喪女エルフ128歳の退屈な日常
処女作ですがどうぞよろしく。
エルフ。
「森の人」「魔導の守り手」「密林の貴族」「木の葉耳の一族」「歴史の語り部」
様々な異名で知られる、深き森の神秘の種族。
この世界唯一の大陸の東部中央、未開の大森林において生活する、謎多き者達。
滅多なことでは森を出ず、森の中で生まれ、生き、死んでいく彼らの生活は謎に満ちている。
数少ない森を出たエルフや、故郷の森を亡くし闇に生きるダークエルフなどの例外も存在するが、彼らが森での生活について口にすることは滅多にない。
細々ながらエルフと取引するヒュームやドワーフの商人たちの口も固い。漏らせば、エルフの信用を失う。その信用を一度でも失おうものなら、短命(※エルフ目線)な彼らが生きてる内にそれを取り戻す術は無いに等しいのだから。
エルフは永遠の命を保つ秘薬を持つとも、太古の魔導を継承するとも言われるが、その真偽は杳として知れない。
「う〜」
大森林にいくつか存在する隠れ里。その一つの住居。とうの昔に登った朝日に照らされ、一人の女性が呻いた。
「あ、あたまいたい〜。きのう、のみすぎた・・・」
彼女の名はリューフレチカ。
種族エルフ。職業:里の薬師兼食料庫の管理人兼会計士。
御年128歳。
長命で知られるエルフにおいても、紛うことなき「行き遅れ」と言われる年齢である。
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「どうしてあなたはいつもそうなのですか!」
文字通り「樹に住む」エルフの里では数少ない、地に建つ平家、そこで叱責の声が響いた。
「言い訳のしようもありません・・・」
エルフの朝は早い。
狩猟と採集の民族である彼らは、陽が昇るとともに森へと出て日々の糧を得て、日暮れ前に安全な里へ帰る。
森に精通し、魔導に優れる彼らでも、夜の森は危険で溢れている。
夜間の野外活動は避けるのが常である。
よって彼らは、午前の内に大半のことが済まし、早めの昼食休憩を挟んだ後、小腹がすく頃にはその日の仕事を終えて帰路につき、陽が暮れて間もなく床に入る。
陽が昇って何刻も過ぎてから出勤した彼女が叱責されるのは至極当然である。
ちなみに休日はろくに無い。里にそこまでの余裕は決して無い。
「理由はなんですか!?ただの寝坊とぬかすなら私は天神様に代わってあなたに雷を落とすのも吝かではありませんよ!」
「今朝はちょっと体調が優れませんで・・・」
嘘では無い。体調不良の理由は二日酔いだが。
「あなたは!里の者の健康を第一に考えなくてはならない薬師が!
体を壊してどうするのです!」
「面目次第もございません・・・」
彼女、リューフレチカの上司、薬師長カラミアの言うことは正しい。「そういう時」のための備えが今の里の薬師3人体制であるが、人員が無闇に欠けていい理由にはならない。
「あなたを引き取って120年!あなたには亡き両親に恥じない立派な者になってもらわねば困ります!」
そう、何を隠そうカラミアはリューフレチカの叔母にあたる人物である。
120年前、流行病で相次いで亡くなった両親に代わり、女手一つで育ててくれた。自身も伴侶を失っていたにもかかわらず、である。
よってリューフレチカは彼女に頭が上がらない。
しかしここで両親の話を出すのは卑怯だと思わなくもない。
「あなたときたらいい歳して男の影もなく、狩りは下手くそ、
薬師としては及第点ですがあくまでそれだけ!
姉さんたちは枝葉の影で泣いてますよ!」
しかも二日酔いで遅刻である。確実に泣く。
ちなみに大森林の真ん中では幽霊が泣くのは草葉でなく枝葉の影と相場が決まっている。
「しかも理由は二日酔い!酔い覚ましと臭い消しでごまかしたつもりでしょうが!
他の者は騙せても私の鼻はごまかせませんからね!」
ばれている、ものの見事に。年の功、というわけでなく、日々自らの知識と直感を頼りに妙薬を作り出す彼女にかかれば、リューフレチカの取り繕いなどお見通し、否、嗅ぎ通しである。
「ごめんなさい・・・」
リューフレチカには、うつむいて自らを恥じるしかなかった。
「どうしてあなたはいつもそうなのですか!」
そうして説教はループした。
気の長いエルフでもこれは堪えた。
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リューフレチカは薬師兼食料庫の管理人兼会計士。
里を構成する大木、その一本の「うろ」を利用した倉庫、の横に建てられた小屋、それが彼女の職場である。兼業が多いのは、エルフの里が慢性的な人手不足のため。
そして成人した全てのエルフは狩人を兼業する。
エルフは狩猟と採集の民である。数少ない例外を除いて農業と牧畜はしない。
森を切り開くわけにはいかないからだ。
命の源を絶つことなかれ
幼少より教え込まれる、エルフ絶対の掟である。
彼らにとって森とは恵みを育む命の源そのものであり、生活の場そのものであり、命を賭しても守らねばならない故郷であり、第二の親であり、神である。森から何かを得る時は必要な分しかとらず、必ず根こそぎとらないようにし、幼獣や新芽をとるのもなるべく避ける。
リューフレチカも狩人兼薬師兼食料庫の管理人兼会計士である。森に出ては草花や苔、キノコを採り、果実をもぎ、種を拾い、虫を捕らえ、霊鳥を射り、獣を罠にかける。それらに必要な処理を行い、あるものは保存食に、あるものは調味料に、あるものは薬の原料に加工し、倉庫に管理し、在庫を常に把握する。そして森で手に入らないものは、外部の商人たちと取引し、それを帳簿に記録する。
それが彼女の仕事である。
それに必要な技術、知識は膨大である、修得には多大な時間と経験を有する。
具体的にはヒュームの一生分の年月がかかる。
この仕事は、平時、非常時問わず、里の生存に関わる重要な役職である。だからこその3人体制だ。誰かが急死したり、森で行方不明になったり、病で倒れたりしても大丈夫なように。120年前の「大疫」の際、一人しかいなかった薬師が真っ先に倒れてしまい、多数の病死者が出たことによる教訓である。
しかしエルフは長命だ。
時間をかけて訓練を行い経験を積めば、大抵のことは達成できるようになるというのが種族的な価値観である。
だから一人前のハードルが異様に高い。
リューフレチカのような若いエルフが、腐るのもある程度仕方のないことと言えた。行き遅れと言われる歳だが、それでも彼女は(エルフとしては)未熟で若かった。
「あんなに怒んなくたっていいじゃない!」
カン!と木のジョッキをカウンターに叩きつける。
音からわかる通り、なみなみと注がれていた蜂蜜酒はすでに空である。
説教から解放され、日課的な在庫管理と会計処理、そしていくつかの素材の加工処理し(同僚が採ってきた分を含む)、つまり遅刻した分残業して、彼女は里で唯一の酒場兼酒屋に来ていた。
日暮れから一刻、朝も夜も早いエルフの感覚からすれば宵の口はとうに過ぎ、完全に夜と言っていい時間帯である。
「もう、ほら、そろそろ店閉めるからね。これ飲んでさっさと帰んなさいよ」
カウンターの向こう、そう言うのは友人にして数少ない幼馴染、酒屋に嫁いだレイレイである。言いながら出したのは酒ではなく水。ただの水ではなく、森の霊泉から湧き出た魔力を帯びた天然水だが、ここエルフの里では普通の水である。
後ろでは寡黙なご主人がその日の片付けを終え、既に明日の狩りの準備をしている。それもほとんど終わっており、内心この人早く帰ってくれないかなぁと思っていた。
「え〜なによそれ〜」
最近幼な馴染みがつ〜め〜た〜い〜、と続ける。
レイレイら結婚5年目の新婚からすれば夜は夫婦の時間だ。酔っ払いの相手などたまったものではない。こういう気遣いができないのがリューフレチアの喪女たる所以である。
「ではなぞなぞでーす。朝は寝坊助、夜は酔っ払い、な〜んだ?」
((おまえだ!))
この唐突さ、酔っ払いならではである。
美女(エルフとしては平均)であっても、彼女は間違いなくダメ人間であった。
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「ちぇ〜レイレイの野郎、結婚してから付き合い悪くなりやがって・・・」
召喚魔法で呼び出した光精霊を隣に、リューフレチカはとぼとぼと帰路についていた。
周囲は暗いが、エルフの家々(in大樹)の窓から漏れる魔力やランプの光や、夜光花や蛍の淡い光、さらには頭上の樹々の切れ目から月光が差し込み、足元さえ照らせば問題なく歩くことができた。
他種族が見れば、妖精郷もかくやの実に幻想的な光景である。
「あ〜あ、ああはなりたくないね全く。こっちが愚痴るハズだったのに姑が『子供はよ』うるさいとかこっちが愚痴聞く羽目になったし」
しかし酔っ払った女がぐちぐちつぶやいてる内容は何一つ幻想的ではない。
「もう里にはすんごい年下か年上しか残ってないんだよなぁ。それか奥さんを亡くしたおじ様がたの誰かに嫁ぐか・・・」
はぁ、とあからさまなため息をつく。
大森林でも有力な氏族の里とはいえ、この里の人口は500人を超える程度。
当たり前だが男はその半分。独身はさらに少ない。そして慢性的に少子化に悩まされており、若い独り身はさらに少ない。
選り好みしていたらあぶれるは当然の帰結である。
「だいたいエルフは女も男もがっつきすぎなのよ!
そのくせプライドばっか高くていけ好かないし!
正直好みじゃないのよ!」
特にひどいのは秋の収穫祭の前である。若い(あるいは中ではそうでない者も)祭りの前はそわそわしだす。
秋はエルフの求愛の季節である。
樹に住むエルフの住処は文字通り大木の中だ。夏に涼しく、湿度は一定に保たれ、幹を通る導管が水道にもなる優れた住居だが、反面火は厳禁である。つまり竃を設けることができない。よって煮炊きは地面の上に作られた共用の炊事場で行うのだが、問題は冬に部屋の中で火を起こして暖まることができないことだ。
ならどうするのかと言うと、着込むか、人肌で温め合うか、その両方となる。そして人肌で温め合うのは、必然的に夫婦か、そうなることを約束した男女である。
冬の間はやることがないので男女は「娯楽」にしけ込む。
生存と、子孫繁栄を兼ねたエルフの文化である。
妊娠期間は15ヶ月。少なくないエルフが「仕込まれた」冬から1年を挟んで春の訪れとともに生まれる。
そしていい歳して相手がいない「あぶれ者」は、孤独に寒い冬を過ごすか、冬の間ずーっと「早く相手を見つけんしゃい」と家族に言われ続けるかの二択を迫られることになる。
そんなわけで、秋はエルフの婚活ラッシュなのである。
今の季節は初夏。
忙しい夏を過ぎ、秋に突入すればまたすぐ祭の季節だ。
我らがリューフレチカはと言うと、もう100年以上その「あぶれ者」をしている。
もう今から考えるだけで憂鬱である。
「もうこの際選り好みしてられないのよね。叔母様に見合いの手配を頼もうかしら?この里はダメでも他里なら・・・。でもそれは最後の手段にしたいから・・・」
このエルフ、叔母の気遣いに対し態度がでかい。
「外・・・里の外・・・そうよ外よ!」
リューフレチカはこの森を出たことがない。
生粋の森ガールである。まあほとんどのエルフっ娘がそうだが。
祭事や技術指導のために他の里に出向いたことはあるが、どれもこの大森林内でのことである。
しかし昔から大森林の外の世界の話を聞くことは好きだった。里を訪れるヒュームやドワーフの商人たち、そして帰省してきたエルフの冒険者にせがんだ話を思い出す。
平原で農耕を営むヒュームの王国や、大山脈で鉱業を営むドワーフたちの話。
勇者がエルフやドワーフの仲間たちと力を合わせ、ドラゴンや魔王を倒す話。
義勇兵の集団が不死王の軍勢を苦難の死闘の果てに退けた話。
一人の冒険者と、貴族令嬢の叶わぬほろ苦い恋物語。
聞いただけでなく、外のことを記した本もいくつか自室にある。
「そうよ!里の外なら男もいっぱいいる!
薬師としても会計士としても生きていけるし!
里じゃ普通も普通の顔だけど、ヒュームからすれば美男美女に見えるって言うし!
男なんか向こうから寄ってくるわ!」
実際彼女の考えは若干甘いが、大きく外れてもいない。
エルフとしては青二才扱いされるリューフレチカ。
しかし彼女の持つ技術のいくつかは、その道の専門家を名乗っていい一線級のものである。
まず薬師としての知識及び技能。
薬の材料を採取しながら進み、作りながら行き着く先の村々で売れば食いっぱぐれることはまずない。むしろ遍歴の薬売りは医者のいない辺境の村で歓迎される。
こういう場合相場を理解せず詐欺まがいな安い値段で貴重な素材を手放す失敗談が里を出たエルフの定番だが、彼女は裏方とはいえ村の商取引を司る会計技能持ちだ。珍重されるものもその価値も知っている。大きな失敗の心配はまずない。
この会計技能だけでも商会で下働きを始める分には十分。紹介状なしの就職は難しいかもしれないが、それでも雇ってもらえるところが皆無ということはないだろう。
しかも彼女はヒュームならぬ美貌のエルフである。受付嬢、もしくはそっち目的の秘書としての価値「だけ」でも彼女を欲しいと思う商会はいないわけでもない。
こればかりは彼女に相応の覚悟が要求されるが。
そしてエルフとしての必須技能である森で生きる知恵と魔導。
狩りの仕方、食べれる野草の知識、野外調理、水の手に入れ方、迷わない森の歩き方、寝床はどういう場所が安全か、一般人からすれば予知に近い天の雨風の読み。
各種危険の察知、猛獣の避け方、痕跡の消し方、気配を殺す術、いざという時の戦い方や対処法、その知識と道具の使い方。
種火は火魔法、飲み水は水魔法、合わせれば露天風呂、虫除けの呪い、眠る際に張る不可視の結界。なにより、外敵を撃退する攻撃魔法。
このあたりの知識・技術・魔導はエルフとしての「最低限の」たしなみである。平均的なエルフの前では、大自然など天然風呂付きのホテルに等しい。森限定では最強の護衛であるし、たとえ荒事が苦手でも、隊商や冒険者パーティに一人は欲しい人材である。
叔母の言う通り、野伏としてはまだ未熟と言われる彼女だが、それも「エルフとしては」が頭に着く。
彼女が知る以上に、彼女の人材としての価値は以外と高い。
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遅刻して怒られたあの日から早一週間。
そのまだ夜が明けるか明けないかという早朝。
一人のエルフが森を慣れた足取りでスイスイと進んでいた。
我らがリューフレチカである。
森に溶け込むグリーンとブラウンの上下。枝葉に引っかからないよう、袖と裾は体のラインに沿ったもの。
その上にはポケットやホルダーがいっぱいついた革ベスト。中身は小刀やおやつや秘薬が少々。
足元はエルフ秘蔵の、軽くて丈夫、疲れと蒸れ知らずの革ブーツ。彼女の足取りは軽い。
控えめだが精緻な刺繍、染め抜きの文様、革には模様細工、それに要所要所を飾る装飾品は、それぞれ魔法的な意味を持ち、それぞれに魔除け・魔力補助・呪文詠唱省略などの役割を持つ。
エルフ印の魔導技術が惜しみなく使われている。
最悪、全部を質に出せば5年、売れば10年は食いつなげる。彼女の一張羅である。
顔以外の露出は皆無。虫除けの呪いがあっても、森の植物にはかぶれるものも多いし、何より初夏でも森の朝はまだ肌寒い。
それはエルフシルクと革を組み合わせたエルフの正装にして仕事着と言った装いである。
ちなみにこの頃のリューフレチカには知る由もないが、街には「エルフ風」な装いが売りの大人の店がある。そこの娘たちが着る露出の多い衣装は捏造もいいところだが、エルフを見たことない街の男達がそれを知るわけがない。むしろ大喜びである。
エルフ(の女性)は怒っていい。
彼女の背には背嚢と狩り・自衛兼用の短弓と矢。左右非対称の革手袋は、弓と矢に次ぐ狩人の必需品。
何かと入り用な刃物類は、背中の剣鉈から懐の小刀まで、全身に大小数カ所。
指には杖代わりの魔法の指輪。中央の要石は破魔の紫水晶。
背嚢には当座の飯の種のエルフの秘薬各種に様々な素材、向こう何日か分の保存食。
予備の服と代えの下着がいくつかに、野営に必須の外套は防寒・防水・迷彩の三拍子揃った優れもの。
火には弱いが非常に軽く、滅多なことでは切れない、マダラグモの糸製のロープ。
手持ちは少ないが里では貴重な現金と、換金目的の予備の魔道具も背嚢とは別に数カ所仕舞われている。
なんらかのトラブルで最悪背嚢を失ってもやっていけるように。
絵に描いたような、そして非常に実用的な格好のエルフがそこにいた。
街のヒュームが思い浮かべるエルフ像から大きく外れてはいない、露出が少なく色が地味なことを除いて、だが。
しかしエルフが見れば、彼女がかなりの重装備であり、1日2日の野営を目的としていないことを見抜いただろう。
事実彼女はしばらく帰るつもりはない。
(目指せ!脱!喪女!)
決意から早一週間、その決意を固くして今一度「心の中で」高々と宣誓する。
森で大声をあげるのは厳禁であるが、ぐっと拳に力を入れても咎められない。
職場には今朝は森に出ると伝えてある。叔母らが異常に気づく頃には彼女は森の端だ。里に出入りする商人と同じルートは外したが、方向は同じ。つまり目的地も同じ。周辺国の情勢はその商人に訊いて把握した。先週、二月に一度来るか来ないかの行商人が来たのは天恵だった。
天気もよし。
季節も初夏の今なら凍死の心配も、急な大雨や冬眠明けの餓獣の心配もない。季節柄、道中得られる獲物や薬草も多い。今後の生活費の足しにするつもりだ。
実にいい「旅立ち日和」だ。彼女はそう思ってほくそ笑んだ。
と、彼女の野望はそう長く続かなかった・・・と言うか始まりすらしなかった。
風に乗ってそれは聞こえてきた。
エルフは耳がいい。
彼らの木の葉のような長い耳は、精霊や妖精の声が聞こえるだけでなく、単純に集音性能が高い。
それはなにか生き物の鳴き声のようだった。
彼女のよく知る鳥たちや、森の獣の声ではない。
経験と知識では知っているものの、エルフの里では久しく聞いていない「泣き」声。
赤ん坊の泣き声だった。
次の刹那、リューフレチカは走り出した。
大樹の根を蹴り、岩を飛び越え、藪を突っ切り、地面の大きく足跡を付けて突っ走る。
泣き声に向かって、駆ける、走る、疾る!
昔、叔母が話してくれたことを思い出す。
叔母の若い頃(何百年も前!)エルフの美貌に取り憑かれた悪徳貴族が森に攻め入ったことがあると。その軍勢は、森の端から1里も踏み込まぬ内にエルフの斥候にやられて散り散りになり、森の猛獣と毒虫と食獣植物にやられて果てた。彼らの遺骸も一刻を待たずに森に消えた。森の掃除屋たちが片付けたからだ。
一人にしろ親がいるにしろ、泣き喚く赤ん坊が無事でいられる猶予はそれほどない。
森は決して甘えを許さない。
「邪魔!」
背嚢を捨てた。
運が良ければ保存食を漁られるぐらいで済むだろう。
武器だけを持って走る。
泣き声がはっきり聞こえるところまで来た。
風の精たちが騒いでいるのも聞こえてくる。
赤ん坊以外の何者かも近くにいるのかもしれない。
いよいよもって猶予がない。
もう一つ藪を抜ける。
見えた!正面の樹の根元の隙間!お包みから顔だけ出して泣いている。
そして周りには、屍肉喰らいの人面鳥!何羽も!
「離れろぉぉぉぉ!」
人生で一番かもしれない大声を肺腑から吐き出す。
彼女に近いところにいた人面鳥は飛び立って逃げていった。
しかし赤ん坊に迫る人面鳥は逃げない。目玉の一つでも啄ばんでいく魂胆らしい。
胸元の留め具から「矢」を抜く。それは細長い植物の種。
「育て!」
注がれた魔力と力ある言葉の詠唱を受け、指先のそれは瞬時に芽吹き、一瞬で矢の形に育つ。
芽吹いた双葉は尾羽に、茎は矢柄に、伸びた根は硬く鋭く尖り、人の指ほどの長さから通常の矢の長さに。
狩人として何万回と繰り返した動作で、流れるように番え……射る!
タン!
ギッ!と人面鳥が断末魔をあげるが、それだけだ。矢が人面鳥の頭を貫通し、後ろの樹に縫い付ける。
程なくその命が尽き、その頃には「芽吹き矢」の根鏃が解け、亡き骸に根を張る。
奪った命が、次の命の苗床になるのだ。
ギャギャギャガガ!
上の梢に退避した他の人面鳥たちが抗議するように警戒音をあげるが、知ったことではない。
赤ん坊を見る。しわくちゃな顔をしかめ、泣いている。
目に見える外傷、無し!
見た目は正常!魔力のオーラも正常!
生きてる!
「よかったぁぁぁぁぁ!」
膝をついて、うろの中の、泣き喚いて存在を主張する、小さな命を抱え上げた。
うわあああぁぁぁぁあ!!!!
よりでかい声で泣かれた。
「おーよしよしごめんねー」
おっかなびっくりであやす。無論、赤ん坊を抱いた経験なんぞ彼女にない。
でも静かにしてねーわりとマジで命の危険があるからねーと思うのだが、思うだけで赤ん坊がおとなしくなってくれたら苦労しない。
そして気づいた。なんか臭う。
「おしめか」
捨てた荷物の元へ、赤ん坊を抱えて急いだ。
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リューフレチカはまだ知らない。
両手に抱える、この小さな赤ん坊が、将来魔王を討つ勇者に育つことを。
勇者の最初の師として、そして母として彼女が英雄譚に記されることを。
彼女はまだ知らない。
そして、彼女が脱喪女できたかは、歴史は語っていない。
確かなのは、リューフレチカが親としての幸いを得たことである。
追記 季節の記述の矛盾と誤字数カ所を修正 (2/15/2016)