野中の葛藤
時間の関係で、この節は何日も掛かります。
纏めて読みたい方は、終着地 2が次話として掲載されるまで、お待ちください。
(本業の関係で、時間が執筆時間が取れず、申し訳ありません)
~ 六月二十六日、二十一時。浜松中央警察署第二会議室 ~
「では、捜査会議を始める」
佐久間の号令で、警視庁、静岡県警察本部及び関係所轄警察署、そして愛知県警察本部合同の捜査会議が始まった。
延べ、百五十三名もの捜査官たちが集結し、警視庁からは安藤捜査一課長・山川刑事・日下巡査長、静岡県警察本部と愛知県警察本部からは、それぞれ捜査一課長たちが出席している。警視庁科捜研チームの氏原と川上真澄は、末席に大人しく座った。
第二殺人が発生した際、部下の不手際で一度は捜査全権を行使した山ノ内捜査一課長だったが、佐久間の奮迅振りを高く評価し、捜査指揮権限を与えた。佐久間もまた、組織バランスを優先させるより、多少強引な捜査でも短期勝負を賭ける意味で良しと判断し、全体の舵取りを率先して行っている。
「時間がない中、よくぞ不休不眠で捜査をしてくれた。本来であれば、静岡県警察本部が主導で仕切りたかったであろうが、山ノ内課長の配慮で警視庁捜査一課が壇上に立っている。みんなには、無理なお願いもした。理不尽だと思った者もいただろう。だが、みんなが踏ん張ってくれたお陰で、間もなく事件は解決するだろう。本題に入る前にこれだけは言いたかった、ありがとう」
挨拶を済ませた佐久間は、全員に捜査メモと行動予定表を配布した。
「全員に行き渡ったようなので、早速各自の役割分担を説明する。捜査チームA起立!」
静岡県警察本部1/3aと浜松中央警察署チームが、一同に立って敬礼する。
「捜査チームAは、天竜区の西鹿島駅中心を担当だ。西鹿島駅周辺、県道45号線笠井街道沿いを中心に捜査網を張る。天竜警察署に応援を要請し、双竜橋交差点から国道152号方面の各分岐ポイントに捜査員を配置。記載の通り、各自旅行者・一般人に成り済ますんだ。ここで、犯人を確保出来れば良いが、まず無理だろう。この場所を起点に、逃走経路が各方面に分岐することを鑑みて、一番地理に詳しい静岡県警察本部メンバー1/3と浜松中央警察署メンバーを配置する。天竜警察署を主力として配置したかったが、他のチームにも分散させて方が良いと判断し、この組み合わせにしている。犯人を捕り逃がした場合は、速やかに各捜査チームへ連絡するんだ。浜北区方面に逃げた場合は、捜査チームBへ。天竜区を北上する場合は、捜査チームCへ。天竜川を越えて、磐田市・袋井市方面へ逃げた場合は、捜査チームDへ連絡だ」
「はっ」
「了解です」
「承知しました」
「事件発生となり得る場所だから、責任は重大だぞ!だからと言って、躍起になって犯人を捕らえようと思うな。警戒される中で無理に動けば、不具合一つで後手に回る。それだけは絶対に回避してくれ。身柄確保に全力を挙げるより、泳がせて効果的に追い込むんだ。連絡系統の強化が最優先課題である事を忘れるな。…では、次。捜査チームB、起立!」
静岡県警察本部1/3bと浜松東警察署チーム1/2a、愛知県警察本部1/2aが、一同に立って敬礼する。
「捜査チームBは、天竜浜名湖線と遠州鉄道線沿い。国道152号秋葉街道と二俣街道の主要交差点に比重を置いて、捜査員を配置してくれ。浜北区は広範囲だから、浜北警察署の応援部隊と愛知県警察本部1/2も編成に組み込んだ。中瀬小学校前の分岐点から県道45号線笠井街道経由で、国道1号にでも逃げられたら、交通量の多さで追うのが困難だ。第三者に対する二次被害を未然ぬ防ぐ為にも、ここは敢えて、パトカー二台を二路線に配備し、犯人を牽制する。高速道路を利用される事を考慮し、最寄りの東名高速道路・浜松ICに検問体制を敷く。安波警部は、高速機動隊にも通達しておくよう手配して欲しい。それから、都田町・引佐町・三ヶ日町方面に逃げられないよう、国道257号にも注意して欲しいと、各交番にも要請をしてくれ」
捜査チームBの捜査員から質問が挙がる。
「あの、すみません。国道152号と国道257号間に逃げ込んだら、どう追い込めば?」
「国道257号側は、三方原小学校近くにパトカーを四台待機。逆に、国道152号側は、内野小学校近くに八台待機。西鹿島駅方面から南下してくるとすれば、国道362号から浜北西高校経由で、浜名中学校脇の国道152号に逃げ込む確率が最も高い。だから、この地点で壁を作れば、自ずと進路変更を余儀なくされる。国道257号経由で三方原方面を目指す為に、地図上のこの地点を通過するはずだ」
佐久間は、ホワイトボードに貼られた浜松市街の網図に逃走予想経路を色付けしていく。
(何で、警部はここまでル経路を予想出来るんだ?)
(プロファイリング出来るからだろう?)
(だからって、土地感ないだろう?)
(馬鹿だな。警部は、幼少期に浜北区と東区に住んでたって話だぞ)
(それで、地域特性にも強いのか。…納得したよ)
「東名高速道路の高架下を過ぎれば、浜松中央警察署が目の前だから、この経路はまずないだろう。その為、県道65号線経由で国道257号を目指す為には、この分岐地点が要となる。捜査員を配置し、犯人通過と同時に、内野小学校に待機中パトカー八台は、二百メートル間隔で路地毎に散り、足並みを揃えるように、並走して追い込んでいけば、途中で路線数が減少していくから、袋小路に出来る。これなら、国道257号側からのパトカーは四台で済むだろう」
「だから、反対側は半分の台数なんですね?納得しました」
「捜査チームBは、突破されたら最も危険だ。市街地でカーチェイスなど出来ん。何としても、中心街には入れないように。その為に、配置人数を最も厚くしてある」
「お任せください!」
「連携を図ります」
「では、次。捜査チームCと言いたいところだが、最後にする。捜査チームD、起立!」
静岡県警察本部1/3cと浜松東警察署チーム1/2b、愛知県警察本部1/2bが、一同に立って敬礼する。
「捜査チームDは、国道152号と県道40号線の合流地点、県道61号線上の浜北大橋を押さえれば良いが、国道374号の十湖橋付近にも、最悪の事態を想定して、パトカーを二台隠しておいてくれ。十湖橋に犯人が来るということは、何らかの失敗で中瀬小学校の分岐場所を突破されたという事だ。そうなれば、関東方面まで逃走出来ることを意味し、警察組織の敗北を意味する。確率は低いが、関東方面への逃走は避けたい。『十湖橋を突破されたら、終わり』の気持ちで、気を引き締めて臨んでくれ」
「堤防はどうしましょう?県道40号線から、脇の河川敷に逃げたらどうしますか?天竜川の河川敷は広大で厄介です。ある意味、危険です」
「河川管理者に連絡し、堤防から河川区域内に入る全ての管理用道路を夜間のみ封鎖する要請を行え。本来の事務手続きを踏んでいたら、話にならん。揉めそうなら、直ぐに佐久間に回せ。河川国道事務所長に、直接交渉する」
「了解」
「頑張ります」
「では、最後に。捜査チームC、起立!」
警視庁捜査一課、科捜研のメンバーが一同に立って敬礼する。
「捜査チームCは、北上してくる犯人を、船明ダム付近まで追い込むのが第一の条件。運良く、駐車場にでも逃げ込めば、駐車場で警察組織の勝ちだ。第二の条件は、秋葉ダムとその奥だ。経路が少し複雑だから、現地で直接指導する。地理に強い警察官を回して貰ったから、今夜中に合同疑似訓練して、身体に叩き込め」
「はっ」
「仰せの通りに」
「会議室にいるメンバー全員の配置場所、待機開始時間、報・連・相の手法は、記載の通りだ。既に潜伏した捜査員には、直接指導してあるから本番で歩調を合わせるように。全体説明後、チーム毎に分けるから、全員で読み合わせて確認してくれ。目で読むだけでは駄目だ。口に出して、復唱しながら確認を。動きが分からない捜査員は、どんな些細な事でも聞くように。聞くのは恥じゃないぞ。聞かなくて、取り返しがつかなくなる事の方が恥じだ。迷う時間こそ惜しめ。身柄確保に関わる動きは、全員が息を合わせ、熟知しないと成功率が低下する。それと、単独行動・判断は御法度だ。小隊の所属長は、統制を確認し、中隊所属長へ報告。中隊所属長は、各本部の警部へ報告とする。指示系統は絶対であり、不用意に失態を犯す者は、躊躇なく処罰の対象になると思え」
これを聞いた捜査員たちの表情は否応なく硬くなる。中には異を唱えたい者もいたが、ここまで周到に準備された計画に付け入る隙は無く、下手に口を開けば、佐久間から何を言われるか分からない。逆に、処罰をしなければならない程、この作戦は重いのだと、改めて思い知らされるのだ。
~ 一時間後 ~
主要箇所への配置パトカー、覆面車両、無線連絡系統、追跡捜査手順、段取りの進捗率と準備完了に要する時間など、チーム毎への佐久間による聞き取り確認が始まった。
それはまるで、穴を潰すかの如く、途中で言葉を噛む者や中途半端な準備しか出来ない者は、容赦無く、質問攻めされている。妥協しない姿勢に、佐久間をよく知らない者は畏怖を覚え、次に質問の番が回ってくる者は、顔色を伺いながら、ブツブツと何度も小声で受け答えを練習している。
山ノ内は、自分の姿と重ねながら、安波に言葉を掛けた。
「中途半端な捜査官には良い薬だな。佐久間め、自ら嫌われ役を演じる事で、上層部が横やりを入れるのを食い止めてやがる。それにしても、本当に容赦ないな。いつもここまで細かいのか?」
「…大博打を打つ捜査とか強行犯確保の時は、大体こんなもんだ。上層部から見れば、今日はまだ大雑把な方だぞ?今回は、垣根を越えたチーム戦だ。二週間前は、全員に指示が的確に伝わるように、四班の大枠を決め、それを軸に細分化させていくと話していたが、あそこまでは完成していなかったよ。日中は捜査に全力を挙げつつ、睡眠時間を削ってまで練り上げた策だ。会議室にいる誰もが、あれ以上の作戦を組めんだろうよ。佐久間警部の場合、直感で動く時と理詰めで動く時の差が大きい。今回は、相手が知能犯だ。今までの経緯から、理詰め策で絡め取る方法を選択したのだろう」
「なるほどな。プロファイリング捜査に長けているのは、誰が見ても明らかだ。作戦は完璧に近いし、碁盤の目に、きちっと碁を打つイメージが感じられる。だが、ここまで捜査展開しなくても、犯人を確保出来るんじゃないかと内心は思うがね」
過大捜査を心配する山ノ内の心を察する安藤は、一つだけ提言をした。
「…長年、佐久間警部の捜査指揮を見てきたが、捜査規模を見誤ったことは一度もない。佐久間警部が十名で可能と判断すれば十名。百名と言えば百名必要だ。集結した捜査チームの人員とパトカー、覆面車両。実際は、四班のうち一班もしくは二班で犯人を確保出来るはずだ」
「安藤の言い方が正しいなら、逃走経路を潰して、袋小路に追い込むために大々的に配置をした。だから、見た目程の労力と危険度は少なくて済む。…そう聞こえるが?」
「その通りだよ。佐久間警部が一番恐れているのは、市街中心部に犯人が逃走して、テロ紛いの行動をされる事だ。伊藤良子は、かなりの知能犯だ。警察組織に包囲された時、実行犯、中村光利と共にどんな動きをするのか?姿が見え隠れしている中で、尻尾を掴ませなかった相手であるし、慎重にもなるさ。儂は、評価するがね」
山ノ内は、深く溜息をついた。
(安藤の言う事は正論だ。正直、何人が実行役として裏に潜んでいるのか特定出来ていないんだ。組織的な人数だったら、それこそ後手に回るだろう)
「捜査チームAに言った内容を覚えているか?」
「…ん?『発生地点で犯人を捕らえようと思うな』か?」
「そうだ。その言葉こそが、この作戦の重要分岐点だと思わないか?」
(………?)
「どういう事だ?」
「警察組織にとって、一番良いのは最初の地点である西鹿島駅付近で犯人を拘束することだ。実行犯が単身なら、大勢で取り囲めば終わりだ。でも、万が一爆破でもされたら、遠州鉄道線と天竜浜名湖線は運行停止を余儀なくされる。西鹿島駅は浜松市内からすれば終着駅だが、天竜区の住民からすれば発車駅だ。都心と違って、代替輸送など簡単ではないだろう。普通の日常を守るための策でもあるんだよ」
「なるほどな。だから、犯人を西鹿島駅から離すのか?」
「そういう事だ」
「安藤、佐久間警部から犯人の人数について、何か聞いているか?」
「伊藤良子と中村光利。それ以外に最大二名の計四名だそうだ。目星は付いていると言っていた。捜査会議上で言わないのは、情報漏洩を防ぐためだと」
「何故、安藤や山ノ内にまで隠す必要がある?」
「昔から佐久間がそう切り出す時には、裏切り者が身内にいると予想しての事だ。だからこそ、土壇場まで口を開かん。鬼が出るか蛇が出るか。まあ、知らん振りしておく事だ」
(身内に裏切り者?…一体、誰のことだ?)
「自分なら我慢出来んがね。裏切り者には鉄槌を食らわしたいからな」
「まあ、そう急くでない。…山ノ内は、儂と作戦司令室で捜査一課長らしく見届けていれば良い。もう、佐久間警部たちの時代だよ」
「…そうだな。佐久間警部が、どんな解決をするか見届けよう」
公式な捜査会議は、その後も二時間掛けて行われ、山川たちが予行練習のため、現地に向かったのは日時が変わった二十四時三十分であった。一つの失敗も許されない段取り、意思疎通、不測事態の行動予測など、捜査員たちは捜査会議が終了しても、各班毎に納得出来るまで話し合い、準備に入るのだった。
~ 浜松市天竜区 ~
佐久間は、山川たちを各中継地点に案内し、要所の封鎖手法などを細かく指導する。この手の作戦は、山川は慣れているが、日下たちは苦手意識が拭えない。
秋葉街道の赤い鋼橋を渡り、横山町の五平餅店舗を通過した時点で、五台の覆面車両が国道脇に停車する。
「日下、あそこに見えるのが新道の隧道だ。右側に迂回する形で旧道の秋葉街道が繋がっていて、隧道出口で再び合流出来る。分岐地点を封鎖しないと、旧道経由で県道285号線に逃げられる。西鹿島駅方面から犯人が逃げてきた場合、分岐地点さえ封鎖しておけば、自然に新道へ抜ける。隧道出口で急転回して、旧道に入ることは危険だから避けるだろう。なので、捜査チームAから連絡が入った時点で、封鎖に入ってくれ。ただ、旧道を利用しないと帰宅出来ない一般人を考慮して、検問方式で行え。二名での対応で良い」
「はい。直近に天竜警察署の横山町駐在所がありますから、応援を利用します」
「それで良い。では、次の分岐地点に向かうぞ」
隧道を抜け、四百メートル進んだ先の秋葉神社入り口で停車する。
「この分岐地点は、封鎖しなくて良い。交差点背後の店舗と民家の裏に覆面車両を一台ずつ配置。もし、秋葉参道を進めば、山の奥へ行くだけで行き止まりだから、この国道152号へ戻ってくるだけだ。配置した覆面は、すぐには追わずプランBへ移行せよ。この分岐地点と、秋葉ダム入口箇所を押さえれば勝ちだ」
地図を見ながら、山川も口を挟む。
「ぱっと見、警部が仰ったように、この秋葉神社入り口と秋葉ダムが大きな入口だ。犯人に土地勘があれば、それ以外の旧道から逃げる可能性もある。地図上の分岐地点も、先程の隧道箇所と同じように、追加配備した方が良いんじゃないか?」
「この地点も、連絡が来てから封鎖すれば良いのですか?」
「警部、どうします?」
(………)
「全ての作業を、同時にすると間に合わないな。…秋葉神社入り口、秋葉ダム、中間の二箇所は事前に配備。追加配備は、連絡が入り次第、適宜動けるようにしておいてくれ。山さんが言う事にも一理ある。山さん、よく気が付いてくれた」
「いえ、たまたまです」
「分かりました」
「では、次の分岐地点だ」
山川の表情が冴えない。
「どうした、山さん?」
「何となく、警部がやろうとしている計画が見えて来ましたが、肝心の話を伺っておりません」
「…事件関係者の事かね?」
「はい。予想犯行時刻に、事件関係者の野中英二は本当に来るのでしょうか?」
佐久間が捜査官たちを見ると、全員が同じ疑問を抱いているようだ。
(………)
「事件関係者の野中英二は来るし、各班の警部にだけ伝えた。本来なら、捜査会議上で話すのが良かったんだが、思うところがあってね」
山川が、側で耳打ちする。
「…裏切り者が?」
佐久間は、静かに頷く。
「野中英二とは、捜査会議前に打合せ済みだ。詳細は伏せるが、佐久間警部を信用してくれ。次の分岐地点に急ぐぞ」
こうして、佐久間たちは時間を惜しんで北上していく。
~ 六月二十六日、十五時。浜松市浜北区小松 ~
「お待ちしていました」
野中英二は、この日、仕事を休んで自宅待機していた。伊藤良子から封書が届き、犯行声明が書かれていたからである。佐久間と初めて出会ってから、当時の様子が鮮明に蘇り、脳裏から離れなかった。村松弁護士に相談しようと考えたが、逮捕の一報を知り、相談出来る相手もいない。佐久間の名刺を頼りに、相談しようか悩んでいたところに、佐久間から連絡を受けたのである。
野中英二宅への訪問には、佐久間の他、川上真澄と安波警部も同行していた。
野中英二は、質素な生活を送っている。
県営の朽ち果てた集合住宅は、外装も内装もコンクリートの柱や壁がひび割れ、痛んでいる。人が住むには限界なのか、三階の住民は野中英二だけのようだ。契約駐車場には、駐車している車が殆どなく、広場の砂場やブランコなどの遊具で遊ぶ子供や見守る親もいない。一箇所に集約された郵便受けの九割程が、緑色の養生テープで塞がれ、『投函不可』のステッカーが貼られている。曇天が原因なのか、この団地全体が、灰色に包まれている。
野中英二の玄関には、靴が二足しかなく、備え付けの棚は空だ。七十センチメートル程の狭い廊下を歩く度に、『ミシッ』っとしなり、床が抜けないか心配しながら居間まで進む。廊下右の部屋は、段ボール関係が無造作に積まれ、生活関連のものが詰め込まれている。逆に、寝室と居間、台所は物が殆どなく、野中英二の性格が伝わってくる。
「ご覧のとおり、片付けが苦手でしてね」
「まあ、一人暮らしですから。私も、よく妻に叱られました。『汚い物は、早く捨てなさい』ってね。私自身が捨てられないか、肝を冷やした経験があります」
他愛ない会話をしながら、奥へ進む佐久間をよそに、安波は川上真澄に小声で尋ねた。
「…どうです?九条大河から見て、何か作家目線で分かりますか?」
「警察組織が来るから、慌てて押し込んだという感はないわ。埃があんなに被っているもの。きっと、普段から生活空間を広く確保したい人間ね。でも、潔癖症という訳でもない。あえて分類するなら、軽微な閉所恐怖症かな」
「閉所恐怖症ですか?」
「そう。自宅トイレでは、少しだけドアを開けて用を足す。狭い空間が、苦手な人に多い行為なの。ちょっとでも解放気分で用を足したいから行う、潜在意識の行動。広い空間で、自分が思い描く場所に僅かな物を置いて、落ち着くタイプ。思いつきで行動する事もあれば、相手の性格を読み取って、相手がどう感じるかも分析出来る。でも、落ち着きたい場所に物が無造作にあったり、他人に勝手に置かれると、落ち着かなくなって判断能力が低下したり、苛々する」
(…なるほどな。野中英二は、幼児誘拐犯。自分だけの世界観には、誰も入れないか)
野中英二が用意した麦茶は、想像以上に黒く見え、思わず全員の顔が引きつった。
「事件関係者から、飲食の提供は受けられないんです」
「そうですか?でも、ほら。外、暑かったでしょ?」
「お気持ちだけ頂きます。来る寸前に、水分を摂りましたので。それよりも、電話内容を確認させてください。何でも、伊藤良子から封書が来たと。見せて頂けませんか?」
「はい、封書をどうぞ」
野中英二は、少し残念そうに麦茶を冷蔵庫に戻すと、台所テーブル上にある物入れから一通の封書を佐久間に手渡した。
「拝見します」
『 野中英二さま
初めまして。河合達彦の娘、伊藤良子です。
事件当時、私はまだ幼く、父もまた何も語りませんでした。
裁判では、あなたに敗訴しても、父は控訴しませんでした。
父の不貞やマスコミから非難された件もありますが、
今の私なら、間違いなく控訴して、あなたを刑務所に送った。
あの日、あなたは兄を見殺しにした。
母は、あなたのせいで、兄を後から追って他界した。
私の中にある情報は、それだけ。
でも、真相は闇のまま。
あなたは、無罪放免となって、社会復帰した。でも、事件を引きずっている。
元の職場に復職していないところを見ると、あなたも真実を話したいのではと
思っています。
父は、一切あなたのことを口にしませんが、どうしても真相を知りたい。
あなたが、本当に犯人だったのか?
それとも、何か言えない事情で兄を結果的に見殺してしまったのか?
真相は闇のまま。
お互い、健康で元気なうちに、この悲しい事件を終わらせませんか?
幸い、六月二十七日は村松弁護士が起訴される日。
それと、兄や母の月命日。
運命だと思って、あの場所で会って話しましょう。
そうすれば、私もあなたも、もうこの事件から本当の意味で解放される。
いつまでも過去を引きずらないで、そろそろ前を見て生きましょう。
真相は闇のまま。でも、解り合いたい。
あなたが無実なら、私はあなたと一緒に家族の痛みを分かち合う。
あなたが犯人なら、真相を聞いて、あなたの頬を一発叩く。
悲しみは、全部あの場所に置いて終わりにする。
六月二十七日、母が旅立った二十二時四十五分。
あの場所で、あなたを待っています。
伊藤 良子 』
(………)
「刑事さん、私は行って話そうと思っています」
「前回お会いした時、野中英二は心の慟哭を聞かせてくれました。くどいですが、犯人は野中英二の生命を狙っています。場合によっては、殺される。…それでも行くのですか?」
野中英二は、黙って頷く。
「これも、自分の撒いた種です。教師を解雇となったのは、伊藤良子のせいではありません。勿論、事件のせいでもない。自分があまりにも不誠実で、生徒たちに暴力を振るった。それだけなのです。あの事件で、自分は本当に疲れてしまいました。真相を知りたいと思う、被害者家族の気持ちは痛い程分かります。だからこそ、自分が行かないと始まりませんし、終わりません」
安波と川上真澄は、ただ黙るしかない。事件解決には、野中英二が囮となって、前面に出る事でしか、伊藤良子たちを表舞台に引っ張り出せない。口が裂けても、『囮になってくれ』とは言えない。むしろ、野中英二からの申し出が、警察組織にとって好都合だからだ。
「…ご協力感謝します。警察組織も、汚い大人になりました。あなたから、その台詞を聞いて、内心助かっている。野中英二を利用し、犯人を捕らえる為には、この手段しかありませんでした。本当に情けない話です」
深々と頭を下げる佐久間に合わせ、安波たちも一緒に頭を下げる。
(………)
「良いんですよ。前から分かってました。いつか、自分の人生を精算する日が来るだろうと。それよりも、刑事さんが自分の目を真っ直ぐに見つめて、普通に接してくれた事の方が、何よりも嬉しかった」
「あの場所は、ご存知ですね?」
「………もちろん、忘れません」
「分かりました。では、死なない為の準備をします。野中英二は、定刻に指定された場所へ向かう。その際、防弾胴着を着用する。警察組織が貸与する発信機を防弾胴着、靴底、ベルトに装着しておく。警察組織は、離れた位置に待機し、犯人が野中英二と接触した頃を見計らい、取り囲います」
「でも、それでは話が出来ません」
「話す機会は、後で幾らでも用意します。まずは、野中英二の生命確保が優先です。その場所が、その日最も危険なのです。負の印象が漂う場所で話し合っても、伊藤良子の感情は高まり、悲しい結果しか生まれないでしょう。少し強引かもしれませんが、あなた達をその場所から遠ざけます。それに、犯人も警察組織の存在に気が付いて、野中英二を拉致するかもしれない」
「伊藤良子は、女性ですよ?女性に拉致されるなんて」
「伊藤良子は、おそらく姿を現さないでしょう」
(------!)
「それでは、意味がないじゃないですか?伊藤良子は、自分から『会いたい』とこの手紙を送ってきました。どうしても真相を知りたいと」
佐久間は、静かに否定する。
「約束の場所へは来ます。…伊藤良子の仲間がね。約束の場所で、野中英二を拉致するか、殺害するかです。今までの連続殺人事件は、実行役しか姿を見せていません。伊藤良子は、参謀として裏に隠れているでしょう」
「……そんな」
「確率論からすると、野中英二は拉致され、別の場所へ移される。移送先で、真相を聞かれてから処分される。それを阻止する為に、何百名もの警察官が明日配備されるのです」
(------!)
「何百名?ちょっ、ちょっと待ってください。よく意味が分かりません。野中英二たった一名の為に、何百名もの警察官が?」
安波と川上真澄も、静かに頷く。
「…あり得ないです。野中英二一人の命で、誰にも迷惑を掛けたくないと思ってました。どうしてですか?何故、そこまで守って貰えるんですか?だって、過ちを犯したんですよ?」
佐久間は、そっと肩に手を置いた。
「前に話したかどうか忘れましたが、野中英二は十分に社会的制裁を受けたんじゃありませんか?無罪放免となっても、何故、名誉毀損で逆に河合達彦を訴えなかったのか?…それが、答えなんです。野中英二は、刑務所で罪を償うと同じように、社会の中で日々を懺悔に充てた。この住まいを見て悟りましたよ。好きなものを我慢し、結婚も諦め、ただ慎ましく生きる為だけの悲しい日常。その環境に身を投じ、亡くなった河合達彦の長男の為に生きている。そんな気持ちの優しい人間を、警察組織は絶対に見捨てたりしません。悪を見過ごさないと同じように、その頑張りをきちんと見てますよ。それに、あのお天道さまもね」
薄汚くなった、白いレースが風に揺られ、隙間から初夏らしい日差しが入る。
眩しそうに、手で陽を遮る野中英二の頬から、大粒の涙がこぼれる。
「明日は、全力で野中英二を守ります。どうか、警察組織に任せて貰えませんか?」
(………)
「…はい。……はい。どうか、よろしくお願いします」




