遥かなる野望 1
~ 六月八日、九時 浜松中央警察署内、第二取調べ室 ~
「おはようさん。よく眠れたか?」
さわやかに出迎える佐久間とは対照的に、村松泰成は、不機嫌な表情を露わにしている。昨夜のうちに容疑は晴れたので、手錠も腰縄もしていない。
「ああ、おはよう佐久間くん。……一言良いかね?」
「勿論だとも。まあ、言いたい事は察するがね」
「…俺は、無罪放免になったはずだよな?なのに、未だ留置場で夜を明かし、こうして取調べ室の汚い空気を吸っているんだ?分かりやすく、簡潔に、二十字以内に纏めて答えてくれないか?」
(………)
「い・ま・か・え・す・と・じ・け・ん・が・か・い・け・つ・し・な・い・か・ら」
佐久間は、指折り数えながら答えると、村松泰成の顔が益々強ばる。だが佐久間は、缶コーヒーを差し出しながらも、刑事の顔を覗かせると、何かを察してか、村松泰成の表情も大人しく変わった。
(………)
「気持ちは分かるが、起訴されなかっただけでも良しとしろ。もう手錠も腰縄もないし、この取り調べ室に来るまでも、一般人と同じように歩けたはずだ。何故、まだ引き留めるのかも、きちっと今から説明する。榎田巡査、村松弁護士のパソコンを準備してくれ」
「はい、少々お待ちを」
榎田が、隣室でパソコンを準備する間、まだ話していない伊藤良子の件を切り出すことにした。
「泰成、心苦しい説明からしなきゃならん。心が折れるかもしれないが、聞いてくれ。真犯人に関わる事だ」
村松泰成は、立ったまま差し出された缶コーヒーを口にしていたが、真犯人について話を聞ける事が分かった途端、椅子に座って佐久間の言葉を待った。
「…ああ、真相を聞かせてくれ」
「まず、一連の事件についてだ。首謀者は伊藤良子、二十三歳。村松弁護士事務所に所属する女だ」
(------!)
「ちょ、ちょっと待ってくれ。村松弁護士事務所の良子ちゃんが?…嘘だろう?…いつも気さくな、おっとりとして人当たりも良い、あの良子ちゃんが?…なあ、いつもの冗談だろう?幾ら何でも、人が悪いぞ」
佐久間は、残念そうに黙っている。
「………マジかよ」
「…ああ。伊藤良子は、母親方の旧姓を名乗っている。父親の性は、河合。今から十七年前に発生した、浜松市浜北区幼児誘拐事件の原告人、河合達彦の娘である伊藤良子は、元被告人の野中英二と、当時の弁護人だった村松弁護士に恨みを持っている」
(------!)
「でも、どうして良子ちゃんが。十七年前といえば、良子ちゃんは当時、六歳だ。親父の河合達彦こそが、首謀者じゃないのか?」
「河合達彦という男が、判決後どのような人生を歩んだのか知っているか?」
(………)
佐久間の問いに、村松泰成は黙ってしまった。
野中英二の事は承知しているが、唐突に十七年前の相手を覚えているかと聞かれ、即答出来るはずがない。ましてや、顔を覚えていない男が裁判後どうなったかなど、知る由もない。
「…いや、全く覚えてない。即日控訴されず、そのまま野中英二の無罪が確定した。次の裁判も控えていたし、正直何も知らない」
「村松弁護士には悪いが、野中英二に会って話を聞いた。当時の村松弁護士が、野中英二を説得した内容もだ。当時の内容を、取り調べ室で論議するつもりはない。司法の判断に、ケチを付けたくないからな」
「事件捜査の過程なんだ。誰に接したかなんて、何も問わないし、それで良いさ。それで?…河合達彦の人生は、裁判後どうなったんだ?」
「妻を亡くし、職を失い、県西部に移住した。息子を亡くした悲しみ、夫の借金と不貞、偽装誘拐と疑われたマスコミや世間からの中傷。それら全てが、河合達彦の妻、恵子をまだ三十七歳の若さで、この世から奪い去ったよ」
「……自殺したのか?」
「ああ。息子を亡くした、西鹿島駅近くの線路でな」
村松泰成は、両手で頭を抱え、うなだれる。
「裁判で相手を負かす時、相手の人生まで深く考えると発狂しそうになる。…だから、相手の事は考えないように自分を欺してきた。『自分の対象者だけ考えれば良い。非情だが、これが仕事』だとな」
「河合達彦自身は、当時、浜北区本沢合東に住んでいたようだが、今は北区三ヶ日町で、人生をやり直している。泰成や野中英二への恨みよりも、当時の自分を悔いながらも、懸命に生きている」
「なら、良子ちゃんはどうして?」
「高校生の時、進路手続きで必要だと学校から言われ、戸籍謄本を入手したらしい。その時、母親と兄の本当の死因に気が付いた。父親の河合達彦は、幼少の伊藤良子に、事件の真相については一切話さず、事故死した事だけを教えた。不審に思った伊藤良子は、浜北区の図書館で、当時の事件を新聞で調べたらしい。そこから、復讐心が芽吹いたのだと思う」
(………)
頭の整理が出来ないまま、考え込んでしまう。
自分への恨みがある犯人だとは理解していた。だが、いつも笑顔を絶やさず、あれ程自分と仲良かった伊藤良子が、どうしても犯人であると信じたくない。佐久間の捜査結果は、正しい事だと重々承知だ。それでも、伊藤良子を恨む事は出来ない。
(……泰成)
自問自答する村松泰成に、佐久間も言葉を失った。次の言葉を探しているところに、タイミングよく榎田が入室してくる。
「佐久間警部。パソコンの準備が出来ました」
「ありがとう。泰成、すまんが隣の部屋に行くぞ。悩むのは、パソコンを見た後だ」
「…ん?…ああ、分かった」
隣室に移動すると、昨夜と同じように特殊な装置が接続され、直ぐに使用出来る状態だ。本物のパソコンは、鈴木警部が検察へ持って行っている。科捜研の山下香織が、違う媒体のパソコンに、機能だけをそっくり複製したものである。
「本物は、今、静岡市の検察だ。確認作業が終わり次第、戻す。このパソコンは、泰成のパソコン機能を忠実に複製したものだが、ある仕掛けが施されていたよ」
(………?)
「仕掛け?俺のパソコンにか?」
「百聞は、一見にしかずだ。まあ、見ていてくれ。非常に興味深いぞ」
佐久間は、昨夜と全く同じやりで再現を開始する。特殊な装置で、光を完全に遮断すると、程なくして通常の静止画面が、コマ送りのように動き出し、徐々に左から右へ横移動していく。そして、横移動した画面は、被写体をじんわりと映し出していく。
(------!)
これには、村松泰成も驚愕し、頭を抱えた。
「なんじゃ、こりゃあ!?………松本、中田、加藤。それに野中英二まで映っているじゃないか!」
「これが、村松弁護士を苦しめた『記憶や夢に出てくるの人物』の正体だ。0.002秒/コマで常時、村松弁護士の脳を刺激して、潜在意識の中に埋め込まれた正体だったんだよ。泰成が私を訪ねてきた時は、今年の一月。確か、半年程前から悩んでいると言っていたから、かれこれ一年くらい経つな」
村松泰成は、壁のカレンダーを見ながら、記憶を辿った。
(…一年前。……そうか、そういう事だったのか!)
「佐久間、思い当たる節がある。一年前、パソコンの調子が悪くなって、良子ちゃんに相談したんだ。そうしたら、良子ちゃんが、こう言ったんだ。『お勧めのパソコンがあるから買って来ます』と。『知り合いに超がつく程、詳しい人間がいるから、安心して良いですよ』と言われて、即答でお願いした。後日、『初期設定、セキュリティ対策なども、全て済ませておきましたから、安心して直ぐに使えます』と。今までのパソコンと同じように、本当に直ぐ違和感なく使えたから、全く疑いもしなかったが」
「それなら、話が早い。どこかのタイミングで、目を盗んで仕込まれたんじゃなくて、購入時に細工されていたという訳だ」
「道理で、医者も大学教授も見抜けなかった訳だ。…でも、どうして分かった?」
「頭部の電子標識器具と、記憶や夢。この二つを合わせて考えた時、ずっと違和感を覚えていた。普段、私もパソコンをよく使うが、長時間画面を見ても、頻繁には目が痛くならない。だが、泰成のパソコン画面を見た時、ほんの数分で目が異様に疲れた。その状況でハッと閃いたんだ。真犯人は頭脳派で、電子機器に長けているのではないか。もしかしたら、パラパラ漫画のように、何かパソコンに細工しているのではないかとね。助手の川上真澄も同意見で、パソコン画面を見るなり、不審がった。伊藤良子の事を、直感で『怪しい』と教えてくれたのも川上真澄だよ」
「川上真澄?」
「ああ、優秀なミステリー小説家だ。難事件の時は、よく一緒に推理して貰うんだ」
(どこかで聞いたような名前だな。…気のせいか)
「その彼女は?」
「今、別件で動いて貰っている。そのうち、会える」
「なあ、佐久間。無実になったのは嬉しいんだが、『記憶の謎』が解明されただけなら、静岡県警察本部は送致を取り下げんだろう?加藤昭博ひき逃げの真相が、きちんと解明されたのか?船明ダムにいた俺が本物だと、信用されたんなら嬉しい限りだが、安波警部は詳しく教えてくれなかったからな」
「昨夜、安波警部は何と言っていた?」
「『誤認逮捕してしまい、誠に申し訳ない。国民に対しても、きちんと謝罪と釈明をいたします』って言ってた。詳細は、明日説明するとの事だっだし、時間も遅かったからな。…まあ、今回は疑われても仕方無いと思ってたし、俺も警察組織に隠してた事もあったし、両成敗だ」
「組織としては、救われる言葉で嬉しいよ。船明ダムの行動は、検証が済んでいる。誤認逮捕に話を持っていけたのは、『偽村松泰成の存在』が浮き彫りになったからだ」
(………?)
「どういう事だ?」
「榎田巡査、あれを」
榎田は、鑑識結果品を見せる。
「これは?」
「化学繊維と特殊な樹脂で作られた、弱酸性化学ビニール繊維と呼ばれている。市販はされていないようだ。映画で観たことがあるだろう?他人に変装する超薄型覆面だよ。村松弁護士は、襲撃された際に気絶し、型を取られたんだ。次の犯行まで二ヶ月程空いたのは、この覆面を製作するためだったと思う」
「つまり、偽者はこれを被った事が、物的証拠として証明出来そうだから無罪放免。そういう訳か?」
「まだ100%じゃないがね。偽村松泰成が運転していた紺色のセダン。ご大層に、車番まで模倣した車が、未だ行方不明だ。それを現在、血眼になって探している。弁護士事務所で聞いたが、加藤昭博を止めようとしたあの日、伊藤良子に給油を任せただろう?」
(……そう言えば、そうだった)
「まさか、それも伊藤良子の仕業か?」
「そうだ。契約給油会社で履歴照会したんだが、その時間に給油している事実はなかった。おそらく、同じ車を用意するために席を外したんだろう。事務所には、社用車が複数台あるし、同種の車は、市販でも賃貸でも容易に準備出来る。だが、日々使用する車は異なる。伊藤良子は、泰成が当日乗る車をギリギリまで待った。…いや、待ったというより、あの車番になるように誘導したと考えた方が早い。給油しておくといえば、必然的に乗るからな。伊藤良子は、事前に用意した同種の車に、車番を細工した。伊藤良子が、給油に行くといって外出したのは何時頃だった?」
「…多分、十九時三十分から二十時くらいだったと思う」
「それなら、尚更だ。車番を特定出来たら、用意した車に車番を細工するシールを貼るのは、三十分程で出来るからね。実行犯たちは、近隣に車を待機させていたかもしれないぞ」
村松泰成は、思わず下唇を噛み締める。
「…本当に良子ちゃんが、そんな事まで。伊藤良子の夢は、俺みたいな弁護士になりたいからって。それが気に入って採用したんだが。……間違いだったのかもな」
「今後の話だが、まだ村松弁護士を釈放する事は出来ない」
「何故だ?」
「頭部には電子標識器具が入っている。昨夜留置場で、山下香織という鑑識官が、頭部をスキャニングしただろう?」
「そういえば、可愛い女だった。あの鑑識官が何か?」
「山下香織は、優秀なプログラマーでもある。電子標識器具特性を理解し、ほんの数時間で複製を作り上げた。この意味が分かるか?」
(………?)
村松泰成、榎田も真意が分からない。
「電子標識器具は、村松弁護士の居場所を、二十四時間特定するために仕込まれたものらしい。つまり、二十一時三十分に小林駅から船明ダムに行くのも、二十二時十分に船明ダムにいたのも監視されていたんだよ。二十二時二十五分には、絶対に本沢合の犯行現場に戻って来ない事を確信しながら、偽者が本物に成り変わり、加藤昭博を殺すために利用した。つまり、この第三殺人こそが、村松弁護士を嵌めるために用意された時間手口だったという訳なんだ。同時刻に、二箇所で同一人物が犯罪の関係者になる。入念に計画された、恐ろしい手口だ。…だからこそ、逆の発想で真犯人に強力な罠を仕掛けたんだよ」
(………?)
「俺の位置を常に把握している。………ん?ちょっと待て。それなら、送致されていない事実もバレているんじゃないのかか?」
佐久間は、ほくそ笑んだ。
「そこなんだがな。山下香織が、真犯人を欺く為の情報制御を、警察署の建物全体に施した。この情報制御は、電子標識器具から発信する電波を完全に遮断してくれている。複製した電子標識器具は、鈴木警部が静岡市の検察まで運んだ。今頃真犯人は、村松弁護士が『計画通りに検察へ送致されている』と思い込んでいるはずだ」
「…なるほどね。それで、佐久間警部はどうしたいんだ?」
「検察に、身柄を移されたと油断している間に、最終決戦の準備がしたい。真犯人の思惑通り、第四目標の村松弁護士が社会的制裁を受けた。そして、最終目標である野中英二を抹殺するだけだ。私が真犯人なら、村松弁護士の罪が確定する六月二十五日を狙うだろう。それこそが、最大限に復讐を完遂した証明になるからね。だから、六月二十五日までに決着をつける」
「という事は、俺はそれまでずっと留置場に?」
「長い人生で、半月などあっという間さ。勿論、我慢出来るだろう?」
「じゃあ、妻に連絡は?」
佐久間は、クビを横に振った。
「外部との連絡は一切なしだ、携帯もパソコンも全てな。世間的に『村松弁護士は逮捕され、身柄は検察にあり、起訴されるか捜査中』である事が、この事件を解決に導く鍵となる。でも、事件解決するまで何もしないってのも退屈だろう?川上真澄の小説を提供するから、それを読んでいてくれ。それと、テレビも用意するが、テレビを観る時はイヤホン厳守だぞ。山下香織が、頭部の電子標識器具無効化プログラムを作成しているから、出来上がり次第、効力を打ち消す。そうしたら、私と外へも出られるし、外食も出来る。事件解決までは、変装は避けられないがね」
「あと十七日も、ここで過ごすのか。…でも、事件の発端は自分だから仕方がない。長い休暇を取ったと思って、これまでの人生を振り返ってみるよ。気が楽になった分、留置場も快適かもな。取り調べ室でお約束のカツ丼を食べてみたい、勿論、佐久間の奢りでだぞ。それで、誤認逮捕の件は帳消しにしよう」
「留置場にいる間の食事は、好きな物を用意しよう。但し、くどくて申し訳ないが、先程話した通り、奥さんも欺さなきゃならん。事務所に伊藤良子が来たら、確保しなければならないし、何よりも、奥さん経由で情報が漏れたら、水の泡だからな」
「…分かったよ。よろしく頼む」
~ 一方、その頃 浜松市天竜区二俣町二俣 ~
川上真澄は、安波警部と伊藤良子の居住を捜索すべく、天竜区二俣に来ている。昨夜から、交代で見張り番を置いているが、人の気配はない。伊藤良子が現れる補償もないので、家宅捜索に踏み切ることにしたのだ。
伊藤良子は、佐久間たちが村松弁護士事務所を訪れた時から、行方不明である。正確には、村松弁護士が逮捕された六月五日の二十一時より、誰も伊藤良子に会っていない。村松弁護士事務所からの連絡では、完全に音信不通となったようである。
「安波警部、大家さんをお連れしました」
「無理を言いまして、申し訳ありません。静岡県警察本部の安波といいます。少しばかり、家宅捜索の立会をお願いします。令状なしでも捜索出来るんですが、規則上、大家さんに立ち会って頂いた方が、都合が良いんです」
「分かりました。でも、本当に良子ちゃんが事件に関係が?」
「残念ですが。ただ、実行犯ではないかもしれません。そのための捜索です、ご理解を」
「…分かりました。じゃあ、今から部屋を開けます」
大家が、マスターキーで電子制御された鍵を解除すると、五名の捜査官が伊藤良子の部屋に踏み込んだ。
伊藤良子の部屋は、見事なまでに綺麗に片付いている。
台所の三角コーナーにも生ゴミはなく、水切りの食器入れにも何も残されていない。布団もきちんとたたまれて、押し入れに収納済みであり、冷蔵庫の中身も空だ。生活感が皆無といっても過言ではない。
「明らかに、長期間不在にするパターンだわ。問題は、交友関係に該当する資料が見つかるかどうか。安波警部さん、私は伊藤良子の衣装棚と箪笥を探索します」
部屋を一目見るなり、川上真澄の手が止まった。
(………妙ね)
「お願いします。下着などは女性が見た方が良いしね。川上さん以外の者は、それ以外の証拠品を捜せ。写真や手紙、その他事件に関係すると思われるものを徹底的に洗うぞ」
「はい」
「了解しました」
捜索を開始すると、押し入れに収納されている布団の下から段ボールが出て来た。中身を確認すると、村松弁護士が過去に裁判した記録、新聞記事など大量だ。そして、六冊ものスクラップブックからは、河合達彦が関係した裁判や妻が死亡した事故の記事、マスコミからの酷評などの記事が出て来たのである。
(順調だ。どれも欲しかった情報ばかりだ。あとは、これらの中から殺人計画が出てくれば、言う事無いんだが…)
期待とは裏腹に、これ以上の証拠品は見つからない。
手紙や写真、住所録、電話帳なども残されておらず、痕跡は一切ない。
(これだと、『個人的に、当時の事件関係を把握するために収集した』と言い逃れ出来てしまう。もしかしたら、居住場所に踏み込まれることを想定していたかもしれない。村松弁護士逮捕の報を受けて、次の計画段階に移ったとでもいうのか?)
「川上さん、そちらはどうです?」
「こっちもないわ。くたびれた下着とかしかないから、完全にどこか地下に潜る気よ」
「勘付かれたんでしょうか?」
(……まずいわね)
川上は、何かを察知し、声の音量を落としながら関係者に語りかける。安波たちは、理解しかねる様子だ。
「この居住場所は、村松弁護士逮捕までと決めていたのね。対象者の加藤昭博が、村松弁護士と接触する事になった時点で、実行犯たちと合流して姿を消した。その証拠に、実行犯に結びつく情報は一切を持ち出している。そこに固定電話の配線があるでしょう?電話本体だけ持って行くのも不自然だし、相当足が付くのを嫌ったのかもしれないわね」
(弁護士を目指していたんなら、自分の痕跡を消す術に長けている。それに、九条大河の小説を知っていて、高度な証拠隠滅方法を書いてある『鶺鴒計画』を読まれていたら、まず終了ね。この場所からでは、絶対に伊藤良子を追えない。…それよりも?)
「…仕方が無い。他の場所も捜索して、何もなければ引きあげよう」
それから一時間捜索したが、伊藤良子の部屋からは何も見つからなかった。
(過去経緯は分かったが、肝心なものが見つからない。やはり、実行役の犯人と合流したんだろう。偽の車情報だけでも欲しかった)
「川上さん、何か思いつく事はありませんか?佐久間警部が話す通り、九条大河の知恵が必要だ」
川上真澄は、クビを横に振る。そして、再び小声で答える。
「流石に、打つ手がないわ。九条大河の作品を読んでいるのなら、おそらく、この部屋の指紋や化学繊維痕なども消してから逃走したはずよ。念のため、鑑識に指紋採取をお願いして貰っても構わないけれど、きっと何も出て来ない。伊藤良子は優秀よ」
「では、佐久間警部が計画してい…」
(------!)
川上真澄は、慌てて右手で安波の口を塞ぎながら、クビを何度も横に振った。
(………?)
「安波警部。ちょっと、外で。皆さんも、一度外に出て貰えますか?」
「…?」
「はあ、では終いですか?」
「了解です」
全員が廊下に出ると、川上真澄は、安波だけを通路の端へ連れて行き、小声で囁いた。
「安波警部さん。あの部屋、もしかしたら盗聴されているわよ」
(------!)
「何ですって?」
「だって、変でしょう?村松弁護士が逮捕されたら、警察が弁護士事務所に乗り込んでくるのは明白よ。その証拠に、伊藤良子は村松弁護士の逮捕前に姿を消した。警察の力を過小評価していない証拠よ。弁護士を目指す知能と危険予知能力の高さ。そして、徹底して痕跡を消す能力。そこから何が見えると思う?」
「…なるほど。盗聴か盗撮、警察の挙動を把握する」
「その通り。だから、部屋内で佐久間警部の事を言っちゃ駄目。折角泳がしているのに、佐久間警部の事が漏れたら、伊藤良子はおろか真犯人が、外国へ逃亡する事だってあるわ」
「…分かりました。では、直ぐに盗聴や盗撮がされているか応援を要請しましょう」
「お願いします。これで伊藤良子の性格が読めると思います」
~ 一時間二十分後 ~
静岡市から科捜研が到着し、部屋中を捜索すると、川上真澄の推察通り、玄関入り口・冷蔵庫・テレビ横・脱衣場・トイレ内の電源コンセントに盗聴器が仕込まれている。幸い、盗撮器具は仕込まれていないようだ。
鑑識官が、小声で安波と川上真澄に尋ねる。
「盗聴器を処理しますか?外す事は可能ですが、直ぐに勘付かれますよ」
「川上さんは、どう思います?」
(………)
「外しては駄目、安波警部さん。知らん振りして、『何の証拠も出てこない。村松弁護士も検察に起訴されるだろうし、これは完全犯罪だ。まんまとしてやられた!』って大袈裟に言って頂戴。それと『やはり、村松弁護士は起訴当然だ。これ以上事件も起きないだろうから、捜査は終いにするぞ』って打ち切って欲しいの」
安波は、川上真澄の提案を受け入れ、少し大きな声で話す事にした。話す位置も言われたとおり、電源コンセントの近い位置だ。
「…ちっ、何の証拠も見つからん。伊藤良子ってのは、村松弁護士の秘蔵っ子だろう。関係性を聞かれる事を嫌がって、行方を眩ましたに違いないぞ。何とか、話が聞きたいのに。これじゃあ、完全犯罪じゃないか!…みんな。どうやら、伊藤良子からは裏が取れないようだ。まあ、あれだけの証拠があれば、村松弁護士の罪は確定して、これ以上の事件は起きないだろうから、本日をもって捜査を打ち切っても良いかもしれん。とりあえず、捜査本部で結論付けようじゃないか。引き上げるぞ」
家宅捜索を止め、表通りで捜査状況を整理する。
「どうだ?短時間だったが、指紋は出たか?」
「検出出来たのは、一種類だけ。しかも、不自然に少ないです。あれは、完全に拭いています。指紋は、伊藤良子本人のものと推察します」
「指紋以外の検出は?」
「下足痕、繊維痕は出ません。部屋の最奥から玄関に向かって、後退しながら粘着テープで丁寧に除去しながら退出したものと思われます。プロ並みですよ)
(…ここまで周到とはね)
「川上さん。やはり、九条大河は優秀だ。刑事としても十分やっていけますよ。佐久間警部が信用するはずだ。直ぐにでも、部下にしたいくらいですよ」
「たまたまですわ」
川上真澄も、満更でもないようだ。
「冗談はさておき、これで伊藤良子の性格をプロファイリング出来ました。戻ったら、佐久間警部に報告して、善後策を練りましょう」
「伊藤良子をどう受け止めましたか?」
「…まず、殺人計画は伊藤良子なんだと思う。ミステリー小説らしい手口よ。証拠品として押収出来たものは、万が一に備えて残したもの。自分の親兄弟がどのような事件で死んだのか。それを調べたくて収集したと言い張っても、誰もが怪しいとは思えても、追求出来ない良策よ。それと、それ以外の痕跡を消す事で、伊藤良子の知能がどれ程のレベルなのかを、警察関係者は警戒する。今までの村松弁護士に対する評価と同じ。彼女の素性を暴こうとすればする程、深みに嵌まって、時間を取られていく。…そうしている内に、最終目標である野中英二が殺され、事件が終わる。多分、最後のために温めておいた計画だと思う」
「…伊藤良子を追っても、時間がない。でも、追わなければ事件は終わらない。…完全に、行き詰まってしまいましたな」
川上真澄は、得意気にこれを否定する。
「きっと、そこは大丈夫。佐久間警部が、既に策を弄しているはずよ。…だって、浜松市に来た初日から、自分勝手に独り言を言っていたから。今までの難事件も、いつもそうだったから分かります。問題なく事件は解決するって。だから、佐久間警部の元へ帰りましょう」
(佐久間警部。九条大河にここまで言わせるとは。…心底、羨ましい限りです)
~ 静岡市静岡区 検察庁 ~
「どうしたんですか?捜査一課長自ら、このような場所に?」
「内容が、内容だけにな。井上検事正はいるかい?」
「どうぞ、こちらへ。案内します」
板橋職員は、山ノ内を奥の検事正室に案内する。
「コンコン。…井上さん、山ノ内捜査一課長がお見えです」
(……山ノ内?)
「…ふう、一向に片付かんわ」
書類の山に埋もれた井上は、愚痴をこぼしながら、机の前にある応接テーブルに腰を掛ける。山ノ内も苦笑いしながら、挨拶を交わす。
「相変わらずですな。…もう少し、部下に任せれば宜しかろうに」
「性分なんだから、仕方なかろう。君が、単身で乗り込んでくる事件なんかあったか?」
コーヒーを入れる板橋が、口添えする。
「村松弁護士の事件じゃないですか?検察庁の職員たちの間でも、話題で持ちきりですから。何せ、現役最強の弁護士逮捕だ。誰が担当するか、庁内じゃ取り合いしてますよ」
(………)
「…そうだったな。でも、山ノ内くん。逮捕から、時間がかなり経過しているぞ。翌朝か翌々朝には送致されるのが慣例だ。それを時間一杯使うなど、捜査の鬼と呼ばれる山ノ内課長らしくない」
「その事なんですがね」
山ノ内は、数々の証拠品を応接テーブルに並べる。
「特例中の特例で、村松弁護士を潔白と断定し、送致を取り止めました」
(------!)
(------!)
「一体、どういう事だね?」
「それを、説明するために来ました。社会的にも、反響が大きいこの事件。時間を取らせますよ」
「板橋くん。村松弁護士の担当になる者を直ぐに連れてきなさい。…今直ぐだ」
「はい、畏まりました」
(…いつもと違うな。単身で動かなきゃならない程、事態が切迫しているのか?検察庁をも、巻き込む話かもしれんな)
~ 一時間が経過 ~
山ノ内は、事件逮捕より以前の第一殺人から、今日に至るまでの捜査内容と結果を説明した。当初は、静岡県警察本部のみで捜査した事、途中から警視庁が合流し、新事実が浮上した事、村松弁護士の第二殺人時の現場不在証明と認知の事、村松弁護士が地元で襲撃され、頭部に電子標識器具を埋め込まれた事、そして、送致間際の新証拠について包み隠さず、全てをである。
「…この事件、単純なひき逃げ死亡事件ではなかったという事か」
「はい。三件の殺人事件にまで発展した難事件となりました。ですが、警視庁の敏腕刑事の登場で、事件は解決するところまで来ています」
「警視庁の敏腕刑事?……それは、もしや佐久間警部かね?」
「ご存じでしたか?」
井上は、大声で笑う。
「佐久間警部といえば、検察庁内部でも有名な男だ。佐久間警部には、東京の検察庁職員が逮捕されているからね。現職の検察官が警視庁の一警部に逮捕される。本来あってはならん、あの事件は、瞬く間に全国に響き渡った。興味があって、佐久間警部の経歴と、当時の事件簿を取り寄せて、調べさせて貰った。………たまげたよ。どう見ても、将来の警視総監まで昇りつめる男じゃないか。そんな男が、幹部候補生ではなく、ノンキャリアを装い、最前線で刑事をしている。それだけでも収穫があった」
「そこまでご承知なら話は早い。この事件も、実は静岡県警察本部と警視庁間で、一触即発でした。村松弁護士は、佐久間警部の幼少時代からの親友だったんです」
担当である土屋も、思わず興味本位で引き込まれる。
「凄く複雑な人間関係ですね」
「そうだとも。単純に、静岡県警察本部所管で起きた殺人事件だから、静岡県警察本部主導で捜査すべきだった。だが村松弁護士は、事件発生前に危険予知が働いて、先程話した『記憶の男』について、万が一、自分が事件に巻き込まれた場合、警視庁に捜査して欲しいと依願書を出していた。これを受けて、大義名分を得た警視庁が、途中から事件に介入してこれたんだ」
「…三件の殺人事件。村松弁護士が全てに関係し、友人は警視庁の佐久間警部。佐久間警部は、村松弁護士を助ける為に、静岡県警察本部に反旗を翻したのですか?」
山ノ内は、クビを横に振る。
「いいや。反旗を翻すのではなく、静岡県警察本部の捜査方法を支持した。状況判断が優れた男だ。自分が同じ立場でも、同じように村松弁護士を逮捕したとね」
「男気がありますね、佐久間警部」
「それで、どうなった?」
井上も、先を聞きたがる。
「布施警視総監と安藤捜査一課長に、辞表を預けて、三週間の有給休暇を取得してきたよ。静岡県警察本部の懐に飛び込んできた。両組織の秩序を崩さない様に、組織力に頼らず、単身で地下に潜ってでも、村松弁護士を助けてみせる。同時に、真犯人を逮捕するとね」
これには、井上たちも驚きだ。
「いやあ、それにしても何と凄い男だ。結果が出せなきゃ、三週間で失職する。相当な自信と意地がなければ、実行出来ないだろう。小説に出てくる主人公のような男が、実在するとはね」
「正直、私も驚きました。私の前では、三週間掛かると言っていました。静岡県警察本部の熟練警部が逮捕したのであれば、四十八時間では解決出来ない。検察に身柄を移され、勾留請求されるだろうから、20日間が勝負だと」
(…村松弁護士は、見識が高い弁護士だ。当然、否認もするだろうし、検察庁も容易に起訴まで決定出来ないだろうと想定しての20日間だろう)
「…山ノ内くん。佐久間警部は、世論や各機関の手の内までも読むんだな」
(………?)
「と申されますと?」
「考えてみたまえ。これだけ世間を騒がせている敏腕弁護士だ。記者会見も観たが、送致されてから、直ぐに検察庁が起訴してみろ?世間は面白がって、検察庁に理由を求めただろう。当然、検察庁は、これを鑑みて慎重に捜査するから、ギリギリまで結論は出せない。佐久間警部は、マスコミや世間の風まで読んでいたのだろうよ」
(…やはり、ただ者ではない。検事正をも味方につけるとはね)
「お邪魔したのは、詫びだけではありません。折り入って、お願いもあります。村松弁護士の逮捕を取り消した事は、まだ国民には発表しません。村松弁護士は、送致後、身柄を検察庁へ移され、20日間勾留されている事にして頂きたいんです」
「それは、このパソコンと電子標識器具と言うことだね?」
「はい。佐久間警部の読みでは、勾留期限の最終日に発生する第四殺人こそが真犯人の狙いだと言っており、私もその読みを信じております。合同捜査本部は、必ずや事件を解決する事をお約束します」
井上は、冷め切ったコーヒーを飲み干す。
「検察庁としては、良いも悪いもないさ。送致されるべき容疑者がいないのだから。マスコミから聞かれても、知らん振りくらいは出来よう。なっ、土屋くん」
「はい。マスコミからの突き上げは受けましょうが、個人的にも、事件解決には賛成です。正しく、事実が解明されるのであれば、喜んで協力しましょう」
「…という事だ。これくらいしか、協力出来ないがね」
「ありがとうございます。では、今後の事はよしなに」
山ノ内は、深々と頭を下げ退室する。その様子を、井上はいつもとは違う目線で見送った。
(…あの山ノ内くんが、他所管の、それも格下の警部意見を採用して、検察庁に仁義を切りに動くとはな。…山ノ内くんも薄々感じているんだ。将来、警視総監に立つ男だという事を)
~ 同時刻、浜松市浜北区西美薗 ~
「やはり、警察は勘付いているな?」
「…うん。何か、途中で盗聴電波が聞こえにくかったけど、私の部屋に来たところをみると、怪しんではいるみたいね」
男は、受信機を軽く振ったり、叩いたりして音声を確認する。
「村松は、無事に送致されたんだな。今、静岡市の葵区ってことは静岡区検察庁内だ。それに、最後だけは何とか聞き取れた。これで捜査を打ち切るとな。やったじゃないか。これで、あと一人始末すれば、積年の恨みが晴らせて、ハッピーエンドだ」
(………)
「どうした?浮かない顔して」
「…単純に引っかかるだけよ。今まで、松本と中田を殺した時、警察の動きは、後手後手だった。何も捜査進展しなくって、こっちが警戒し過ぎて、馬鹿みたいって思っちゃった。でも、急に風向きが変わった。でなけりゃ、私の部屋には、絶対に到達出来ないもの。…きっと、何者かが介入したはず。さっき、女の声も聞こえた。その女が、切り札として投入された刑事かもしれないわ」
男は、一蹴する。
「考えすぎだって。今から張り切るだけ無駄だね。だってそうだろう?村松は逮捕されたし、俺等の足は付いていない。お前の部屋だってそうだ。何も出てきやしないし、もう駄目だって諦めてたじゃないか?所詮、警察の捜査力は、こんなもんなんだよ」
「…もし、これが偽情報だったら?」
「偽情報だって?」
「そう。これが偽情報で、実は私たちの所在だけを掴めていないだけ。私の背後に誰がいるのか、出生はどこなのか。まあ、そこは分かりやすく置いて来たんだけど。河合達彦経由で、私の居住まで辿り着いたのなら、最終目標が誰かは想定がついてしまうわ」
「絶対に、それはないね。だってさ、分かりやすく、駅を分散して看板にヒント出してやったけど、警察は、全然気が付かないじゃないか?そんな猿どもに、俺等を逮捕する事は絶対に出来ないね」
「…あんたが、そこまで言うなら別に良いけどさ」
「大丈夫だって、絶対に上手くいく。世間が、村松の起訴で騒ぐ合間に乗じて、メキシコに逃亡だ。メキシコで式を挙げるんだろう?もうパスポートも用意してあるしな。…それにしてもよお。野中の野郎、もう殺っちゃって良いんじゃない?」
女は、きっぱりと否定する。
「それだけは、絶対に駄目。私の殺人計画は、完全犯罪よ。だから、起訴日からは絶対にぶれない。このために、何年前から計画したと思ってるのよ?」
「…はいはい」
(もう少し。…本当にあともう少し。…母さん、お兄ちゃん。どうか、見守っていてね)




