四面楚歌 2
~ 浜松市浜北区本沢合 ~
平成十五年五月に発生した浜松市天竜区衣類強奪事件で逆転無罪となった加藤昭博は、天竜区のうなぎ屋を辞め、ここ浜北区本沢合に居住を移している。無罪となったものの、周囲からのレッテルは剥がれず、客商売に支障をきたす恐れから、体よく店を追い出されたのだった。元々、中卒で見習いとして入った加藤は、誰よりも早く清掃や雑用をする半人前。そのため、店からは幼魚の『シンコ』と呼ばれ、高卒の先輩たちからはいつも苛められていた。十五歳からこの店に勤めて七年。いつまで経ってもうだつが上がらず、店を追われる頃には二十二歳。退職金はおろか労いの言葉すらなかった。
どんなに嫌な思いをしても、静岡県から離れる気は毛頭ない。天竜の情緒豊かな、深く吸い込まれそうな山林。その深緑が、太陽光が反射し、エメラルド色に映える船明ダムや佐久間ダム。そして何よりも雄大な天竜川と上流特有のピリッとした冷気漂う沢の雰囲気、岩苔の匂いが大好きなのだ。だが、天竜区に居場所を無くした加藤は、仕方無く隣接する浜北区に南下し、ダメ元で本沢合にある『おもちゃの金本』を訪ね、何とか契約社員として引っかかった。職種は違うものの、接客が好きな加藤は真面目に勤務し、正社員に昇格出来たのは、平成二十五年。天竜区を追い出され、十回目の師走に奔走している時だった。不況で従業員が店を見限る中、踏みとどまった加藤に白羽の矢が刺さったのである。
加藤は、いわゆる二次元と呼ばれるアニメ全般が大好きだ。
東京の秋葉原ほどではないが、この店にはコスプレ用品や萌え系アニメ商品が豊富に備え付けられている。加藤がこの店を訪ねた頃、場末の埃臭い倉庫感が強く、どちらかというと一世代前に流行ったガンダムや戦車のプラモデルやジグソーパズル、キン肉マン消しゴム、電車模型が主力商品であった。この店のコンセプトは、「平成でも昭和の商品が揃う店」であり、中でも一階のメインディスプレイには四畳ほどの大きさがあり、鉄道模型が目玉として所狭しと走っており、昭和好きのコアなファンで賑わっていたが、客足は今ひとつ伸びなかった。
加藤は休日になると、二次元フィギュアを探しに東京都台東区の秋葉原をよく訪れ、希望の品を手に入れていた。インターネットがまだそこまで普及しない当時、雑誌を頼りに何時間も掛けて足を運んだのだ。たまたま休憩中、フィギュアを見た店長の眼鏡にかない、二平方メートルほどのスペースに特設コーナーを置くことが許された。平日の勤務時間、会社負担で東京都に品物を仕入れに行けるようになった加藤は、魚が水を得るように得意分野の知識と仕入れの見極め能力を研鑽し、正社員から実に五年の月日を掛け、店内を自分色に染めていくのである。
そんな充実に満ちたある日。
「シンコ?」
(------!)
聞き覚えのある声に、おそるおそる振り返ると、一番会いたくない岡田が彼女連れで立っている。無視をしたいが、店長も側にいるし、何よりも客を蔑ろには出来ない。
「シンコ?人違いではありませんか?」
岡田は偉そうに、加藤の肩に手を回す。
「加藤、うなぎ屋を辞めてどこに消えたのかって思ったら、こんな店にいたのか?おい、千尋。こいつ、加藤って言ってさ、昔さあ、一緒に働いてたんだよ。覚えてないかな?ほら、天竜の事件…」
瞬間的に、岡田の口が加藤の手によって塞がれる。
(------!)
「お客さん、何か入り用でしょうか?」
(かっ、加藤。てめえ)
「おっ、おい加藤くん。何をやって…」
「店長。実はこいつ級友でして。なあ、岡田。ちょっと外で話そうか?」
昔の加藤の雰囲気ではない。力も強く、藻搔こうとしても否応なしに店外へ連れ出される。
「岡田さん。あんた、一体何を言うつもりなんだい?」
「加藤。お前いつから先輩にそんな態度をつくようになったんだ?」
(………)
「まあ、大目に見てやる。その代わり何か安くしろよ、口止め料だ。あの事件の事を周知されたくなかったら、金作るか店の商品をよこせ。そうしたら、店長に黙っていてやる」
「何を言っているのですか?僕は逆転無罪で潔白の身だ。被告人でもないし犯罪者でもない。逆に名誉毀損で岡田とうなぎ屋を訴えましょうか?」
彼女の前で気張りたい岡田も負けてられない。
「じゃあ聞くが、なんで解雇になった?加藤が強がるなら、そのまま店に残りゃ良かったじゃないか?あのなあ千尋。さっきの続きなんだけどよ、この野郎は、昔天竜でさあ、女の下着を無理矢理はぎ取って、現行犯逮捕されたんだぜ?キモいよなあ、下着強奪事件だっけ?」
(------!)
それを聞いた千尋も、気味悪いと感じたのか、無意識に後ずさりする。
「マジ!超キモいんですけど」
蔑む二人を前にして、加藤の心は我慢の限界を迎えようとしている。
もう一言、何か言われたら殴ってしまいそうだ。だが、そんな様子を察した岡田は意地悪く、加藤の小耳でささやいた。
「…明日までに十万円作って来いや。そうしたら、千尋と一発やらせてやる」
(------!)
「別に集る訳じゃないし、仕事の話だ。悪い話じゃないだろう?俺も儲けるし、女っ気のない加藤も良い思いが出来るんだ」
「……分かった。今夜、二十一時。西鹿島駅からバスに乗って船明ダムに行く。そこで待っててくれないか?…金は何とか都合付ける、約束忘れるなよ」
岡田はにんまりと微笑むと、千尋の手を取り店を出ていった。その様子を店内から伺っていた店長が、駆け寄ってくる。
「大丈夫だな?客と揉めたら商売にならない。何も問題ないよな?」
「…大丈夫です。店長、すみませんが今日は少し早上がりさせてください。何だか気分が悪いんです」
「ああ、良いとも。明日からまた元気に来るんだよ」
~ 同日、十九時三十分 ~
「村松弁護士、二番にお電話です。加藤昭博って方からです。約束無いようですが、不在だと言ってお断りしましょうか?」
(加藤?……加藤昭博だって?)
「構わないよ。丁度、用が済んだところだ。直ぐに回してくれ」
「は---い。じゃ、繋げますね」
村松泰成は周囲に気取られないよう、受話器を取った。
「…村松ですが」
「ご無沙汰しています、お元気でしたか?」
やはり、加藤昭博だ。
「元気だよ、久しぶりだね。今、どこで何をしてるんだ?」
加藤昭博も村松泰成にとって『記憶に出てくる』人間の一人である。今年に入ってから、記憶の人間は自分の願いとは裏腹に次々と死んでいく。『こいつも、もしかして』と勘ぐってしまう。
「…衣類強奪事件は、助けてくれて本当にありがとうございました。…つい出来心でやってしまった自分が村松弁護士に会っていなかったら、人生終わってました」
(様子が少し変だな)
「感謝する必要なんかないぞ。あれは加藤が不可抗力だったからだ。村松弁護士事務所は、少しだけお手伝いした、だから胸を張って良いのだよ」
(………)
受話器越しの沈黙が妙だ。
「もしもし、加藤くん?」
「…また、裁判引き受けてくれますか?」
(------!)
「裁判って、何を馬鹿な事を言ってい…」
村松泰成の電話を、周囲の従業員たちは心配そうに聞いている。それを感じ取ると椅子を回転させ、全員に対して背を向けると、少しだけ声の音量を落とし会話を続けた。
「もしもし、加藤くん。何を考えているか知らんが、まだ間に合うなら馬鹿な真似はよせ。取り急ぎ事情を聞くから。…今どこにいるんだ?」
「……西鹿島駅です。…村松弁護士にしか言えないんですが、昔の同僚が店にやって来まして、脅されたんです。岡田に、過去の事件を周囲に話されたら、また居場所が無くなってしまう。…二十一時に船明ダムで接触するので、殺ってやろうと思ってます」
(------!)
「止めなさい!…そんな所行っちゃ駄目だ。逆に殺られたらどうするんだ?…良いか、落ち着け。まず話を聞いてやる。それでも納得しなければ、船明ダムだろうが佐久間ダムだろうが好きに殺し合えばいい」
(………)
「言うこと聞けんのなら、弁護は出来ないぞ」
「……分かりました」
(良し、思いとどまった)
「…良い子だ。それならば二十一時に小林駅で落ち合おう。西鹿島駅と言ったね、電車か?」
「いえ、自分の車にしました」
「じゃあ、車は自分の家に置いてきなさい。俺が車を出す、紺のセダンだ。車番は浜松 400 む1234。小林駅だぞ、小松駅と間違うなよ」
「…分かりました。では、また」
電話が切れる。
村松泰成の会話を聞いていた従業員たちは、興味津々で駆け寄ってくる。
「村松弁護士。加藤昭博って方、昔弁護した人ですか?」
「履歴見てみようかしら?」
「殺し合うって…」
「事件の臭いがします」
(やれやれ、困った連中だ)
「みんな、今聞いた会話は忘れるように。事件じゃないんだ、他言無用だぞ。…良いね?」
全員が黙って頷く。
(…よりによって、あの大人しかった加藤が。厄介な事になったぞ。佐久間に連絡しておくか?…だが、まだ事件にもなっていないし、何よりも過去の事件をほじくり返されても…な)
「村松弁護士、社用車を使うのなら燃料入っていません。ちょっと行って、給油して来ましょうか?」
「良子ちゃん気が利くね。じゃあ、頼めるかな。みんなには話しておくが、今夜相談に乗る加藤昭博は、何か事件を起こそうとしている。村松弁護士事務所としては、何としても未然に食い止めたい。明日、ひょっとしたら休むかもしれないが留守番をよろしく」
「了解です」
「お気を付けて」
「張り切りすぎて、事故らないようにしてください」
~ 二十一時、小林駅 ~
村松泰成は、運転席の窓から右手をダランと出し、車両ドアの腹を「トン…トン…トン」と軽く指でタップしている。
突然の加藤昭博からの電話に戸惑いながらも、一度は人生を助けた男である。二度と犯罪に手を汚させたくない。今、改心させれば『記憶に出てくる人間』であっても、殺害される事はない。だが、今夜行動を抑制しなければ船明ダムに行き、万が一にも返り討ちに遭えば、最悪の事態は避けられない。そう思うと、居ても立ってもいられないのだ。
佐久間に相談をしたあの日。
不測の事態には、信頼を置ける警視庁に捜査を頼むと伝えてある。
だが、実際には自分ではなく自分以外の者が死んでいく。佐久間が言う『二重人格者』が自分ではないだろうか?と考えなくもなかった。正直、自分が於呂神社で襲われた時、死の恐怖とは別の感情、不謹慎であるが、ある種の『自分は被害者だ』という安堵感が全身を支配するのが分かった。
自分は絶対に犯人ではない。
佐久間や静岡県警察本部も、あの現場不在証明を立証する事で、自分が潔白だと認知したであろう。普段からの品行方正なればこそ、疑われるのは正直心外であり、自分こそが正義なのだ。
(…そんな事はどうでも良いか。それにしても、一向に来ないじゃないか)
約束の待ち合わせ時刻から、もう三十分超過している。各駅停車の赤電からは、誰一人小林駅で降車しない。到着時は気が張っていたが、今ではボーっと気が抜けている自分がいるのが分かる。
(…またしても、人影なしか)
踏切を通過する赤電を見ながら、急に我に返った。
(もしかして、船明ダムに行ったんじゃ!)
加藤昭博の性格を思い出し、村松泰成は勢いよくアクセルを踏み、小林駅から離れる。
(加藤は、猪突猛進な面があった。普段は大人しいが、こうと決めたら一気に行動する。すっかり忘れていた)
(間に合うか?)
信号を無視し、秋葉街道を北へ北へと進む。
国道152号の鹿島橋(通称:赤橋)を通過し、秋葉トンネルを爆進する。普段なら、決まって隣の歩行者専用の隧道入口が視界に入り、小学校の同級生たちと歩いた景色を懐かしむが、今回だけは違う。
隧道を瞬間でも見ていたら、すれ違う加藤昭博を見つけただろう。だが、運命はここで二人をすれ違いさせるのである。
(双竜橋交差点まで来たぞ!…二俣川を過ぎれば、あと十分だ。…何とか間に合ってくれ)
船明の二本杉交差点手前を左折し、真っ暗な駐車場に入った。
船明ダムに行くには、多機能トイレと船明諏訪神社の前を通過しなければならない。駐車場を見渡すが、一台だけしか駐車していない。
(あの車は加藤の車か?…それとも加藤の相手か?)
ここで待つことも考えたが、時間は定刻をかなり過ぎている。もし加藤が返り討ちにあっていた場合、人命救助しなければならない。加藤の身を案じた村松泰成は、意を決して、念のために用意した懐中電灯を頼りに、暗闇の船明ダム橋桁を目指した。
船明運動公園の通路から、船明ダムの橋桁に向かって近道した時。
(------!)
(………)
(……遅かった)
桁下二十メートル程の護岸部分に、人間の下半身らしきものが横たわって見える。ここからではテトラポットが視界の邪魔をして、加藤なのか加藤の相手なのか目視確認が出来ない。
(助けに行くべきか?)
だが、この暗闇である。足腰が弱くなってきている自分が、傾斜がきつい坂を無事に下りられるのか?しかも、下りれば間違いなく死体の第一発見者となり、また要らぬ容疑を掛けられるかもしれない。
正に、今する選択が、今後の人生を左右するだろう。
(行くか、引くか。助けるか、助けないか。……今の状況では)
身体の全てが、動く事を拒否している。
(……ダメだ)
明るい未来を見いだせない。村松泰成は、家族の顔が浮かび、引き返す道を選んだ。
(…加藤だったらすまん、どうか悪く思わんでくれ。これ以上、家族を裏切れないし、迷惑を掛けられない。でも、仇は絶対に取ってやるからな。…加藤の相手でもすまない。お前さんを見殺す俺をどうか恨まんでくれ)
周囲に誰もいないとは思うが、監視カメラがあるかもしれない。合掌しようと思ったが、警戒感から、心の中で『…南無阿弥陀仏』と唱える村松泰成であった。
~ 同時刻、小林駅 ~
「村松弁護士、もう帰っちゃったかな」
村松泰成の忠告を無視し、岡田を真っ先に始末した加藤は、一度本沢合東にあるアパートに車を置き、徒歩で小林駅に向かっていた。岡田に抵抗され、腕を負傷させられたが、自分は何とか生きている。きちんと経緯を説明し、自分の弁護を頼んでから最寄りの交番に出頭しようと考えていた。恐喝による正当防衛であれば、罪は軽いはずだ。忍ばせた録音機で岡田の恐喝音声は録音したし、会話で誘導して先に手も出させた。安易と思われても構わない、自分の手で人生を守ったのだ。
(村松弁護士、怒るだろうな。…でも男は舐められたら終わりなんだ)
短い期間だったが、浜北区での生活は第二の人生としては満足出来た。小さな玩具店だったが、趣味と実益も兼ねられたし、正社員にもなれた。出所したら、誰も自分を知らない街で、今までの経験を活かして商売が出来るかもしれない。…結婚していないのは残念だが。
(高校にも行ってみたかったな。…出所出来たら、あの浜名高校みたいな学校を目指したいな)
左手の調整池越しに、広大な野球グラウンドと校舎が見える。加藤は徒歩でこの道を通る度、時折、風に乗って聞こえる黄色い声と校舎に、自身の想像を重ねて憧れていた。
(校舎まで、どのくらい距離があるのだろう?…まるで人生の距離みたいだ)
妙に、見る景色が美しいと思ってしまう。
(出頭したら、しばらくは娑婆の空気は吸えないだろう)
小林駅までの道を、この景色を、しっかり記憶しようと立ち止まった。
左胸にある煙草を取りだし、火をつける。
(…丁度、最後の一本か)
この刹那全てが、感慨深い。
煙草の味と煙を肺の最奥まで染みこませながら、一歩、また一歩と小林駅に向かう。
「ブ---ン」
前方から車両のヘッドライトが近づいてくる。
野球グラウンドの照明灯が煌々と紺色の車を照らす。車種もナンバーも村松弁護士が言っていた通りだ。
(村松弁護士、やっぱり来てくれたんだ。きっと待ち合わせ場所にいなかったから、探しに来たんだろうな)
加藤は、最後の一口を吸い終えると、右手を大きく振って合図する。
「お---い!」
紺色の車は減速せず、こちらに突っ込んでくる。
(村松弁護士、やっぱり怒ってるんだ。ギリギリで止めようなんて、硬派な村松弁護士らしいな。…であれば)
加藤も怯まない。
道路の真ん中で、車両を正面から受け入れる。きっと、三メートルくらい前で急ブレーキを掛けるだろう。そして、以前のように本気で自分を怒ってくれる。
(最後の最後まで面白い趣向だ、人生も中々捨てたもんじゃないな)
そろそろ、村松弁護士がブレーキを掛けるはずだ。数分後には、こっぴどく叱られるだろうが、精一杯の笑顔で謝ろう。
ほくそ笑む村松弁護士の表情が何となくだが読み取れる。どうやら自分と考えが一緒のようだ。表情ににつられて、笑みをこぼす。この空間と時間を共有した感覚だ。
(さあ、止まるぞ。…サン、ニイ、イチ)
(------!)
「………ドン」
目の前が、大きく弾む。
三メートルほど高く舞い上がったかと思うと、今度は調整池の底面へと視界が移動していく。
(………)
加藤が、この世で最後に見た光景は、調整池の水面に浮かぶアメンボの姿であった。




