最後の叡智
罪とはなんだったのか。誰の罪だったのか。いまやそんな考えは無意味であった。
時はすでに男のすべてを侵略し奪っていた。彼の目の前には茫漠とした過去が広がり、打ち拉がれた肉体と幽かに残された罪の存在しか残されていない。
己が消えゆく最中、彼は罪を自己肯定・存在証明としてあったことを思い出し、同時に、自分が最後の人間だったことに気が付いた。
罪を知る人は己を救うため、救済の道を歩む。それが暗い道から、明るい道への道程であり、人間の性である。その性は罪でしか認識されない。矛盾を孕むがため、より人を人たらしめる。だからこそ、彼は正しき人に成り得た唯一の人間であった。
また、罪を犯したからこそ――罪に縛られていたとしても――ひとりの人間として、己の足で走ることができた。太陽の照らす輝ける世界に向かい、誰もが恐れた暗い道を駆け抜けることができたのだ。
今になって、思い出される始まりにあった記憶たち――周りには誰もいない、この静かな世界にたったひとりで挑んだ。誰も成し得なかった罪を背負い、光を目標とし、閉じ込められたものらを解放しようと駆けまわってきた。すべての存在を呼び起こし、あらゆるものを世界に還そうとした。
その結果、眠れる人々が目を覚まし、彼は主体的な存在から客観的な存在へ変わる。やがて彼は救済の英雄となり彼自身も救われる未来を描いていた。
しかし、人の世の復活はならず、虚しい結末に向かう。男の人生が終わろうとしたその間際、体中にあらゆるものが入り込んでいった。その最後に、過ぎ去った時間――犯した罪――かつての記憶――すべてが甦った。彼は果てゆく中で、人として最後の叡智を知り得た。しかし、もうそれを省みる時間は刹那の時も残されていない。
男の意識を暗黒の帳が覆った。そして訪れたのは静寂の地平であった。




