序章:青髪の少女
序章まで書いたら巻き戻ってプロローグを書きまする(直接は繋がっていないので後に読んでも先に読んでも大丈夫なものにはなります)
木洩れ日のさす森の中を青年は一人歩く。
猛暑日のうだるような暑さも木々に阻まれここまでは届かず、扇風機やエアコンでは味わえない涼しく優しい空気が辺り一帯を包んでいる。顎を伝って落ちる程の汗もようやく引き、その頃合いを見計らい腰巻にしていた赤のジャケットを一度、二度と払ってから袖を通す。
「っと……」
袖を通しながら視線を下げると、払った拍子にポケットから零れてしまったのか茶封筒が足元に落ちていた。枯葉の堆積した地面からそれを拾い上げ、わずかに付いた土を払ってから、中に入っていた紙を広げる。
その紙には、
『高校入学希望者大募集!
今ならもれなく入学出来ますよ!
是非一度足をお運びくださいませ!
募集日:文月の中頃、天高く陽が昇る刻
場所:富倉峠 』
と、5行でただそれだけがでかでかと書かれていた。付け加える情報があるとすれば、綺麗な字ではあるがどうも手書きらしい。
大体堅苦しいか、カジュアルのどちらかがお決まりと言ってもいい入学案内の冊子の筈が、茶封筒に紙切れ一枚、しかもその文面はそういった類のものを見た事があれば首をかしげるであろうもの。表現をオブラートに包んでも『独創的な表現ですね』と言えるかどうか。はっきり言ってしまえば、うさん臭い。
「せめて封筒に『カケル様』とか俺の名前を書いてくれればいいものを……。それにチラ裏とか、もはや入学希望者を本当に募る気があるのか疑わしいぞ…………」
そんなうさん臭さに拍車をかける広告の裏を利用した紙であるという事実。実は透かしで本当の文章が現れるのではと紙を掲げて木洩れ日に透かして見るも、見えるのは表面である広告のポップ体で書かれたその日のセール品のみ。既に三回は行ったその行為に落胆というよりも虚しさを感じつつも、紙を元通りに折り畳み茶封筒に戻し青年――カケルは歩き始める。
横に三人も並べない細い山道。横から突き出た樹の枝を頭を下げてくぐり、上を気にしていると足元を掬われる樹の根を気持ち高く足を上げてまたぐ。そこらへんに転がっていた丁度いい長さの木の棒を杖代わりに進むその足取りは軽い。
「……しっかし、去年登った時はそんなもの無かったと思うんだが。とはいえ、今年は間が悪く大雨に見舞われて峠祭りはお流れになったから、森の中へ涼みに行くのも丁度いいっちゃあ丁度いいけど」
年に一度、夏に開かれる峠祭り。祭りとは言っても目的地である見晴らしの良い峠で豚汁が振る舞われるというもので、参加人数もさして多くないささやかなイベント。それに毎年参加して歩きなれているカケルにとって今いる所は知らない道、もとい山ではなかった。
明らかに不審な入学希望者を募る紙にまんまと乗ったのは、つい先月まで通っていた学校を一身上の都合で退学した事を今更ながら後悔しているというのもあるが、何よりも家から振り返れば見える慣れ親しんだ山に高校があるなど、17年間生きてきて誰からも聞いたことも無かったからだ。
……つまるところ、結局は暇を持て余したが故の好奇心の行動ということである。
軽トラックが別ルートで通れるような道があるとはいえ、建築資材が運び込まれたなど耳にしたことが無く、そもそも学校など新たに造るほどの子供も居ない田舎なのだ。
いつから造られていたのか? なぜそんなところに造るのか? というかこのふざけた紙を書いたのは誰だ?
疑問は尽きることが無く、思慮をめぐらせ続けているうちに目的地の峠は目と鼻の先の所までたどり着く。
「ようやく到着か。ここはいつもの所で何も無し。となるとこの先の開けたとこ、ろ、か……って!?」
普段、峠祭りでのゴール地点はさほど広いところでもなく、ましてや建物が建つスペースは無いのでそこに何もないのは普通に受け入れられた。しかし、目をさらに先にやった所で明らかにこの場にふさわしくないものが僅かに見えた。
塀に囲まれた西洋風の建物。
ヨーロッパでもあるまいし、ましてや人工物など欠片もない山の中にあるはずもない。
自らの目を疑ったカケルは駆け出す。
「これは……!?」
カケルはこんな所にある学校なのだから、建てられたとしても青空教室か、せいぜいがプレハブ小屋だと思っていた。
まったくもって失礼な想像だが、まず学校がある場所からしておかしいのだ。そんな風に思われても仕方ない。
しかし、たった今全容が露わになった校舎はそんな青年の予想を裏切るものであった。
目の前にあったのは戦後間もない時期のような青空教室でも、建築現場で見かけるようなプレハブ小屋なんかでもなかった。
「こんなものが、いつの間に……?」
塀に四方を囲まれ、恐らく三階建て。格調高く、風格すら漂ってきそうな堂々とした佇まい。校舎というよりは貴族が住んでいそうな西洋の屋敷然とした建物がそこには建っていた。大きさこそ学校というにはいささか物足りないが、自然と背筋が伸びてしまう、そんな壮麗さがその学校にはあった。
立派な校門を抜け、お世辞にもすぐ近くとは言えない玄関までの道のりを綺麗に整えられた花壇などに視線を泳がせながら玄関へとたどり着く。
「どこにも校名が書いてないな……」
門の所に学校の名前が書かれた表札が無かった為、玄関にあるのかと思ったがその予想は外れたらしく、文字の書かれたものすら何もない。
「見た目は途中な雰囲気無いし中がまだとか? でもまあ中に入ってみるかなってうおっ――がっ!?」
やはり未完成だったのだろうかとそんな事考えつつも、とりあえず扉を叩いてみようと数段の段差に足をかけ、二段目に上がろうとした瞬間、つるりと足が滑り前のめりに転んでしまう。
咄嗟に手を着いた為幸い顔をぶつけて鼻血を出すみっともない姿になることは無かったが、代わりに足の脛を階段の角に強打してしまった。
「痛っ……てぇ!!」
弁慶の泣き所とも言われるそこをぶつけてたまらずうずくまる。しばらく悶絶した後、何が起こったのかと階段に触れてみる。
「なんだこれ!? つるっつるじゃないか!」
触ってみて分かったのは階段がまるで氷の様に滑りやすい状態だという事。知らずに上がろうとすれば転ぶのは自明の理だった。
「まあ分かっていれば転びはしないからな」
雪国育ちは伊達じゃない。一度は後れを取ったが慎重に階段を上がり玄関の前へ着く。
茶色の凝った装飾の両開きの扉。そこには屋敷の雰囲気にぴったりなドアノッカーがあったので、カケルはそれを使いそれを使い自らが訪れたことを屋敷の中の人間に知らせる。
しかし遠くから蝉の鳴き声が聞こえるだけで、いつまでたっても人の気配はない。
「まさか誰も居ないのか?
だいたい良く考えてみればこの募集の紙、日付が書いてないし。とはいえここまで来たんだからこの屋敷が何なのかぐらいは知りたいけど……」
いくらなんでもこんな謎の屋敷があったのに一体何なのか正体を知らずに帰れるほど好奇心に乏しい人間ではない。むしろ真逆の立ち位置にいる人間であるカケルは、ここまで来た労力と比較したとしても、やはり踵を返す気にはなれなかった。
反応が無かった故、意を決して入ろうと扉に手をかけたその時だった。
「誰ですか?」
「え……?」
唐突に背後から涼しげな声が聞こえた。
驚いて後ろを振り向けば、まだ距離はあるが確かに声の主と思われるこれまた涼しげな風貌の女性がカケルに向かって視線を注いでいた。
「ここに一体なんのご用でしょうか?」
こちらを警戒しているのか、言葉使いは丁寧だがしゃべり方に若干棘がある。だが、今彼の意識はそんな所には向いていなかった。
その女性の姿に目を奪われていたのだ。
なぜならその女性の外見が、およそ一般の常識からかけ離れていたからだ。
一言でいえば貴族のお嬢様である。
その格好はというと、レースが施された、白のゆったりしたロングスカートに、上は水色の服らしい。そしてその上から肩を覆うくらいまでの長さがある、紺色のケープを羽織っていた。
それだけならまだ常識の範疇を超えないだろう。
だがその女性は、毛先に向かってウェーブのかかった髪を腰まで伸ばしており、その髪の色は、まるで童話の世界から抜け出してきたかのような、透き通るような美しい空色だったのだ。
カケルが全身を青で統一したその女性の姿に気を取られていると、彼女は自分の言葉が聞こえなかったのだと思ったらしく彼に近づいてきた。
距離が近づくにつれ気が付いたことは、彼女は思ったよりも背は高くなかったという事。大人びた顔つきこそしているが、年の頃はおそらく自分と同じか少し上くらいだろう。華奢だが身体、顔だち共に均整がとれていて相当な美人だ。
年齢が近そうとなると自分と同じでこの学校への入学希望者だろうか?
「どなたでしょうか? ここには現在誰も居ないはずですが」
女性――もとい少女が階段を上り、普通に会話ができる距離まで近づいてから口を開く。こちらの事をいぶかしんでいるようでやはりその口調は不信感も露わといった感じであった。
そして彼女の言葉によりカケルの嫌な予感が的中した。どうやら今は誰も居ない無人らしい。だが、だとするとこの少女は一体誰なのだろうかと彼の中で疑問が湧き出てくる。とはいえいつまでも相手の問いを無視のは失礼だ。
カケルはとりあえず名前となぜここに来たのかを説明する事にした。
「えっと……自分はこの学校の生徒の募集の紙を見てこちらへ伺ったもので、名前はカケルと言います。失礼ですが――」
カケルが名前を口にした途端、彼女の目の色が変わった。
「ああ! あなたがカケルさんですか!
てっきり不審者かと……わたくし早合点してしまいましたわ。ごめんなさいね? ですがそれならそうと早くおっしゃって下さればよかったのに……。あ、まだ名乗っていませんでしたね。わたくしは……そうですね……『ユキ』とでもよんでくださいな」
こちらが名前を口にした途端態度が急変し、さっきまでの警戒した様子が嘘のように一気に喋り出した。
先ほどまでは睨むような、いくらか険しい顔をしていた“ユキ”と名乗った女性だが、今はそんな影は微塵もなくぱあっと明るくなりニコニコしている。
急な態度の変化には驚きを隠せないが、学校の関係者などであればもしかしたら知っていても不思議ではないのではと自分の中で合点する。
「……どうしたのです?」
カケルが少しそんな事を考えて動きが止まったのがユキには不思議だったのか、さらに距離を詰めて彼の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「――!」
覗き込んでくる双眸。吐息がかかるような距離。そんな事をされて驚かないわけがない。しかも相手は相当な美少女だ。顔が熱くなるのを感じ、思わず顎を引いてしまう。
そしてふと気が付いた事。
彼女の瞳の色だ。
なんと彼女の瞳は宝石を彷彿とさせるような美しいサファイアブルーだったのだ。
服なら自由に変えられるから珍しい恰好くらいにしか思わなかったが、瞳は事情が違った。その髪も瞳の色もとても染めたりカラーコンタクトを入れたようには見えなかったのだ。
そんなことを考えて気を紛らわせてみたが長くはもたず、目を合わせていられなくなって目線が下がるカケル。泥が付いたり等して汚れた自身のスニーカーとユキの綺麗なままの青いパンプス。そんな些細な事でさえユキの風貌と合わせて彼女が異彩を放っていると感じてしまう。
そんな事を考えている間にもユキはカケルの返答を待っていたらしく、視線を彼女に戻せば何か気分を害したとでも思ったのか、若干不安そうな顔をしている。
「すみません! なぜ自分の名前を知っているのか気になってしまって……」
僅かな時間とは言え無視してしまった事を詫び、カケルは今素直に疑問に思っていることを尋ねる。
「あ、そ、そうでしたか! てっきりわたくしが何かカケルさんの気分を害するようなことをしてしまったかと……」
自分の思い違いだとわかり安心したのか、ユキは胸に手を当て小さくため息を漏らす。ただそこでまだカケルの問いに答えていない事に気づきハッとしたらしく、顔を上げ慌てて再度口を開く。
「あっ、その、それと、お名前の件でしたよね!? それはその何と言いますか……。
――そう! わたくしがこの学校の教師だからですよ!
ちゃんとわたくしが“めんせつ”というのをやりますので!」
小さく「あ、そうでしたわ」などと、今思い出したかのような台詞が聞こえた気がしたのは恐らく空耳ではないだろう。年の頃が近そうという事は、新任の教師という線もあり得なくはない事だ。緊張しているのかもしれない。少なくとも自分をだまくらかしてどうこうしようという雰囲気は感じられない。
初めはその高嶺の花でありそうな外見から近寄り難さを感じたが、実際こうして言葉を交わしてみればそんな事は全くなく、むしろこの短時間でころころと表情が変わりその美しい外見も合わさって非常に愛嬌がある。
何とも良く表情の変わる少女だな、とカケルは胸が温かくなるのを感じた。
「わかりました。では、案内などお願いしてもいいでしょうか?」
本来はいぶかしんだり怪しむべき所なのだろうが、とうに毒気の抜かれたカケルはそう一言答えたのだった。
「もちろんです! さあ、付いてきてくださいね?」
ユキがカケルの前に出て扉に手をかけると、静かに校舎の中への道が開かれる。ひんやりとした冷たい風が頬に当たり、カケルは身が引き締まるのを感じた。そしてユキに先導され校舎の中へと足を踏み入れたのだった。
屋敷の内部はその外見にふさわしく荘厳だった。そして外からでもおおよその見当が付いていたが、やはり完全な無人の様だった。内装の工事中という訳でもなく、工具や建材が転がっているという事も無い。木くずどころか埃を被っている様子も無く掃除がちゃんと行き届いているようであった。そんな風にユキの背中を追いながら道すがら観察しつつも、カケルはやはり彼女の事が気になっていた。
今までの挙動を見る限り、悪意があるかはともかくユキが本当に教師なのか非常に怪しいものだ。新任の教師だとしてもいささか若すぎる。とはいえ彼女の歩みに迷いは無い。それに彼女は『面接』があると言った。怪しいとは思いつつもそもそも建物自体が怪しい訳で、それを鑑みればそこに現れる人間も怪しくて当然なのかもしれない。
そんな事をカケルが考えていると、ふとユキが歩みを止め彼の方に向き直る。
「それにしてもカケルさん、よくここにたどりつけましたね?」
「まあ、知らない道ではないですし……」
不意に話しかけてきて何事だろうかと身構えたカケルだったが、何てことはない、ただの世間話らしい。
「そうなのです? カケルさんは凄いですわね!
わたくしは煩わしくてびゅーんとしてしまいましたわ」
「び、びゅーん、ですか……?」
天井に向かって腕を突き上げ指差しつつはにかむユキ。それに対しカケルは気の抜けた返事をしてしまう。直後、思い出したかのようにユキが口を押さえる。
「あ……。いえ、びゅーんというのはその……まっすぐ突っ切ったという事で他に他意はありませんからね?」
直後のユキの態度は、努めて冷静に振る舞おうとしてるのがあからさまに分かるものだった。
「そ、そうですか……。ちなみに、他意、とは具体的にはどんなものでしょうか?」
好奇心がくすぐられたカケルはその取り繕おうとしてるものが気になり、思わずつついてみた。
「……ありませんわよ?
もしや貴方は、女性の秘密を根ほり葉ほり訊くような、そんな無粋な殿方なのかしら?」
だがユキの方が上手でだった。ボロを出すような事も無く、目を細めまるでこちらを値踏みするかのような、それと同時にすべてを見透かすような、そんなとても自分とは同じ年頃とは思えない妖艶な視線と声音を使ってこちらに迫ってきた。
もともと美人なのだ。そんな表情をひとたびされれば、思わず目を逸らしてしまいたくなる程のぞっとするような色気があった。
これにカケルは面食らってしまった。
「全く……そんな顔をされたら――」
そこで言葉を切ったユキは両手で上下からカケルの顔を挟んでくる。
「――思わず食べてしまいたくなりますわ」
小首をかしげて微笑みつつそう付け加える。色気のある顔から一変して今度は茶目っ気たっぷりに。
カケルとしては自分とあまり変わらない年頃の、しかも見目麗しい少女からそんなことをされ、ひとたまりもなかった。だが自分でなくともひとたまりもないだろうという緩急の付け方だった。
情けなくも再度顔が熱くなるのを感じた。
二度も醜態を晒し、今ほど一人で来てよかったと思うことは無いとカケルは強く思った。
「ま、まあ、お遊びもこのくらいにしておきましょうか」
すっと身を引くとユキがそう言った。
「“好奇心は猫をも殺す”とも言いますし、気を付けた方がいいかもしれませんわよ?」
ユキは言っている事こそカケルを諭すようなものであったが、しきりに毛先をいじったりうつむきがちだったりと、彼には照れているように見えた。
いかんせんちぐはぐな言動だが、ユキもまた不思議な空間に緊張しているのかもしれないと、そんな彼女を見てカケル思った。
「……その、それでなのですが」
少し間が空き、いくらか落ち着いたらしいユキはこちらを向いてそう切り出した。
「今日はこの学校に併設されている建物に泊まっていただきます」
これは予想外だった。
「え? それは……なんで?」
予想外すぎてカケルは思わず敬語が抜けてしまった。
カケルが驚くのも無理はなく、今はまだ太陽が高い時間だったからだ。昼飯を食べてから来たのでおよそ二時頃といった所か。
ユキは頭に疑問符が浮かびそうな顔で
「おかしいですわね……。わたくしはちゃんと暗くなってから来るようにと書いた筈でしたが……」
と、首をかしげながらそう言った。
「ということは……あの募集の紙はあなたが書かれたものだったんですか?」
まさかこんな若い人があんな古文のような言い回しの文章を書くとはカケルには到底思えなかった。
「ええ……そうですが?」
さらっというユキは「それが何か?」と言わんばかりの反応だった。
「そうだったんですか……。しかし、暗くなってからなんて書いていないですよ?」
カケルが件の紙を取り出しユキに手渡す。
「…………あら、本当ですわね。ごめんなさい書き忘れてましたわ」
どこかに暗号があったり見逃したわけではなく、単純にユキのミスであったようだ。
「ですが、これはこれで丁度良かったかもしれませんわね。夜の山は危険ですし安全な日中に来てもらった方が時間に余裕が出来ますものね」
「それはそうですが……なぜ泊まることに?」
カケルが尋ねるとユキは腕を組み考えるような素振りを見せる。そして僅かな間の後に答えた。
「その、いろいろと準備が必要でして……。めんせつは夜にならないと出来ないからです。そうなると夜に山を歩くのは危険でしょう? なので必然的に泊まるという事になりますわ」
夜にならないと面接が出来ないのは何とも不思議だが、それ以外は至極もっともな理由だった。
「と、いうわけなので、夜になるまでの間、この学校の二階以外なら敷地内どこへいってもらってもかまいませんので、ご自由になさってください」
「二階はだめなんですか?」
「だめですわ。出来ていないので」
手でバツ印を作るユキ。どうやらガワと一階以外はだめらしい。
「付け加えると、夕食はその様子だともっていらっしゃらないと思いますので、わたくしが腕によりをかけて作りますので!
なので、暗くなる頃には、ここから見えるあの建物にいてください」
そう言って、ユキは窓の外を指さした。
その先に目を向けると、確かにそれほど遠くない所に二階建てのこぢんまりとした建物があった。
「一階は食堂になっていてそこで料理をしますので、ちゃんと来てくださいね。わたくしは色々と支度があるのでまた後で会いましょう。それでは」
そう駆け足気味に説明してから、ユキは再び来た道を戻って行った。
いろいろと聞きそびれた気もするカケルではあるが、手持無沙汰でぼうっと立っているのも時間が勿体ない。
「となると、学校の敷地内ならどこに行っても良い訳だし。せっかくだから童心にでも帰って探検でもして時間潰そうか……」
未だ大人にすらなっていない自分が言うのもなんだが、とカケルは内心自分を毒づきながら、探検という名の暇つぶしに興じる為に歩き出していった――。
――カケルが屋敷の探索をひと段落させただけでは、太陽はさほど位置を変えてはいなかった。その後更に持て余した時間を潰すために昼寝をし、目が覚めた頃には空を照らしていた太陽も遂に傾き始め、日照時間の長い夏であってもその役目をもうすぐ終えようとしていた。
「――ちょっと寝すぎたかな……。でもまだ時間はありそうなんだよな……」
伸びをしてから服に付いた草を払い、西日に目を細める。
「う~ん……そういえば夜は森の中は涼しくなるんかな……。もともと屋敷……じゃなかった。校舎の中は肌寒いくらいなのに、そうだったら風邪ひきそうだな……」
まだいくらか霞がかっている頭でそんな事を心配するのは、目が覚めた時の僅かな涼しさで、口には出さなかった屋敷の中の冷房効かせすぎじゃないかという思いが甦ったからだ。
とはいえ繰り返すようだがまだそんな心配をするような時間ではない。
休日の朝ではないのだ、カケルは二度寝などする気にはなれなかった。
「どうするか……。暗くなるまで猶予があるから、もう少し遠くまでちょっと見に行ってくるか」
そう決断し、屋敷のある開けた場所と森との境目、外縁をとりあえずぐるりと一周してみることにした。
「ん? 早速道を発見」
カケルの視線の先には、森の奥へ向かう道があった。それは細く殆ど獣道のようなものであったが、それがむしろカケルの興味を引いた。
「道があるなら帰りも楽だ。行ってみるとするか」
丁度良く見つかったその道を進んでみようと決めたカケルはまっすぐそちらへ向かう。
「登山道なら草刈りしてあるはずだし、してないという事は……何だろうな?」
峠道は隣の県まで昔続いていたという事は既知の事実だったが、どうもそういうものとは違うような気がカケルはした。
「まあ知らないものを知るのが探検みたいなものだしな!」
そう口に出して頷き、足を踏み入れる。
「あれ? まだ夕方、だよな……?」
木々が西日を防ぐ事で森は一足早く夜が訪れつつあり、森の奥に行くにしたがって山は全く別の姿を見せ始める。
それはカケルの経験が危険信号を送るものであり、気づけばシャツの胸元を握りしめていた。
「……懐中電灯でもあればもう少しだけでも行ったんだけどな」
小さくため息をつき、踵を返したその時だった。
「――ん?」
僅かだが森の方から音――もしかしたら声――が聞こえた気がした。足を止めて後ろを振り向く。が、目を凝らしても人の影など見えない。
気のせいだろうと元来た道を辿ろうとして足を止める。
――だが、もし誰かか遭難でもしていたら?
場所的には携帯の電波が届かない所ではないが、何事も万が一という事はある。
「――――――」
もう一度、何かしらの音が聞こえた。今度は空耳ではない。
放ってはおけなかった。迷わず足がそちらを向き、森の方へと走り出していた。
「誰かいるんですかー!!」
声を張り上げ道なりに探す。反応が返ってこないのが心配だったが、カケルは出来るだけ粘りたかった。次第に行く手を阻み始める鬱蒼と茂る草やツタをかき分け、声を上げつつひたすら奥へ奥へと進んでいると、ふと一瞬、何かが遠くの方で光った気がした。
そしてそれに気を取られ、目の前が崖になっていたことに気付けなかった。
気づいた時には、もう遅かった。
「――――っ!!?」
崖から足を滑らせ、何かに掴まる間も無く内臓が浮くような気持ちの悪い浮遊感を感じ、地面が迫りくるのがわずかに肌で感じられた。
このまま死ぬのか?
そんな恐怖がよぎった直後、全身に強い衝撃が走りカケルは意識を失った…………。
「――う、ぐうっ……」
うずくような鈍い痛みで目が覚めたカケルは、しばらく何が起きたか理解できなかった。
黒。どこへ首を振っても暗黒だった。
「……そうか、崖から落ちたんだった」
茂みに大の字で寝転がったまま、自分の行動を順繰りに辿り、そしてようやくその結論に至った。
一切何も見えないが、耳を澄ますと鈴虫の鳴き声が聞こえる。夜の森の音。
「そうだ時間! 今何時だ!?」
上体を跳ね起こし、痛みに動きが止まりつつもポケットに手を突っ込み、携帯を取り出す。
「今の時間は……20時!? まじか……。てかここどこだ!?
戻らないと……」
よろめきながらも立ち上がる。帰り道を探すため真っ暗の中、手探りで崖を探した。
すぐに指先が崖らしきものに触れる。ちょっと触れる手に力を込めてみると、簡単に崩れてしまう。暗闇に慣れきっていない目ではどれほどの高さなのかも分からず、登るという選択肢は一瞬にして消えてしまう。
登れないなら崖伝いに歩いて上に上がれる所を探そうか、と、カケルはまず考えた。屋敷のあった所からさほど離れてはいないだろうし、すぐに帰れるのではないかと思ったのだ。
早速実行に移そうと数歩歩いた所で止まる。
この崖はどこまで続いている? もしかしたら断層で延々と続いているかもしれない。
不安が一つ顔を出したらひっきりなしに次から次へと頭に浮かび上がる。
「どうする? どうする! どうする……ッ!?」
月明りすら届かない中、今すぐ帰りたいという恐怖と、これ以上事態を悪化させないようにという警告が渦巻き、カケルはパニック寸前だった。
そんな時だった。視界の端に光が見えたのは。
淡い淡い、青の光。
「ひか、り……? 誰か、誰かいるのか!?」
足元すらろくに確かめもせず、藁にもすがる思いでカケルは光へ足を進める。
「ここだ! ここにいる! 助けてくれ!!」
声を張り上げながら進む。光は思いの外遠くで、中々近づいているという実感が湧かない。それでも、まさしくそれがカケルにとっては“希望の光”であり、足を止めるわけにはいかなかった――。
――淡い光の元へと進んでいくと、その先には洞窟がぽっかりと口を開けていた。その入り口はというと、軽自動車ならばそのまま入れそうなほど広かった。そして件の青い光はその洞窟から漏れているものだった。
「……雨風防げるし、ここにいるのが賢明かな」
洞窟内部は部分的に突き出た結晶のようなものがぼんやりと青く光り、それが奥まで延々と続いていた。さながらそれは、異世界に繋がっているのではないかと錯覚するようなものだった。そんな得体のしれない見た目だったが、カケルが迷わず足を踏み入れたのは、決して夜の森への恐怖感が勝ったからではなかった。
結晶群が放つ光はか弱くも、カケルを温かく迎え入れてくれているかの様たからだ。
――洞窟の中は思いのほか足元が悪くなく、照らす物の無いカケルも周囲の結晶の光のお陰で奥へと進んでいくことにさほど苦労はしなかった。
そして、他とは一線を画する光を頼りに、横穴には目もくれず何度か分かれた道を進み、徐々に光が強くなるのを感じ始めた頃、広い空間に出た。
「これは……!」
二階建ての建物でも収まりそうな程の高さの天井に走る亀裂から、湖面に向かって月光のエンジェルラダーが降り注いでおり、煌めく湖面が今まで追ってきた光とは別種の蒼の世界を作り出していた。
そこは地底湖だったのだ。
だが、カケルの視線は、エンジェルラダーでもなく、月光を受けて煌めく湖でもなく、違う一点に釘付けとなっていた。大きさは人間の背丈を越え、有無を言わせない荘厳かつまばゆい輝きの威容を誇る――
――蒼く輝く巨大なサファイアへと。
カケルはまだ距離のあるサファイアに手を重ね合わせる。常識的な大きさなら小指の爪程の大きさもないはずの宝石。その筈が、そのサファイアは手から僅かにはみ出すらするものだった。
眼前に佇んでいる訳では無いのに、である。
カケルは開いた口が塞がらなかった。
「なんだ、これは……?」
圧倒されつつもようやく静かに手をおろしたカケルは息を呑む。
ふわりと広がる空色の髪。サファイアの前で恐らく跪いているであろう人の後姿。その姿はまるで、大聖堂でステンドグラスの光降り注ぐ神の像を前に祈る聖女のようだった。
今の今まで気が付かなかったのも、巨大なサファイアに負けず劣らず彼女が神々しかったからに違いない。
カケルは彼女を驚かせないよう静かに歩み寄る。
一歩進む度にカツン、コツンと反響した足音が、地底湖の奥へと吸い込まれてゆく。
言葉を交わすに十分な距離まで近付いても、彼女は微動だにしなかった。
ーーあの。……そのたったの2文字の言葉ですら声にならず。口が乾き、無い唾を飲み込もうと喉が動く。
目の前の少女に声をかけること。それが今のカケルにとっては、名画に素人が勝手に手を加えるかの様な強い躊躇いを抱かせた。
靴音もとうに消え去り、天井から滴り落ちる雫の音がやけに大きく聞こえた。それは「何を躊躇っている」と、カケルを叱咤激励する声無き声援だったのかもしれない。
「どう…………されたんですか?」
ようやく出てきた言葉は、全くなんの気も利いていないそんな陳腐な台詞だった。
だが、それで十分だった。
ユキは弾かれたように立ち上がり、背後にいるカケルの方を向く。
「っーーーー!」
大きく目を見開いたユキは直後、その蒼の瞳一杯に涙を溜め今にも泣きそうな顔をしながらカケルに飛びついてきた。
「!?」
勢いに押され、よろめきしりもちをつくカケル。状況が掴めない彼には固い地面に打ち付けた尻が痛むこと以外理解できなかった。
「無事で良かった……!
本当に、無事でいてくれて、わたくしは……っ!」
何が何だがわからないカケルであったが、自分に抱きつき、肩を震わせ泣く少女を慰める事が、今彼女にするべき事だということはすぐさま理解できた。
抱きしめるなどカケルには出来ず、どうにかしなくてはと考えた結果、恐る恐る頭に触れ、そっと撫でる。柔らかく、手触りの良い髪だった――。
――しばらくユキを撫で続け、鼻をすする音も聞こえなくなりカケルの腕が少し疲れ始めた頃、ユキはようやく落ち着きを取り戻した。
「……ごめんなさい。お恥ずかしい姿を見せてしまいましたわね」
ゆっくりとカケルから離れたユキは泣き腫らした赤い目のままそう言って頭を下げた。
「あ、いえ、その……大丈夫ですか?」
腫物を触るような対応しか出来ない自分を情けなく思いつつも調子を伺うカケル。
「はい! 醜態は晒しましたがお陰でスッキリしましたわ!」
目元を拭った後、胸の前で拳を固め、はつらつと言うユキ。照れくさそうではあるが、空元気ではないだろう。
「それは良かったです。それでなのですが、出来れば色々と説明を――」
ユキが泣くほど自分を心配したことは当然ながら、聞きたいことの沢山あったカケルだが、ユキが人差し指を立て、彼の唇に軽く触れてそれを遮った。
「ちゃんとした説明は、その堅苦しい敬語を取り払ってからですわ。わたくし、貴方とは対等な立場でありたいんですの」
「でもユキさんは敬語ではないですか」
「わたくしは生来のものですわ」
ユキはそう言い、お茶目にウインクをする。
その行動を変に邪推しなければ、元の調子に戻ったとみていいだろう。
礼儀としての敬語であり、へりくだっているつもりはカケルに無かったが、ユキは敬語は要らないと言う。単にまどろっこしいのが嫌いなのかもしれないが、説明の前提条件にそれを付けてくる辺り、ユキにとっては何か大事な意味があるのかもしれない。
「では……」
ユキがあからまさに嫌そうな顔をする。
「……じゃあ、説明を聞きたいんだけど、いいかな?」
「……ええ! もちろんですわ!」
ころりと表情を変え、今度は嬉しそうににこりと微笑みユキは答えた。
「……まず聞きたいのは、この場所と、この巨大な結晶かな」
「あら? そちらがさきなのです?
まあ、お答えしましょう」
意外だ、と、僅かに驚いて見せたユキはそこで一度言葉を切った。
「ここは見ての通り地底湖ですわ。何の変哲もない……と言うと語弊がありますけど。その理由が、この巨大なサファイアです」
ユキはその巨大なサファイアの正面から脇に半歩ほどずれ、カケルを正面に立たせた後、続きを語る。
「世界を見てもその数は決して多くない、わたくしたちにとって特別な意味と力を持った宝石の一つがこれなのです。そしてその宝石群を、『誓い』を意味する“オウス”と呼びます。美しく、壮麗で、陳腐な言葉ではありますが、素敵で素晴らしいとは思いませんか?」
ユキはオウスというサファイアに負けないくらい目を輝かせながら力強く語った。
目の前に立つと改めて分かるその巨大さ。カケルの背丈を超え2mはありそうだった。原石ではない、研磨されたかのような美しいそれは、月の光を乱反射させ一層の輝きを放っていた。
「特別な“意味”と“力”……」
なんとも意味ありげな響きだが、そういった物が秘められていても不思議ではない。カケルは思わず生唾を飲み込んだ。
「…………さて、他にも聞きたいこと、あるんですわよね?
わたくしは少なくとも、そうではないかと踏んでいますわ」
カケルがいくらかの間の後、サファイアからユキへと視線を移すと、両肘を抱いたユキが流し目でこちらを見ながらそう問いかけてくる。
貴族然とした立ち振る舞いをしているかと思えば、時折子供のようなあどけなさの残る表情をのぞかせるユキ。演技なのか、はたまたこれが彼女の素なのか、何ともつかみどころのない少女は、今確かに、品定めするような、こちらを試すようなそういった目をし、雰囲気を纏っていた。
カケルは制止するかのように手を突き出す。
「ちょっと、ちょっと考える時間をくれ……」
何を、ユキは何を求めているのだろうか?
本当に学校の先生なのかという疑問? いや、それはもう言わないだけで、殆ど行動で否定しているようなものだろう。母親や親族でもないのに、どこの世界に会って間もない生徒に飛びつき、その胸で泣く教師がいるだろうか? 世の中には居ることは居るだろうが、とにかく今はこの質問は違うだろう。
次にカケルの頭に思い浮かんだのは先程思った事に関連した事だった。それは、何故泣くほど心配してくれたのか、ということだ。昨日今日どころか、実質数時間前に一時間にも満たない時間会っただけの人間に、果たして神に祈るような事をし、涙を流せるだろうか? ユキが聖母ような心をもっているという事でもない限り、何かしら特別視していると見るのが自然だ。
もう一つあるのが、ひとたびニュースになれば金輪際人が絶えることが無さそうな、あり得ないほど巨大なサファイアをユキが既知の事実として扱っていることだ。世界中にあるとすれば、到底秘匿出来るようなものではないはず。なのにそういった事を一切耳にしたことがない。世界中にあり、かつ彼女達にとって特別と言う。一民族の宝とも言えなさそうだった。
「うーん…………」
そこまで考え、その三つ以上に振り絞れないカケルは、悩んだ末、そもそもの疑問があったことに気が付いた。
その三つの根底にある疑問であり、深く考えすぎた故見えなくなっていた疑問。
気付いてみればなんと単純だろうかと、カケルは自身に呆れる。大きすぎて見えなかったそれを、カケルはユキが求めている事と定めた。
「考えはまとまったようですわね?」
「あぁ。といっても、この状況なら10人が10人、同じ事を訊くだろうけどね」
それくらい単純な事なので、カケルは自嘲めいた笑みを浮かべる。
それでも呼吸を整え、口に出すのに勇気が必要だったのは、何が飛び出すのかカケルには皆目見当がつかなかったからだ。
鬼が出るか蛇が出るか。まさに文字そのままの気持ちだった。
「……ずっと気になっていた。この場所に来てから不自然な事や不思議な事が幾つもあった。始めは何も抱きもしなかった。でも、この巨大なサファイアと共に君が現われ、どうしてか、会ったばかりの俺を心の底から心配してくれた。それらが幾重にも重なり、今、聞かずにはいられない疑問に変わった。
君は、いや、貴女は――――
――――一体何者なんだ?」
一息に言葉を吐き出す。思っていた全てを。
こちらを見つめて微塵も動かない、その深い蒼の双眸を真っ直ぐ見つめ返す。
「………………わたくしは、その言葉を待っていました」
……どれくらい経っただろうか。
カケルとユキは、お互いに相手の心を推し量るかのようにずっと睨み合っていたが、唐突にユキがふっと肩の力を抜き、一度目を閉じ、感に堪えないといった面持ちで一言呟いた。
「……え?」
カケルはきょとんとする。
「わたくしにとって、異様な世界の入り口を垣間見せながらも貴方が関わることを選んだことが、その言葉が始まりの鐘を鳴らすのです」
ユキから返ってきた言葉は、質問とは繋がらない的を得ないものだった。
「貴方は選ばれたのですよ。悠久の時を生きる、
“人ならざる”わたくしに――」
ユキは静かにそう告げたのだった――。
「――人…………ならざるもの?」
“人ならざる”つまりは人ではないと言うことだ。言葉の意味は解る。それが本当なら不可思議な事全てに理由が付き、すとんと腑に落ちるのも事実だ。
だが、どうか? 目の前の少女、ユキはそんじょそこらの人間が適わない様な美貌の持ち主ではあるが、人間離れした姿形ではなくどう見たって人間だ。この期に及んで疑う訳ではないが、「はいそうですか」とはいかない。
「……その顔は信じてはいませんね?
まあ、簡単に信じてもらえるとは思っていませんが……」
顔に出ていたのか、ユキはなどと呟き、少し俯いて思案顔になった。
「それならば身体でもって示してみせれば良いのですよね?」
カケルはつんのめりそうになった。
「ん!?
……まあ、そうだね、うん、そうかな」
状況が違えば非常に誤解を招きそうなユキの表現にカケルは面食らうが、本人は至って真面目に言うので平静を保たねばならなかった。
「……?
ですわよね!」
僅かに首を傾げたが、幸いにもユキは突っ込みはしなかった。
「参考までにですが、一体どんなものだと思います?」
「え? ……自信満々な所を見ると昔話である鶴とか妖怪じゃあ無さそうだよな……。ま、まさか神様、とか?」
ふと投げかけられたユキの問いに、しばし考えてから答えるカケル。
だが、仮に本当に神だったらどうしようか。本人たっての希望とはいえ、やはり敬語抜きはまずいのでは? 他にも何かしでかしていないだろうか?
カケルはそんな嫌な想像が膨らみ血の気が引いた。
「当たらずとも遠からず、でしょうか?
ですが臆することはありませんし、そんな顔をするものではありませんわ」
一方ユキはというと、鼻を膨らませ胸を反らし笑みを浮かべている。その反応からしてカケルの答えに満足したようだ。
カケルが胸をなで下ろすのを見届けると、ユキは右手の指を数本そっと額に当て、念じるかのように静かに瞳を閉じた。
ほんの少しの間の後、ユキは目を見開く。その双眸には力強い光が宿っていた。
「……ではお見せしましょう、わたくしの真の姿、その片鱗を!」
ユキが高らかに宣言し、何かを解き放つように額から真横へ腕を勢い良く払った。
それと同時に何かがユキから飛び出した。
「翼と、尻尾……!?」
そう、姿を現したのは人には付いていない筈の、翼と尾だった。
ユキのちょうど肩甲骨のあるであろう辺りを付け根として、そこからケープから大きく飛び出した、ダークブルーに近い色の翼。それは猛禽類の翼を彷彿とさせる力強さがあり、片翼だけでもユキ本人の背丈と同じくらいの大きさはありそうだった。
そして一方視線を下げれば、ユキのスカートの中からは恐らく彼女の足よりも太いであろう尻尾が地面へと伸びていた。金属、と言うよりはそれこそ宝石に近いような輝きを持つ鱗。背筋側には尾の先端へ向かい、そして先端で炎のように膨らんだ、ユキの髪と同じ空色のふさふさとした毛が生えていた。すらりとしたしなやかで美しい尾は、毛が生えてなければ蛇の尾にも見えなく無い。
自信満々な佇まい。ユキには気品を漂わせながらも明らかに人のそれでは無いモノが確かにあった。
“人ならざる”もの。
漠然とした言葉でしかなかったそれが今、確かな現実を伴って目の前にある。
「んっ……ふぅ。やっと窮屈で無くなりましたわ」
「まさか……本当に……?」
カケルは目の前の光景が信じられなかった。
そんなカケルを尻目にユキが伸びをすると、同時に翼や尻尾もぐぐくっと一緒に伸びをしていた。それはどう見ても人工物の挙動ではなく、身体の一部と言うのが正しい物だった。
「……これが、わたくしの人とは違う確たる証拠です。どうです? この翼と尻尾は? 美しいでしょう?」
尾の先端を軽く振り、両腕と共に翼を広げたユキはそう言ってカケルに同意を求める。
「これは……本物なの、か?
美しいというのに異論はないのだけれど……」
どう見ても本物だが、往々にして人は信じられないものを前にしてそう訊かずにはいられないらしい。カケルも、その例に漏れなかった。
「当然ですっ!
正真正銘、わたくしの身体の一部ですわ!」
カケルが思いもよらぬ剣幕でユキがそう言った。
気が高ぶっているのか、翼はパタパタと動き、尻尾はピンと張りつめている。
「お、落ち着いてって。……にしても、翼に、尻尾。そんな生き物って……まさか、本当に存在して……?
ユキさん、貴女は……? 」
ユキをなだめながらも、カケルの頭の中でユキの本来の姿として、信じられないものが浮かぶ。
翼を持ち、かつ蛇のような尾を持つ生き物なんて現実には存在しない。
そう、“現実”には。
カケルの脳裏に浮かんだのは、神話や伝説でも最強の生物、それこそ神に等しいものさえいる怪物――。
「確かに、わたくしが何者なのか、しっかりとは答えていませんでしたわね」
咳払いしたユキがここぞとばかりに翼を広げ、尾で地面を叩く。右手はそっと胸元に添える。
「――わたくしは、“ドラゴン”。
気高く誇り高き、“サファイア・ドラゴン”ですわ。
以後、よろしくお願いしますわね?」
にこりと笑い、ユキはそう言って小首を傾げた。
「ド……ドラゴ……っ!?」
やはりそうだったからといって、驚きが軽減される訳ではない。それほど信じがたい事実だ。
「フフッ。驚いてくれました?」
「………………最早自分の常識が通用しなくなって来ている事に、ね」
カケルは苦し紛れにそんな事を言うのが精一杯だった。
「もっと驚いてくれてもバチは当たりませんのに……。ですが、それならばわたくしにも考えがありますわ。……フフッ、もっと驚かせて差し上げますわ」
素直に驚いた事を認めなかったのが、ユキには少し面白くなかったようで、少し口を尖らせるが、すぐににんまりと表情を変える。
明らかに何かを企んでいるであろうユキに対しカケルは何も言えない。
なにせ次はどんなことが起こるのか全く分からず、予測しようにも自分の今まで培った常識が、それこそ紙切れほども役に立たないのだからお話にならない。
未だ彼女に圧倒的なアドバンテージがあるのは紛れもなく、誰の目で見ても明らかだった。
「な、何をするつもりなんだ……」
おもむろに腕を上げ、指をそろえた右手のひらを前に突き出すユキ。カケルはそれだけの挙動なのに息を飲む。
「さあ、とくとご覧なさいな!
ドラゴンの力、その一端を!!」
今までとは何か違う、ピンと張り詰めるような空気が流れるのをカケルは肌で感じた。
すると直後、手のひらに小さな青い光の粒がいくつも現れ始めた。小さな煌めきは次々現れその数を増し一点に収束、ついには一つの球体となる。それはちょうどメロン程の大きさだった。
「なっ……!?」
「これは、わたくしの司る水、その“魔力の塊”ですわ。さあ、しかと見ていてくださいね?」
カケルの驚きように満足したのか、余裕の笑みを浮かべるユキは、更に驚くべき事を行う。
宙に浮く球体はさながら真っ青な大きいシャボン玉だった。ユキはその綺麗な“魔力の塊”なるものの表面を触れるか触れないかで撫で回し、その後更に左手を添え、両手をゆっくりと左右に広げる。すると手のひらに球体状に収束していた水が引っ張られるようにつられて伸び、やがて形を持ち始めた。
徐々に細くなっていったと思うと、やがて動きを止めた。
姿形を変えた魔力の塊が行き着いた形は、細い剣だった。
空と海が混じりあったような淡い青、そして控えめだが宝石で出来ているかの様な美しい煌めきの剣身。ワンポイントのように護拳に小さくある三枚の飾り羽根。そこにはどんな儀礼用の剣にも負けない美しい剣があった。大きさからして片手持ちの剣だろう。
「……まあ、ざっとこんなものでしょうか」
ユキが肩の力を抜き両腕を下げる。
剣は胸の高さで宙に浮いたままだ。
「今のは一体……? それにこれは…青い……剣?」
理解が追い付かないカケル。「俺は一体、何度驚けば気が済むんだろうか?」と、心のなかで呟かずにはいられなかった。
「これは、“魔法”ですわ。ドラゴンならこのくらい当たり前ですわ。どうです? これで信じてくれましたか?」
さらっと言うユキ。それがどれ程の事なのか、理解しているのだろうか?
ユキは目の前で宙に浮く剣を持ち、切っ先を天に掲げ、そして剣を胸元に引き寄せる。その姿はさながら女騎士のようであった。ユキの持つ剣には、唖然と彼女を見つめる間抜けな自分の顔が鏡のように映っていた。
信じるもなにも最早あったものではない。これだけ超常的な事を目の前で見せつけられれば、たとえ全てをプラズマで説明出来るとのたまう人が居ても音を上げ、匙を投げて屈服するだろう。
「むしろ信じない方がおかしいよ……」
仮にここで否定しようものなら、更にユキのパフォーマンスが続く可能性が濃厚だったので、これ以上キャパオーバーになるようなことは御免だったカケルは、肩をすくめて降参の意を示した。
「それなら万事問題ありませんわね!」
ユキがそう言うと、手に持っていた剣は細かな粒子となり消えてしまった。恐らく、もう必要ないと判断して意図的に消したのであろう。
「人じゃない、ドラゴン、魔法それと剣……。ユキさんの容姿と合わせてまるでファンタジーの世界だ……」
改めて口に出しても衝撃的だ。今まで覚えてきた常識が全部、デタラメだったとでも言うのだろうか。
カケルは顔を片手で覆い、眉間に皺を寄せる。
「困惑のところ申し訳無いのですが、補足しますと、正確には只のドラゴンではなく、その中でもわたくしはサファイアを名前に冠し水を司る、“サファイア・ドラゴン”という種族ですわ」
軽く俯くカケルを下から上目遣いで覗きこむようにしながら、ユキは控えめに人差し指を立ててそう訂正する。
その際あまりにも顔を近づけられるので、カケルはその分仰け反ってしまう。これは相当女性に免疫がないと拒絶できない反応だ。
「……にしても、サファイアっていうと、あの宝石と同じ意味なんだよね?」
半歩引きながら、カケルはそんな事を聞いてみる。
「ええ、そうです。ですが、名前が付いたのは、わたくし達の方が“先”ですわよ?」
“先”というのは重要なのか、その部分を強調し、ついでにユキは胸を張ってそう言った。
大人びている割にその部分は、慎ましやかなのは、恐らく言及するのはタブーだろう。
それこそドラゴンの逆鱗に触れかねない。文字道理意味そのままで。
「……あと、もう一つ補足させていただくと、実はわたくしの名前は“ユキ”ではないのですわ」
「えっ」
「嘘をついていたのは申し訳ないと思いますわ。ですが、やはり初対面で覚えやすく、かつ親しみがいくらか持てる名前でないと、その、いけないかと思ったもので。ごめんなさい」
「いやいやいや!
事情あったなら仕方ないと俺思うから頭下げないでくれって!」
ユキがぺこりと頭を下げる。外見こそ翼と尻尾を着けたコスプレ少女だが、今この瞬間、カケルは紛れもなく“ドラゴン”に頭を下げさせている。とてもではないが彼には看過出来るものではなかった。
カケルは及び腰で両手をおおげさに振り、顔を上げるように懇願するような形になる。
「あら、そうですの?」
ユキ……では少なくとも無いドラゴン少女がようやく顔を上げる。
「ドラゴンが頭を下げてる状態が落ち着かなくてね」
「そうでしたか。ですが、勿体ないですわよ?
なにせ、誇り高きドラゴンであるわたくしの謝罪など、二度と拝めないかもしれないものですから!」
あいにくカケルは、自分より格上の相手のこうべを垂れる姿を見て愉悦に浸る歪んだ趣味は無い。
「勿体ないことをしたとは思わないさ。ねぇ、本当の名前は何て言うのか、それは聞かせてもらえる、のかな?」
そうカケルが尋ねると、目の前の少女は頬を掻き、視線を明後日の方向に向ける。
あからさまで非常に判りやすいその反応は、事実上言えないと言っている様なものだ。
「それなのですが、今しばらくは“ユキ”でいさせてはくれないでしょうか?」
「えっとそれは……なにか理由が?」
本当の名前を言ってはいけないというのは、ファンタジーだったら少なくない数あるような設定だ。もしかしたら現実にドラゴンにとって重いものなのかもしれない。
「ここぞ! という時に名乗って驚かせたいのですわ!」
というのは単にカケルの妄想でしかなかった。
「そういうことなので、楽しみにしていてくださいね?」
「気にならないと言ったら嘘になるけど、わかった。楽しみに待たせてもらうよ」
きっとそこまで勿体ぶらないだろう。ユキという仮の名前が定着しては元も子もないからだ。
「感謝いたしますわ」
ユキが礼を言う。それは軽くとはいえ、まさかもう二回目のドラゴンの頭を下げる姿である。
「……別に、礼を言われるようなものじゃないって」
そこに言及しなかったのは、話が一向に進まなくなるからである。
「では、ずいぶん話がそれてしまいましたが、カケルさん、あなたが“選ばれた”という事について、そろそろお話ししましょうか。これは、大事なお話しですわよ?」
驚かせたいがため名前を隠している事実が発覚した事により、今一つ大事という言葉がカケルには響いてこないが、それでもユキの顔は真剣そのものだった。
「ドラゴンが、一体俺の何を選んだっていうんだ……?」
出てくる自然な疑問。こう言ってはなんだが、カケルは自分を特別と思ったことはない。それこそドラゴンに価値を認められるような何かがあるとは思えない。
「……わたくしはですね、カケルさん。貴方を、自らの“パートナーの素質がある者”として見いだしたのですわ」
「パート、ナー……? それって一体……?」
カケルは首をかしげる。パートナーという言葉を聞いて、彼が思い浮かんだのは支えるとか、何かのペアだとか、そういう類いの物だった。
「それは今から説明いたしますね。……一通り話すと少しだけ長くなるかもしれません」
そう言うユキの顔に一瞬、影が射したような気がした。だが、それを口にする前に彼女は次の行動に移っていた。
「そろそろ立っているにも疲れてくるでしょうし、腰掛けて話しましょうか。…………さあ、隣に来てくださいな?」
ユキはほんの数歩で行ける距離にあるサファイアのオウスの傍にある段差に座り、その隣をポンポンと軽く叩きカケルを招く。
「……っしょっと。それで、どういうことなの?」
「それにはもっと近くによってくださいな。ちょっと離れすぎですわ」
ユキの隣に腰掛け、丁度ベンチに並んで座っているような状態となる。が、何気なく座ったカケルの離れ具合が気に入らなかったらしく、ユキは立ち上がらず距離を詰めてきた。その結果二人の間は太腿が触れあいそうな程まで近づいた。
「フフッ。これでいいですわ」
「お、おう……」
距離の近さがまるで恋人同士のそれであり、カケルには落ち着かなかったが、わざわざ口に出して指摘するのも恥ずかしかった彼は、曖昧な返事しか出来なかった。
「……それでなのですか、“パートナー”とは、端的に言えばドラゴンと誓いの儀を行い、魂まで結びついた人間やドラゴンの事です」
「そういう意味なのか……」
「ええ。お互いに魔力や心、命すらも共有するその者たち。そうなる為に立てる人龍一体の誓いをこう呼ぶのです――
――《ドラゴン・オウス》と」
「ドラゴン……オウス……。俺が、その候補?」
カケルがそう反復してつぶやくとユキは静かに、だが力強くうなずいた。
話を聞いてわかったのは、その人龍一体となる誓いの候補に自分がなっているということ。信じがたい事だが、何故そんな事をわざわざするのだろうか?
そう、する必要が本当にあるのだろうか?
「……でも、ドラゴンが人間と命を共有なんてしたら、それこそ足して二で割ったよりも弱くなるんじゃないの?
そんなことしなくてもドラゴンは強い気がするけど……」
ユキにたった今思った疑問をぶつける。
「っ……!
それは………………」
ユキはカケルの問いに顔を伏せ、胸元で拳を作る。それは痛みに耐えるような仕草に見えなくもない。恐らくは、耐えているのだろう。胸の痛みに。
「いえ、そうですわね、当然の疑問でしょう……。……確かに昔はそうでした」
「……昔は?」
ユキはうなずいた。
「……これから話すことは、貴方を責めているわけではありません。それだけ、わたくしの気持ちを誤解なきように聞いていただけますか?」
ユキは伏し目がちに、何か懸念があるのか胸元で拳を握ったあと、そう念を込めてカケルに言った。
「わ、わかったよ」
何を言うというのか、流石に不安はあったが、ここまで来たら毒食らわば皿までだ。
「ありがとうございます。……わたくし達ドラゴンという種族は、今や衰退の一途をたどっています。全盛期に比べたら、現代のドラゴンの魔力は皆無に等しいですわ」
「力が、無い……!?」
「ええ。……ほんの数百年前、たったの十数年の出来事でした。……ちょうど人が機械を生み出し、巨大な力を産み出し始めて来た頃です」
「――!!!」
カケルはその言葉に絶句した。それの意味する所は……。
「お気づきかも知れませんが、そう、その頃から人間たちは急激に自然に対する信仰や敬意の気持ちを失っていきました。その結果、人々は川を汚し、森を切り開き、山を穿ち、大気を淀ませ、際限なく自分達の世界を広げていきました」
カケルは耳を塞げるものなら塞ぎたかった。
「……ドラゴンの全ての力の源である魔力は、無尽蔵の力ではありません。わたくしたちは星と共にあり、その力は大地の、星の加護の元にある力です。ですが、星が穢されていけば……」
ユキが一拍置く。
「……いけば、おのずと魔力は失われていき、ドラゴンは力を喪い衰えていきました…………」
「そしてわたくし達は魔力の維持が困難で、目立ちすぎるドラゴンの身体を捨て人の形をとり、人に紛れひっそりと共に暮らすようになりました。いつかの為、今を堪え忍ぶ事に決めたのです」
「……ですが、さらなる魔力の減退により今や本来のドラゴンの姿に戻ることは叶わなくなりました……世界が変わらぬ限り、二度と」
沈黙が流れる。
今、ユキはどんな顔をしているだろうか?
悲哀に俯いている?
憎悪に顔を歪ませている?
地面が波打ち、ぐにゃりの歪むような錯覚を覚えた。
カケルは、ユキの顔を見るのが怖かった。
自らの身体を捨てなければいけないなど、一体どれ程の苦痛や葛藤があった事だろうか?
しかも、それは身から出た錆などではなく、他種族の、すなわち人間の行いによってなのだ。
殺してやりたいほど恨まれていても不思議ではない。
カケルは語られた事実を前に呆然としていた。
「……カケルさんの考えているであろう事はわかりますわ。ですが、わたくしは貴方をどうこうしようとは考えてません。それに、希望というのはほんの一握りであろうとも存在しているものですわ」
「…………え?」
顔を上げると、眉尻が下がり眉間に少し皺が寄った辛そうなものではあったが、確かにユキは微笑んでいた。
「それこそがドラゴン・オウス。……種族として袋小路に追いやられているわたくし達の世界に、風穴を開けるものですわ」
「その、ドラゴン・オウスの契約の候補に俺が……?」
「ええ」
カケルが自らを指差すと、ユキはしっかりと深く、うなずく。
「ドラゴン・オウス、か……。それで、まさかその報告の為にここまで大掛かりなことをした訳じゃないだろ?」
いくらなんでもそのくらいは分かる。
「そうですわ。イレギュラーはいくらか生じてしまいましたが、わたくしはですね、カケルさん貴方にお願いがあってこの場を整えたのですわ」
ユキはカケルの握りしめられた拳に自らの手を重ねる。
「わたくしが今しがた語った事で貴方が抱いたであろう同情や憐れみ、後ろめたさをいくらか利用しているのは自覚しています。ですが、そうしてまでも!
カケルさんに、わたくしとドラゴン・オウスの契約をして、パートナーになってほしいのです……っ!」
同情を誘うと言っておきながら、一番の武器になりそうな涙をユキは流さなかった。震える声を押さえつけ、零れそうな涙を瞳に湛えつつも、視線はカケルから逸らさず、気丈に振る舞って見せた。
泣き落としはドラゴンのプライドが許さなかったのだろうか?
恐らくは違うだろう。
ユキはきっと、最後はカケル自身に決めてもらいたいのだ。
意図してるのかは分からないが、ユキはドラゴンという上の立場ではなく、対等のテーブルに座ったうえで、自分との契約を選んでくれるのを望んでいるのだ。
「……俺で、いいのか?」
自分がドラゴンと肩を並べられるような人間では無いのは分かっていた。どこにでもいるような平凡な人間だ。だが、カケルはそういった自分を自覚した上で否定の言葉は口にしなかった。
「貴方以外の誰が居るというのですか」
「探せばもっと他に優秀なのがいるかもしれないのに?」
「必要な時に居ない者は無能に等しいのですわ」
カケルは押し黙った。たとえ後何を言おうと、ユキは揺らがないという確信があったからだ。涙で光る瞳であって尚、その奥底にある意志の固さが見て取れた。
カケルは自らの手の上に重ねられたユキの手に、更に自らの手を重ねる。
「……わかった。やろうじゃないか、契約をさ」
「ほんとっ――!! ……いえ、感謝いたしますわ」
一瞬聞き返すような言葉を口にしたユキであったが、途中で思い直したかのようにゆっくりと首を横に振り、感謝の言葉を告げる。
「目の前で困っている人が居たら、手を差し伸べる。傷つき、苦しんでいる人を前にして自分に出来ることがあるなら、俺はやりたいんだ」
「それが命を賭すものであってもですか?」
「やってやろうじゃないか!
可愛い子の為に死ねるなら男の本懐ってものだぜ?」
カケルは眼前に持ってきた拳を強く握りしめる。
「全く軽々と言ってのけてくれますわね……」
ユキは僅かに呆れの色をにじませてそう言いつつ、目元を拭う。
「ですが、死んでもらっては契約により共倒れになってしまうので、是非ともやめてくださいね?」
「え? そうなの?」
「そうですわ。どうします? やはりやめましょうか?」
「からかわないでくれよ。少し茶化しただけじゃないか。今更翻したりしないよ」
好奇心や自分に酔って口約束を交わした訳ではない。カケルは、人生の岐路に立たされたであろうことを理解し、その上でユキへと至る道を選んだのだ。
「……感謝の念に堪えませんわ。では……」
ユキはすっくと立ちあがり、カケルに手を差し伸べる。
「……! ああ!」
カケルもそれに応じて立ち上がり、自らも手を伸ばし、固く握手を交わす。ユキの背後で嬉しそうに揺れている尾や存在感のある翼が無ければドラゴンだと信じられない様な、華奢な少女の手だった。