浜松市浜北区幼児誘拐事件 1
~ 佐久間たちが看板の謎を解明している頃 浜松市東区笠井町 ~
「安波警部、あそこに見えるクリーニング店です」
「一旦、店の前を通過して様子を見るんだ。誰もいなければ、話掛けてみよう」
東名高速道路、浜松ICから県道65号線を天竜区方面へ三キロメートル程進むと、笠井町に入る。道幅も片側一車線で歩道もなく、左右の道路用地ギリギリに建てられた家屋が、圧迫感を醸し出し、より狭く感じさせる。寂れた商店街に、客は殆ど見かけない。地元の人間は、近所の商店では買い物をせず、浜北区の大型商業施設に行くため、どの店も閑古鳥が鳴いている。
笠井交番西交差点を右折し、県道374号線沿いに五十メートルほど進んだ住宅街の一角で営業しているクリーニング店もその一つだ。榎田たちは、店舗前を通過して、二百メートル先にある浜松東警察署笠井交番に駐車し、徒歩で向かった。
「まだ誰もいませんね。大きな欠伸をして、余程暇なんでしょうね」
(イメージとは違うな。随分と痩けて見えるが?)
店内で欠伸する男は、客商売をしているとは思えぬ程、髪はボサボサで無精ひげも目立つ。鬱病を発症した故なのか?安波が思い描いた風貌とはかけ離れている。
「話してみないとな、行くぞ」
「はい」
「ガララララ」
「…いらっしゃいませ」
愛想や覇気を全く感じさせない、心がこもっていない挨拶だ。繁盛しないはずだと瞬時で分かる。
「どうも。ここに川上敬吾さんがいると聞いて伺ったんですが?」
(………?)
「…あんた誰?どこかで会ったっけ?」
(やはり、この男だ)
安波と榎田は、静かに警察手帳を提示。手帳を見た川上敬吾は、少しだけ右眉を動かすが、それ以外の反応を見せない。
「一体何のご用で?クリーニングなら歓迎しますが…」
「最近、ニュースを見ているかい?」
「そんなもん、見てないね」
「村松弁護士。…当然知っているね?」
(………)
「ああ、知ってるよ。世話になった。それが何か?」
川上敬吾は、無表情で受け答えしながらも、安波の出方を伺っているようだ。榎田も、安波がどう聞き込みするのか背後から伺う。
「実は、昨日ひき逃げ事件で逮捕されたんだ。どう思う?」
(………?)
「人間なんだから、人をはねるし、殺しもするだろう。別に何も思わないよ」
「…そうか。実は、村松弁護士が逮捕される前、過去に弁護した関係者が三名死んでいる。それで、村松弁護士の過去に関係した人物を全員洗って、川上敬吾に辿り着いたという訳なんだ。他意はない、まずはそれだけ言いたくてな」
(………)
川上敬吾は、元々は一流企業に勤めていた人間である。ゆえに、空気を読むことに長けている。安波が自分に何を言いたいのか、即座に理解し、反論した。
「…他意はないか。……嘘だね。他意があるし、俺が怪しいと思ったから来たんだろう?はっきり言いなよ。何が知りたい?現場不在証明か?」
(安波警部、マズいですよ)
「心身が回復出来たようだね。反論するくらいでなきゃ、こっちも釈然としない」
(この刑事、わざと俺を怒らせたのか?)
「…話がよく見えないねえ。身体はご覧の通りだ、長い療養だったがな」
「何故、元の会社には戻らないのかね?疾病なら、幾らでも復帰は出来たはずだ」
川上敬吾は、冷ややかな目つきで失笑する。
「戻れるわけないだろう?鬱病だったとはいえ、俺は無差別に人を刺した。執行猶予付で保釈されたが、前科は消えない。あの企業が……いや、どこの会社だって前科者を雇うもんかよ?あんた、馬鹿じゃないの?失礼極まりないな」
川上敬吾の表情が、みるみる険しくなっていく。
「まあまあ、そんなに怒りなさんな。今日来た本当に理由は、君の過去、システムエンジニアだった頃の話を聞きたくてな。ある捜査で、電気の知識が必要となったんだが、君の教えを請いたくてね」
(俺に技術話を聞きに?)
安波は、ニコリと空気を変える。
その様子を理解したのか、川上敬吾は店内の椅子に腰掛け、煙草に火をつけた。
「刑事さんたちも吸うかい?」
「では、遠慮なく」
安波も煙草に火をつけると、カウンター外側の椅子に腰掛けた。榎田は背後で立ったままだ。
「刑事さんも、妙なところに目をつけるね?俺が担当した電気制御に興味があるのかい?」
「個人的に凄く興味がある。世界のヤマハだし、やっぱりバイクとかピアノとか、大企業の中枢で重要な部分を担当したんじゃないのかね?」
自分の仕事に関心を示す人間は、周囲にはいなかったらしく、少し機嫌が良くなったようだ。企業秘密だから、詳しくは話せないと前置きをしながらも、段々、饒舌になっていく。
「バイクやピアノは勿論、各機械の電気系統を制御する仕組みを構築していたよ。分かりやすく言うと、カーナビが車についているだろう?エンジンをかけると、モーターが回転して、バッテリーから電気が生まれる。その電気は動力に繋がり、各媒体へ電気を流す。各媒体が電力量をきちんと認識し、規格に沿った配分で流れるように、詳細に制御するための仕組みを作っている。これなら分かるだろう?」
安波も榎田も『うんうん』と頷く。
「安波警部。携帯のSIMみたいなもんですかね?」
「あはは。ちょっと似ているけど違うんだな」
「違うんですか?」
「SIMっていうのは、簡単に言うと、固有IDを認識させるために作られているだけ。SIM自体に機能を司る能力はないよ。自分が作っていた電子制御は、いわゆる電子規格を作る要の部分さ」
「それは凄いな。一体、どう保存するんだね?いまいち想像出来ない」
これを聞いた川上敬吾は、得意げに身を乗り出してきた。
「ちょっと待ってな。良いもの見せてやる」
嬉しそうに店の奥へと消えていく川上敬吾。
安波と榎田は、無言で言葉を交わす。
数分後、川上敬吾が何かを手に持って再び二人の前に戻ってきた。
「電子制御やマイクロ波は、この電子標識器具に格納される。平たく言うと、USBメモリと一緒だよ。プログラミングされた何万件分もの情報と指示系統が、記憶媒体としてこの中に保存されると、媒体機械でそれを読み取ることで、作動する仕掛けだ」
「…こんなに小さいのか。凄い技術だ、今からでも遅くない。もう一度人生をやり直さないか?なんなら、警察が掛け合ってやっても良い。あまりにも、勿体ないじゃないか」
(------!)
この言葉が余程嬉しかったのか、川上敬吾は本音を打ち明ける。
「本当の事言うとさ、俺まだ諦めてないんだよ。いつか、自分を解雇にした企業を絶対見返してやるって野心は残ってる。刑事さんの気持ち、正直嬉しいよ。…だけどさ、やり直すんなら、起業しようって考えてるんだ。だから、クリーニング店はそれまでのバイトさ。…驚いただろう?」
「前向きならそれで良い、きっと成功するよ。…最後に、電子標識器具の事をもう少し知りたいんだが?」
話を切り出しながら、川上敬吾の様子を冷静に分析する。
「電子標識器具ってのは、爆発させたり出来るのかね?この間、映画で観たんだが、どうも不思議でね。実際、そんな事出来るもんなのかね?ネット検索しても、明確な答えが出てこなくて、モヤモヤしてるんだよ」
「爆発するなんて、あり得ないよ。僅か0コンマ何ミリの世界に、爆薬か火薬を入れることになるし、そもそも微量では発火しないよ。まあ、特殊な成分で化学反応させれば、出来なくはないかもしれないが、誰もそんな事しないんじゃないかな。発想は面白いが、今の技術じゃ出来ないと思うし、出来るとしても、そんな技術を持つ人間は、まず日本から飛び出すさ。アメリカとかロシアとか、海外の軍事施設の御用達になれるんじゃないかな」
「なるほどね。やっぱり映画のあれは作り話か。それともう一つ気になったんだが、その電子標識器具を人体の頭部に入れることは出来るのかね?これも映画で観たんだが?」
「人に?普通に考えたらおかしいでしょ?それこそ、本当に映画の作り話だね」
「そうだよな」
「でも、手術するなら可能じゃないかな」
「先程の電子制御話なんだがね、他にどんな用途で利用されるんだい?」
「種別は違うけど、位置情報のためにGPSを取り込んだ技術かなあ」
(…位置情報か。もし、犯人が村松弁護士の行動を把握するために入れたなら、納得出来る)
即答する川上敬吾に、『怪しい素振りはなし』と安波は判断し、聞き込みを切り上げる事にした。
「時間取らせたね、お陰でスッキリしたよ。今、世間では村松弁護士の件で大騒ぎしているし、殺人事件が多発しているのも事実だ。くれぐれも用心してくれよ。起業したら絶対応援するから、教えてくれ」
「ああ、刑事さんも老体だ。健康には気をつけてくれよ」
「肝に銘じるよ、ありがとう。じゃあ、またな」
安波たちは、クリーニング店を後にした。
「完全に潔白で安心しました。珍しく勘が外れましたね?」
「良い方に勘が外れるは、吉だよ。これで、犯人はさらに絞られたが、安心していられないぞ。まだ、偽村松弁護士と逃走車両の謎が残っている。どんなに上手く偽装しても、壊れた紺色のセダンは一台しかない。一刻も早く、事故を起こした車両を探さないとな」
「でも、どこに雲隠れしたんでしょうか?防犯カメラにはリレーの途中で見失いましたし」
「相当、土地感に強い人間だ。カメラ位置を把握して死角を利用したか、別の車でレッカー移動でもしたのかもしれない。小林駅周辺のレッカー車取扱店があれば、聞き込んでみるか」
佐久間が予想したとおり、川上敬吾は潔白だった。
だが、この捜査があってこそ、佐久間の追い込みが確定的になっていくのである。それは、愛知県豊橋市のコンビニを聞き込む鈴木警部も同様であり、無駄だと思っても行う地道な作業が、犯人を結果的に追い詰めていく裏付けとなっていくのだ。
~ 浜松市北区三ヶ日町 ~
佐久間たちは、天竜区での聞き込みをした足で、そのまま浜松市北区三ヶ日町に入っている。平成十三年七月に発生した浜松市浜北区幼児誘拐事件の元原告、河合達彦を探すためである。
河合達彦は、幼児を誘拐した犯人として逮捕された野中英二を訴えたが、多額の借金と不倫事実をマスコミに調べられ、大きく報道された。当時、『狂言誘拐や自演誘拐』などと吊し上げられ、静岡県警察本部も一時身柄を拘束して任意聴取を行ったが、野中英二の浮上により、身柄を釈放された。
村松弁護士の登場で、裁判に負け、息子も失い、多額の借金と不倫事実が妻を襲う。妻は完全に心が折れてしまい、息子が事故に遭った場所で、後を追うように天に帰ったのだった。
浜北区で建築士として働いていた河合達彦は、周囲から逃げるように全てを消し去り、ここ三ヶ日町に移り住んだのである。
「奥浜名湖マリーナを過ぎた。県道310号線と浜名湖レイクサイドウェイが交差してる近くに、遊覧船乗り場があるから、その対面に店があるはずだ」
「ちょっと、警部さん。行くのは構わないけれど、一体、今度はどうするつもり?また先刻みたく接するのは危険よ」
(………)
「大丈夫。今日は下見だし、河合達彦がどんな人物かを観察しようと思ってね。話せそうな雰囲気なら出方を伺い、無理そうなら明日に賭けるさ。刑事ではなく、不倫旅行中のカップルという設定にするから、上手く合わせてくれよ」
(……)
「よく分からないけれど、我慢するわ」
~ 釣り船屋 幕之内 ~
「いらっしゃいませ」
六十歳くらいの店員が、釣り竿を棚に片付けている。他には若い店員と、レジに店長らしき男がいるだけのようだ。
(あの男が河合達彦だな?…話せそうだ)
「あの、すみません。ちょっと宜しいですか?」
「はい、何かお探しですか?」
「舘山寺温泉の方から、グルッと回ってここまで来たのですが、せっかくだから釣りをしたいと思いまして。何かお勧めの魚はありますか?」
「残念ですが、今時期じゃないですよ。九月になれば、そこの浜名湖でハゼ釣りが楽しめますがね」
「そうですか」
男に詰め寄り、小声で囁く。
「実は、不倫旅行中なんです。彼女に良いところを見せたくてね。だが、釣りが出来ないとなると、あとは観光くらしかない。遊覧船に乗ったら、もう行く場所がなくなります。どこかお勧めのスポットはありませんか?」
(何か変な客に捕まっちゃったな)
「少々お待ちください」
困り果てた男は、レジの店長らしき男に相談すると、しばらくして観光パンフレットを持ってきた。
「この場所からなら、竜ヶ岩洞はどうです?引佐町というところですが、割と近いし。総延長一キロメートルを越える、東海地方最大級の観光鍾乳洞で有名ですよ。中は涼しいし、お勧めです。花が好きなら、フラワーパークもお勧めしますよ。地元の人間なら、誰もが行った事がある場所です」
「それは良いですね。実は、多額の借金がありましてね。妻に内緒で、彼女に旅行費用を立替えて貰ったばかりなんで、必死なんです」
「はあ、そうなんですか」
(何なんだ、この人。不倫って、堂々と言うなよ)
おもむろに、佐久間がレジの方へ歩いて行く。
「店長さんですか?」
「はい、そうですが」
「いやあ、助かりました。お礼に茶でも振る舞いたい。店員を三十分ほどお借り出来ませんか?」
「いや、それは。勤務中ですし、観光スポットを勧めただけですから」
「何を仰います。『袖振り合うも他生の縁』です。店員さんの勧めが無かったら、この旅行は頓挫し、私は彼女に嫌われたかもしれない。人助けだと思って、お礼させてください」
(何だか、面倒な人だな)
佐久間の押しに、店長も店員も困り果てる。様子見する川上真澄もである。
「…仕方無い。河合くん、ちょっとだけ付き合ってきなさい。お客さん、ご好意は有り難く受けますが、本当に三十分で彼を戻してくださいね」
「分かりました」
「店を出て、表の通りを右に行けば、白い屋根の喫茶店がありますから」
「それでは、河合さん。ご馳走させてください」
~ 喫茶店 ~
コーヒーを注文した佐久間たちは雑談をしている。
「強引に引っ張ってきました。申し訳ありません」
「…いえ。でも、本当にお礼など。当たり前の事をしただけですから」
「実は、大学で心理学を教えてましてね。彼女は、私の教え子なんです」
(いやいやいや、警部。それは、無理があるでしょう)
「はあ、そうなんですか」
(何か、苦手なタイプかも)
「不倫旅行のお手伝いをしてくれたお礼をしたいだけなんです。河合さんを見ると、他人とは思えないんですよ」
(何故、自分の名字を知っている?…ああ、そうか。店長が言ってたっけ)
佐久間が、前のめりに顔を近づけ囁いた。
「河合さん、昔不倫されていましたね?」
(------!)
「その様子から、ご家族と別れて移り住んでいるとお見受けします」
(------!)
「図星のようですね」
「何故、そこまで分かるんです?あなたとは初対面ですよね?…どこかでお会いしたかなあ?」
「心理学を長くやっていると、色々と瞬間的に分かってしまう事が多い。それに、あなたは私にパンフレットを勧める時、『地元の人間なら、誰もが行った事がある』と言った。これは他所からこの場所に来た人間が、あたかも地元を強調して言う時に口にする台詞です。あなたが、初めからこの土地に住む人間なら、『地元の人間はもう行きませんが』と少し飽き気味な回答をするものです」
(…何だか凄いな、この人)
「今、『何だか凄いな、この男』と考えてませんか?」
(------!)
河合は、思わず飲みかけた水を吹き出してしまった。
「いっ、嫌だなあ。何で心まで読めるんですか?エスパーですか?」
「ふふふ、お尋ねは愚です。冗談はさておき、私が河合さんと話がしてみたいと思った事は事実ですよ。笑顔で接客されているが、どこか寂しげだ。趣味でしてね、心理学を長くやっているせいもありますが、何となく悩みを聞きたくなるんです。この土地は、もう長いんですか?」
この質問に、ふと何かを思い出したのだろう。河合は、少しだけ自分の事を話し始める。
「…かれこれ、十七年になりますか」
浜名湖を見つめて回想する中、コーヒーが運ばれてくる。
「何かの縁で、この地を訪れましたが、ここの風土は最高です。浜名湖の優しい汐風、遥か先に見える陸地。そしてゆっくりと流れる湿った空気。…全てが心地良いですね」
「…ここ三ヶ日町は、親父との思い出の地なんです。幼少時代、よく夏になると親父に連れられ、この先の岬で潮干狩りしました。浜名湖は、淡水湖と思われがちですが、実は塩水なんです。当時はビーチサンダルなんて洒落たものはなかったので、素足で潜りました。水はいつも茶色く濁っていて、透明度は極端に低い。浅瀬で潮干狩りしていると、いつの間にか奥まで行ってしまうんです。奥には、牡蠣の養殖場所があって、避けるように泳ぐんですが、養殖の牡蠣と媒体の木で手足を切ってしまうんです。足下もそうです。素足だから、牡蠣や貝の残骸で、足の裏が傷だらけになるんです。日焼け止めなんかしないで、終日浜名湖に浸かっているものだから、夜は正に地獄でした。真っ赤に全身日焼けして、熱を持つ。お袋が、お風呂を水で薄めてくれるんですが、切り傷に入った塩分が染みて染みて。止めればいいのに、翌年には、その痛みを忘れて。…いや、痛みは覚えているのだけれど、学習しているから、今度は大丈夫だろうと臨み、結果的にまた同じ過ちを繰り返し、のたうち回りながら、深夜に何とか眠りにつく。…そんな思い出があるからかもしれませんね」
(…良い話じゃない)
「私も似たような経験があります。幼少の頃から『俺が死んだら、海と渓流に骨を流してくれ』と親父から言われていました。親父が死んで、依頼を果たすべく、数十年振りに思い出の地を訪ねたんです。昔と風景は大分変わっていましたが、何となく身体が覚えてるんでしょうね。迷いはしましたが、親父と約束した場所に辿り着いたんです。すると、一瞬で記憶が瞬間的画面転換しました。川のせせらぎ、風の声、なびく杉林、肌にかかる冷風と苔の匂い。頼み込んで渓流釣りに連れていって貰いましたが、まだ子供ですから、三十分もしないうちに、飽きてしまう。親父に早く帰りたいと言って、殴られたものです」
「記憶とは、実に良くも悪くもありますね。普段、何も感じないのに、月日が美しく色づけてくれる。逆に、悲しい思いであっても鮮明です」
「失礼ですが、ご家族は」
「…妻と息子はもういません。娘は一人おりますが」
「なら良かったじゃないですか?完全にお一人ではない」
河合は、静かにクビを横に振る。
「いないようなものです。昔から反りが合いません。私を見限って、今は浜北区という場所に住んでいます」
「浜北区というと、浜松駅があるところですね」
「ええ。幸い、定職には就いているようなので、ホッとしていますが」
「そうですか、それなら安心だ。子は気づけば、どんどん親の知らない方へ歩いて行くものです。でも、いつか親元に必ず帰ってきますよ」
「…それなら良いんですが」
河合は、遠い目で深いため息をついた。他にも悩みがある様子だ。
「何か心配事でも?」
「……心配事というか、娘が昔話をほじくり返そうとしてましてね。私にとって、それは死ぬことよりも辛い思い出をです」
(…警部?)
(…ああ)
「あまり詮索は良くありませんが、それを防ぐことは出来なかったのですか?それか、まだ間に合うとか」
河合は、またもクビを横に振った。
「初対面の方に、とても話せる内容ではありません」
「あの、この人は結構人脈広いんです。もし、その心配事が事件に関係する事なら、優秀な警部さんに取り合う事は出来ますが」
「本当ですか!」
二人は黙って頷いた。
「……もし、それが本当ならまだ間に合う。娘を止めてください」
「警部さんに取り合いましょう。かいつまんで話してくれても結構ですよ、私もお世話になった事があるし、絶対に助けてくれるはずですから」
河合は、一度周囲を確認してから、深々と頭を下げる。
「…昔、私には七歳の可愛い息子がおりました。妻とは関係が冷え切ってましたが、目に入れても痛く無いほど、可愛い自慢の息子です。ある日誘拐事件に巻き込まれ、息子は事故で死に、妻も息子を失ったショックと私の不徳に悩み、息子が死んだ場所で自殺しました。人生をやり直すつもりで、娘を連れて、この地で暮らし始めたんですが、娘が高校生の頃、自分の出生をどこで調べたのか、急に無口になりまして。…ある日、娘が泣きながら訴えてきました。『父さんのした事は間違っている。何故、犯人が分かっているのに何もしないんだ。裁判なら何度でもやれば良いじゃない。このままじゃ、死んだ兄さんも母さんも成仏できやしない』と。今でも耳から離れません」
「…そうだったんですか。娘さんは、判決に納得出来なかったんですね」
「はい。新証拠が出ない以上、判決は覆らないと教えても、娘なりに必死に勉強しました。弁護士になって、『いつの日か、自分が犯人を死刑台に送る』と言って、家を出たんです」
「では、娘さんは弁護士に?」
「いいえ。弁護士になるための学校には行きましたが。よりによってあそこに…」
(………?)
「よりによって?…どういう事です?」
「あの子はどうやったか知りませんが、煮え湯を飲まされた弁護士事務所で、今働いてるんです」
(------!)
(------!)
「もう一度、伺います。河合さんの娘さんは、弁護士事務所に勤務されていて、簡潔に言うと、仇の弁護士事務所にいる。そういう事でしょうか?」
河合は涙を堪えながら、頷いた。
「失礼ですが、何という弁護士事務所かご存じですか?」
「…村松泰成弁護士事務所です」
(------!)
(------!)
(…繋がった。……そういう事か)
しばらくの間、その場から雑踏が消えた。
(……警部)
(……そうだね)
「…河合達彦さん。もしかして、彼女の名前は『伊藤良子』さんではありませんか?」
(------!)
「何故、娘の名前を?しかも旧姓を!」
佐久間は、深々と頭を下げつつ、名刺を河合に手渡す。
(警視庁捜査一課、佐久間)
(------!)
驚きのあまり、河合はその場で立ち上がった。
「そっ、そんな。…あっ、あんた。俺を欺したのか?」
「事情を探るため、職を伏して話を聞きました。その点は、謝罪します」
ワナワナと震える河合に、川上真澄が話を切り出した。
「先程の話ですけれど、あなたを救える警部ってのは、本当よ。救われた本人が言うのだから、間違いないわ。欺したお詫びに、私の正体も教えてあげる。耳をかして」
「ボソボソボソボソ」
(------!)
「知ってる?」
河合は、驚きつつも、何度も強く頷く。
「知ってるどころじゃない。九条大河の本なら、殆ど持ってる。でも、九条大河は死んだって。品川プリンスホテルの記者会見を見ていたぞ?」
「あまり大きな声では言えないけれど、あの会見で話題となった小説を覚えている?」
「紅の挽歌だろう?勿論、知ってるさ。未完だし、お蔵入りで読めなかったが」
「あの小説はね、実際に殺人事件に発展した。本当なら、私は共犯者になってもおかしくなかった。でも、ここにいる警部のお陰で九死に一生を得たわ。警部とはね、それからの付き合いなの。だから、信用出来るってのは本当だよ」
(………)
河合は、席に座ると携帯電話を握りしめた。
「…店長、申し訳ありません。何か調子が悪くなってしまって、このまま、早退させて頂きます。…それには及びません。明日は出勤出来ますから。…ええ、はい。失礼します」
今度は、河合が店員にコーヒーを注文する。佐久間たちの分もである。
「…佐久間警部、それに九条大河先生。お二人にお願いがあります。…何とか。何とか、娘を止めてください」
佐久間たちは、河合の手を強く握り、大きく頷いた。
「では、話を整理していきましょう。私からも、経緯を河合さんに伝えなければなりません」
こうして、真相を解明すべく事態が一気に動き出す。




