存在の彼方
男は目の前にいる若い男の話に耳を傾けていた。若い男は語る。
「なぁ知ってるか。自分、『己』ってやつをさ。存在だよ、存在。あんたは存在してるか? 俺自身、自分が存在してるかわかんねぇんだよ」
若者は続ける。
「自分が、もっと具体的に言えば意識自体を俺が見てるんだ。訳わかんないよな。なんというべきか、魂と意識と精神の三つが独立して、尚且つ俺という肉体がいるというのか、そんな感じなんだ。肉体の内側で精神が意識を見、魂が肉体の外にふらっと出て俺と精神と意識を近くから眺めている。その際、俺も彼らを感じているんだ」
間を置く。男に話す気配はない。若い男は話し始める。
「その状態に陥ると、世界が平たくなるんだよ。あらゆるものが面となって見えるんだ。するとどうだ、すべての存在が、一部が全部で全部が一部になり、合一された景色が流れるようになる。俺もその中に溶け込んで肉体の意味を見失う。しかしな、魂と意識と精神だけは別なんだよ。そいつらは俺を見てるんだ、平たい世界でも各々の形を保持したままでよ」
暫しの沈黙。男はいまだ口を閉ざしたままである。若者が咳払いしたあと、口を開いた。
「俺はそんときに自分の存在がいくつも有り、また、無いかもしれないものだと認識した。以来、俺は俺を見失った。存在がどこか違う場所に行ってしまった。俺はここにいない。そういうふうにしか感じられないんだ」
男がついに口を開いた。
「そう。で、僕は何をすればいいんだい? 慰めの言葉を掛けたらいいのかい? それとも君の存在を確固たるものにするため、失われた君を取り戻せばいいのかな?」
若者が答える。
「いや、なにもしなくていい。ただ聞いてくれてありがとよ。それだけで俺は少しだけ存在を取り戻した。そしてたぶん、こういったことを繰り返していけば、やがて俺は俺を取り戻せる。そんな希望がみえてきた。あんたが話を聞いてくれたおかげだ」
彼らの間に静かな時間が流れていく。言葉は遠くまで運ばれた。互いに新しい言葉の船出をまっている。先に出発したのは男だ。
「話を聞いただけだが、それだけでよかったのか? もっと、何か、議論を交わすようなことや、別な存在による存在証明を手助けしてやることを少しながら担うこともできたのだが」
若い男は答える。
「いいんだ、聞いてもらっただけでさ、口にして音となった言葉と一緒に不安もどこかへ飛んでいった。礼は二度も言う必要はないし、俺はまたどこか存在を探しに行く。さよならだ」
男は無言のまま微かに頷く。若者はすでに背中を見せ歩き始めていた。若者の姿が見えなくなると、男も立ち上がり、空を仰いだ。彼は眩い光を捉えた。次の瞬間、彼はいない。




