ない捜査だったのかもしれんがね」
「私には、到底無理です。頂は、本当に高いようです」
「誰だって無理な話だ。だが、腐ってないで地に足をつけた捜査をするしかない。それが並みの刑事に出来る事だ。…武運相応にな」
(本当にそうだよな)
「ところで、何故、佐久間警部はこの事に目を付けたんでしょうか?」
「村松弁護士が逮捕された翌日、静岡県警察本部と警視庁には見えない壁が出来た。村松弁護士を逮捕した静岡県警察本部の捜査を覆す為に、佐久間警部が単身乗り込んできた形だ。組織上、公式には歓迎出来ないし、送迎など御法度だ。だから、村松弁護士逮捕までの経緯を非公式で教えたのが、始まりだ」
(………)
「そんな顔をするな。ちゃんと、山ノ内課長の許可は得ているよ」
「そういう事は早く言ってください。肝を冷やしますよ」
「知っていると思うが、佐久間警部は今回の捜査にあたり、強力な助っ人を呼んでいる」
「川上真澄ですか?」
「そうだ。佐久間警部並みに、高い知能と洞察力を備えている。正に黄金コンビだ。この二人の推理力と行動力があったからこそ、見抜けたのかもしれない。実はな、捜査資料に疑問を呈したのも川上真澄が発端だった。佐久間警部とは違う視点で、物事を正しく評価していったな」
「では、川上真澄がこの発見を?」
安波は、残った缶コーヒーを啜り、ゴミ箱に捨てる。
「いや、それは佐久間警部だ。単純に、捜査報告の内容と時系列から違和感を覚えたらしい。その違和感は、その後の捜査過程でも露わになった。鈴木警部が、愛知県に行っている間にな」
(………?)
「山ノ内課長から捜査指揮を任された安波警部が、編成の割振りをして、捜査に臨んだ。そこは問題ない。だが、捜査過程で本来の捜査から外れ、第三事件に翻弄された事自体が災いし、本質を見失ってたんだよ。河合達彦から伊藤良子に辿り着き、伊藤良子から医療関係者へ辿り着いた。そこで佐久間警部は、改めて捜査に漏れがないかをチェックして、手口に気付いた。六月六日の時点で、佐久間警部から『ひょっとして、内部に裏切り者がいるかもしれない』とやんわりと極秘で打ち明けられてから、その者に捜査情報が漏れない配慮をしてきた。だからこそ、昨夜の捜査会議にも参加せず、今夜土壇場で合流する指示を出している」
「そういう事でしたか。何故、あいつが自分の代わりに愛知県で継続捜査しているのかと思いましたが。…確かに言ってましたよ。『安波警部より直々に依頼された』と」
「それが、この答えだ。ここは、奴の実家が借りている駐車場。先日、庶務課の職員から聞いた話なんだが、『最近まで乗っていた紺のセダンが調子悪いみたいで、ミニバンで出勤しているようだ』とね。灯台もと暗しとは、この事だった。奴は堂々と紺のセダンで出勤していたから、誰も疑いもしないし、気付かない。庶務課の職員に日時を確認したが、六月五日にはミニバンに変わっていたらしい。そりゃあ、そのはずだ。六月四日に事故を起こして、この場所に隠していたんだからな」
「戻ってきますかね?」
「当の本人は、正体を暴かれている事など、微塵にも思っていないだろう。事件が無事に完遂してから、ゆっくりと証拠隠滅するだろうから、今日はまず来ないさ。佐久間警部も、それを知っているからこそ、泳がせようとしている」
「泳がせる?奴をですか?」
「そうだ。耳を貸してくれ。…ボソボソボソボソ」
(------!)
「ちょっと待ってください。いくら何でも、安波警部の命が危ない」
安波は、大笑いしながら、鈴木を小突いた。
「良いんだよ、それくらい。大胆に出ないと犯人の裏は取れないぞ。もし、佐久間警部の読み通り事件が展開して、その局面で命を落とすことになっても、全然惜しくない。その時は、所詮それだけの男だったという事だ。それにだが、刑事としてはそろそろ終わり。花道にもってこいの大舞台だよ。最後くらい自分で決めたいと思ってな」
(………)
「鈴木警部なら、ビビって遠慮しますがね」
「そうかね?では、そんな鈴木警部には、佐久間警部からの伝言がある。また耳を貸してくれ。…ボソボソボソボソ」
(------!)
「正気ですか!?」
「大まじめだそうだ。勿論、安波警部はその時間、その場所にはいない。身体が一つしかないからな。お楽しみは一つだけという事だそうだ」
鈴木は、大きな溜息をつく。
「…全く。描く絵図が大きすぎるでしょ?でも、これも大仕事です。やるしかない」
「全くその通りだ。……この話乗るかね?」
(………)
「不肖、鈴木。『佐久間警部の大法螺に乗った!』と伝えてください」
偽村松弁護士が運転していた車両を見て、二人して大笑いする。
「これから起こる真犯人確保の前では、この車など霞んで見えます。頭がおかしくなったんでしょうか?」
「一緒だよ。普通なら、物的証拠を見つけて躍起になるところなんだが。…刑事をやっていて幸せだ。何せ、『文字通り』命を張って勝負するんだから。長い刑事人生で、何回も遭遇出来ない程の事件になりそうだ。高揚感しか覚えないよ」
「…お互い、生きてまた会いましょう」
満面の笑みで、右手を差し出す。
「安波警部が死んでも、鈴木警部がいる。堂々と花道を飾ってやるさ。…またな」
陽がゆっくりと落ち始めるのであった。
~ 六月二十七日、十八時二十八分。浜松市浜北区宮口 ~
「ナイスボール!」
天竜浜名湖線宮口駅では、十八時二十五分、上り線の掛川方面に電車が発車してから、時間を持て余した駅員同士がホーム越しにキャッチボールしている。
出勤時間帯の六時台から九時台と、帰宅時間帯の十七時台、十九時台、二十時台、そして二十二時台を除き、他の時間帯は一時間に一本しか上下線とも電車は通過しない。乗客も多くても十名。十八時台は一名である。
「次の発着、いつだっけ?」
「下りの新所原方面が、十八時四十五分だ」
「なら、あと十五分くらい肩を慣らせるな。おい、今度はストレートだ。しゃがんでくれ」
「ちょっと待って。煙草を消すから」
都会のホームとは違い、駅舎からホームに繋がる間に、喫煙の灰皿が設置されている。駅員は、グローブを外しながら煙草を灰皿に捨てる。
(この駅舎もボロボロになったな)
ふと、視界を反対ホームの奥へ移すと、上り線の白い待合席に腰掛けている若い女性が、夕陽を黙って見つめて黄昏れている。十八時過ぎにも見かけたから、乗車しなかったようだ。次の上り線は、十九時十六分の天竜二俣止まりであり、その便に乗車するにしては、時間が空く事から声を掛けた方が良いのか悩んでしまう。
「おーい、まだか?早くしてくれよ。陽が落ちちゃうよ!」
「大丈夫だよ。今日の日の入り時刻は、確か十九時十分前後だから、まだ明るいさ。それよりも、ちょっと待ってくれ」
駅員は、グローブを置くと、ホームから線路へ続く階段を下り、反対線ホームへ移動した。キャッチボール相手が、突然自分の方に向かってくる事に違和感を覚える。
「どうしたんだよ?」
「いや、…あの女性なんだが?」
「ん?…あの女性か?そういえば、さっきの上り線電車にも乗らなかったな。恋人でも待ってるのかもしれないぞ」
「昔から、近くの高校生が待ち合わせ小屋デートしていたもんな。…でも、少し気に掛かる。キャッチボールは中止だ。悪いが、下り線にいてくれ」
「へいへい、分かりました。…職権乱用は駄目だぞ。逮捕されちゃうよ」
「そんなんじゃない、行ってくる」
駅員は、ゆっくりと女性を伺うように近づき、思い切って声を掛けてみた。
「午前中の曇天は嘘みたいですね。十五時にやっと晴れ間が見えて、今は快晴だ。この場所から見える夕陽がね、昔から好きなんですよ」
(………)
(反応なしか)
「隣に座っても?」
「………どうぞ」
「では、お言葉に甘えて失礼します」
駅員は、女性から一メートル距離を空けて腰掛けると、胸元から煙草を出し、火をつける。
「……ふー。やっぱり、この場所は捨てがたいですね」
女性の目が、かすかに動く。
「いえね。近くに浜北西っていう高校がありましてね。僕は、そこの出身なんです。彼女は、引佐町に住んでいて、いつもこの電車で通学してました。僕は、笠井町という、この駅からそうですね、当時自転車で一時間くらい掛かったかな。そこから、朝六時に起きて、彼女に会うため、ここに通った。朝の七時四分前後に到着するから、彼女を拾って二人乗りでまだ誰も来ていない高校へ行くんです。金もないし、バス代もない。でも、時間と希望とまだ見ぬ未来があった。デートして夜帰る時も、昔からこの本数だから、一本乗り過ごすと、最悪一時間は待たなくてはならない。でも、それが二人の愛を育みました。待ってる時間も愛おしくてね」
「…じゃあ、その彼女さんとご結婚を?」
駅員は、静かにクビを横に振った。
「…いいえ。彼女は、看護師を目指してました。でも、成績に伸び悩んでいた。当時、交際を知る物理学の教師に言われたんです。『彼女のことを想うなら、一度別れて勉強に専念させなさい。そうすれば自分の力を使ってでも志望校に入れてやる』って。今思えば、無茶苦茶ですよ。でも、当時の私は馬鹿で深く考える時間も余裕もなかった。結果、教師の言葉を鵜呑みにした。本当の理由を告げず、一方的に別れたんです。直ぐに別の彼女を作ってね。自分でも何と酷い事をしているのかと自己嫌悪に陥りました。その新しい彼女とも卒業前に別れましてね、誰が見ても単なる女たらしです」
「それは、さぞかし彼女さん傷つきましたね」
「…ええ、とても深く傷つけました。数十年経った今でも、夢に彼女を見ます。あの時、私がしっかりしていれば、彼女を手離す事はなかった。今、私は結婚していますが、甲乙つけ難い、一生胸に秘めた想い人ですよ。妻には決して言いませんが、来世にまた再開出来たら一緒になりたいと思っています」
「素敵な話。……あーあ、私もそんな恋愛してみたかったな」
駅員は笑った。
「何を言ってるんですか?お姉さんは、どう見てもまだ二十代前半。好きなだけ恋が出来ますよ。逆に、それが羨ましい。私にはない未来が、あなたにはある」
女性は、静かにクビを横に振った。
(………?)
「ないんですよ。その未来が」
「どうしてです?」
「…ある人を不幸にしようとしています。自分が悪い訳ではない、『悪いのは全部その人だ』って、高校生の時から思ってました。途中で、何度も止めようとした。でも、自分の力だけでは、もうどうしようもない所まで来てしまったんです」
「うーん、何か複雑そうですね。でも、あなたにも恋人がいるでしょう?相談に乗ってくれないんですか?私なら、相談に乗りますがね?」
(………)
「恋人はいます。でも、その恋人が猪突猛進の思い込みが激しい人で。私の事なのに、途中から彼の物語になってしまった。気がつけば、私の関係ない人達も巻き込んで、私が思い描いた物語が、勝手に第三者が絵を描く羽目になりました」
「…なるほど。要約するとこういう事ですか?『自分もしくは自分の家族を不幸にした男もしくは女がいる。高校生の時から思っていたという事は、幼少時代は知らなかった。真実を知り、家族もしくは自分が、とっちめてやろうと計画したが、彼氏が途中から参戦し、自分以外の者にも声を掛けて、騒ぎを大きくした。何とか食い止めたいが、自分の力では暴走する彼氏を懐柔出来ない。その事が重荷となり、本来乗る電車にも乗車出来なかった』…こんな所でしょうか?」
女性は、開いた口が塞がらない。
「…びっくりだわ。とてつもない推理というか、ここまで的確に言い当てる人初めてです」
「それは、どうも」
「あの、詳しくは言えませんが、私どうしたら?…本当に、こんな事する気はなかった。ただ、真実が知りたかっただけなんです。お金がないから、バイトして専門学校を出て、何とか就職もして」
「警察に相談されてはどうですか?ピンキリですが、親身になって相談に値する人間なら紹介出来ますよ」
(------!)
女性は急に立ち上がり、強く拒絶反応を見せる。
「警察なんて、絶対無理!…私の家族を不幸にするだけして、知らん振り。警察なんて無能な集団よ」
「余程、何か遭ったんですね。…全く、当時の警察もだらしないですね」
この言葉に気をよくしたのか、女性はベンチに腰を下ろした。
「あなたと話していると、何だか胸がとてもスカッとします。あーあ、彼氏もあなたみたいな人だったら良いのに」
駅員は、再び煙草に火をつけると、少しだけ話を前に進める事にした。
「先程の要約話ですがね、私があなたの彼氏だとしましょう。まず、高校時代に真実を知ったあなたと共に、更なる真実を追ったでしょう。…大人の世界は理不尽だらけです。齢十八歳の考えと二十三歳前後では、感じる事も答えを導く考え方も違ってくる。恨みを晴らすのは、見えない時間を味方につけるべきです。その上で納得出来ない場合は、法的措置に訴える。残念ながら、日本国民である以上、法的国家の枷は外せません。許せない外道や、司法の力が及ばない外道が確かにいる。自分だけが不幸かと悔やむ事もある。でも、お天道さまは、しっかり見ています。…あなたの言う真実もです」
「…駅員さん」
「急に爺臭いことを話してしまいました。あなたからすれば、四十五歳の私は、れっきとした爺です」
「そんな事ないです」
「ありがとう。では、最後に確認させてください。多分口に出さない、…いや、出せないと言う事は、あなたは、何かの犯罪行為を計画した。でも、途中で止めようとした。しかし、関係者の彼氏が言うことを聞かず、飛び火して第三者をも巻き込んでいった。もう引き返す事も出来ない。それは結果的にですが、あなた自身も犯罪行為に片足を入れた事になると思っているから。でも、本心はそんな復讐など望んでいない。電車に乗らなかったというより、電車に乗れなかった。それは、直近であなたが恐れる犯行がある。だが、出来る事なら誰も傷付ける事なく真実のみを知りたい。そうではありませんか?」
(------!)
「………はい。警察に言いますか?」
「まさか!そんな事する必要はありませんよ」
女性は、安心して背伸びをした。
「本当に不思議な駅員さん。これで、何か踏ん切りというか、肩の荷が少し軽くなりました。…結果はどうあれ、発端は私が計画したんだし。やっぱり誰かを傷付けてはダメ。どんなに怖くても、痛い目に遭うかもしれなくても、自分がこの身を犠牲にしてでも犯罪は止めようと決心出来ました。次の電車で行きます」
(………)
駅員は、静かに肩に手を置いた。
「あなたの気持ちは十分理解出来ました。…まだ間に合います。『死地』に行っては絶対に駄目です、伊藤良子さん」
(------!)
「警視庁捜査一課、佐久間と言います。一連の連続殺人事件解決に向けて、総指揮を執っています。伊藤良子は、野中英二に封書で今夜会う約束をした。二十二時四十五分、西鹿島駅付近は死地となるでしょう。そんな所に行ってはいけません」
突然、目の前にいる駅員が刑事に変わる。
伊藤良子は驚愕し、動けない。
「もう一本、吸っても?」
伊藤良子は、微動だに出来ない。佐久間は、目で威嚇はしない。気配だけで、身動きを封じたのだ。
「あなた方が企てた看板の手口、電子標識器具、村松弁護士のパソコン、偽村松弁護士の覆面、それと、ひき逃げに使用した偽車両。…全て私が紐解きました。名古屋市の専門学校、櫻井宗久教諭からも情報を入手し、お父さんの河合達彦さんからも事情を聞いています」
(------!)
「…安心しなさい。逮捕するために、この場所にいるのではありません。あなたを守る為に来たんです。無闇に死んでは、野中英二から真相を聞けないし、本当の未来は掴めませんよ」
(------!)
(どういう事?…逮捕しない?…私を?)
佐久間は、腕時計で現在の時刻を確認する。
「まだ時間があります。もう少し落ち着くまで待ちますよ。さぞかし驚いたでしょうから、言葉を発せられるまで、待つ事としますよ」
~ 三分後 ~
「あの、刑事さん?」
「何です?」
「私がやっている事は、犯罪です。それは、自分でもよく分かっています」
「第一殺人から第三殺人まで、実際、事件現場にいたんですか?それなら、身柄を拘束しますが?」
「……いえ。犯行現場には行っていません」
「先程話した通り、私は伊藤良子を逮捕する気はありませんよ。櫻井先生からも、河合達彦からも事情は聞かされました。昔とはいえ、同僚が不甲斐ない捜査をした事で、あなた方家族の人生設計は大きく変わってしまった。そこは、どう償っても償い切れません。だから、伊藤良子が犯罪に手を染めたか否かは、伊藤良子と直に会って、本質を見極めてから判断しようと思いました」
(------!)
「…ひょっとして、河合達彦が?」
佐久間は、静かに頷いた。
「昔、あなた方がこの地に住んでいた頃、よくこの天竜浜名湖線宮口駅で河合達彦の帰りを兄弟仲良く待っていたそうですね。寂しい時は、このベンチで何時間も座り、夕陽や夜空を眺めた事もあったと。今夜の犯行計画をプロファイリングした時、犯行場所となる舞台、対象者、日時など予期出来ましたが、伊藤良子の居場所だけは掴めませんでした。そこで、河合達彦に伺ったんです。伊藤良子が子供時代、大切にしていた場所をです」
「それだけで天竜浜名湖線宮口駅に?…駅員に扮してまで?」
「役者を演じてみましたが、捨てたものでもなかったようですね」
伊藤良子は、人間味を出して笑う佐久間に、少し自分の心が開くのを感じた。
「…不思議な気分。普通なら、即逮捕、即ご用!って力ずくで拘束されるのに。刑事さんは、私を普通の人間として接してくれる。…私どうしたら良いですか?」
「今夜の犯行計画はもう止められないでしょう。彼氏の中村光利や他メンバーも既に地下に潜っている。警察組織も対抗すべく策を張り巡らせました。勝っても負けても、伊藤良子は生きて、その真実から目を背けてはいけない。どんな事情であれ、この物語は伊藤良子が始め、あなたが終わらせなければなりません。幸い、警察組織は伊藤良子に感情移入しています。最後の舞台に、無傷でお届けしましょう。……鈴木警部、そろそろ来てくれ!」
佐久間の声に反応し、下り線ホームから鈴木が、小走りに駆けてくる。
「もう一人の駅員さん?」
「その通りです。いい歳した中年親父二名が、伊藤良子が天竜浜名湖線宮口駅に現れなかったら始末書ものだとドキドキしながら、キャッチボールしながら待機していた。どうです、滑稽でしょう?」
伊藤良子は、心から笑った。
「…人生、こんなものですよ。良い人がいれば、悪い人もいる。裏切る者がいても、伊藤良子の事を正しく、評価して理解してくれる人がいる。見た目は落ちぶれても、心意気は持って、伊藤良子の幸せだけを強く想う身内がいる。…伊藤良子は一人ではありません」
「…刑事さん。…私。……私」
佐久間は優しく、伊藤良子の頭を撫でる。
「村松弁護士の事は放っておいて結構です。村松弁護士は、親友でしてね。今回の事件で警視庁に泣きつきました。少々、天狗になっていた事も事実なので良い薬です。伊藤良子に裏切られた動揺は隠せませんでしたが、笑って許すように叱っておきました」
「…そんな。村松弁護士には良くして頂きました。野中英二を勝たせた村松弁護士を恨む気持ちは、正直今でも少し残っています。でも、仕事をしながら、いつも葛藤もしていました。『本当に恨むべき人間だったのか』と」
「人生は、時間しか解決出来ない事があります。人間は、どんなに恨んでも、どんなに傷ついても、一生続くものではありません。わだかまりは残っても、ゆっくりと薄く、淡く消えていきます。人はきっと何かに折り合いをつけていかないと気が済まない生き物だと、この歳になって気が付くんです。だから、伊藤良子も良く反省し、何が悪かったのかを考えてください。亡くなったお兄さんやお母さんもそれを望んでいるはずです」
「………はい」
伊藤良子は、鈴木警部と共に待機したパトカーに乗り込む。佐久間は、宮口駅の前まで見送った。
「では、また後でお会いしましょう。…鈴木警部、後は任せましたよ」
「はっ、責任をもって伊藤良子を最後の舞台に」
「うん、頼みます」
「刑事さん、まだお話ししたい事が」
(………?)
「何でしょう?」
「彼氏の事とか、他のメンバーの事とか。刑事さん、私に気を遣って何も聞かないもの」
「問題ありませんよ。既に事件は、私の頭の中で詰んでいます。その他メンバーの事もです。来たるべき時間、来たるべき場所で対決し、伊藤良子には申し訳ありませんが、警察組織が勝つ。…それだけです。それに、野中英二が死んでしまっては、伊藤良子にとって、本当の復讐は完遂しない。分かりますか?」
「…真相は闇の中。…聞かない事には前に進まない」
「…良い子だ。伊藤良子にとって、今夜は忘れられない日になるはずです。色々な意味でね」
(………?)
「お楽しみは、これからです。では、出してくれ」
伊藤良子を乗せたパトカーは、静かに発進する。浜北区内に消えゆくパトカーを見えなくなるまで見送ると、先程までの綺麗な夕陽が、漆黒の闇へと変化していく。
(…十九時十五分。まずは、第一段階完了だ。…さて、次は安波警部のお手並み拝見といこう。もっと伊藤良子が策を弄したかと思ったが、そうでもなかった。真犯人の考えで犯行が計画された感があるな。少しだけ修正が必要かもしれない。もう二手ほど、策を施した方が良いかもしれん。…先を急ごう)
佐久間もまた、闇へと消えていく。
虫の鳴き声が、天竜浜名湖線宮口駅に響き始めた。




