プロローグ
「最悪だわ」
今作の主人公、前園敦子が、そう言い放ったのは訳がある。
――三日前――
「昨日を持ちまして、我が会社は倒産しました。捜さないで下さい」
出社してきた敦子の目の前では、そう書かれた一枚の便箋が、事務所の入口に貼付けられていた。
貸しビルの一室にある敦子の勤める事務所は、社員四名という極小規模の事務所であり、大企業ならばともかく、この不景気の中で長く生きていけるとは思っていなかった敦子だったが、終わりは突然やって来た。
「ふ……ふざけんなぁ!!」
ガンガンと元・事務所の入口を殴りつける。
上京して早五年。
デジタルアートデザイナーを夢見て、もう五年経っていた。
美大を卒業し、デザイナー専門学校を卒業するも、敦子の才能は今ひとつ開花されず、変わりにデジタルアートに必須のパソコンスキルが上がっていった。
パソコンが上手くなっていけば、無駄が少なくなって自分の思い描く絵に仕上がっていくのだが、美術界ではデジタルアートは全般的に受け入れては貰えず、中々値段が付かなかった。
そして四年目に、ある事件を起こし、解雇宣言をデザイナー事務所から受けた。「もうこの世界で生きられない」の一言を受けて。
東京では行く当ても無く、ただ呆然と生活してきた。
しかし、生きている限り金は使うもので、デザイナー事務所の近くに借りた家賃に電気料、光熱費水道料金、食費、保険、年金、衣服代、化粧代、雑貨代etc……とにかく女性は金がかかるのだ。
高校、大学時代には彼氏も作らず、友達とも付き合わす、せっせとアルバイトして貯めた金は五年目にして底が見えており、もしも車を持っていたら間違いなくパンクして、実家の北海道に帰って牧場を継ぐ事になるだろう。
そして親が決めたお見合い相手と有無を言わさず結婚されるのだ。
今年で早27歳。そろそろ見を固めろとの言葉が冗談では無くなりつつ(実際、毎日母親から電話で言われている。泣き声で)ある。
とりあえずは目先の生活を何とかするべく、求人雑誌を見て一社だけ受かって社員になったのだ。
それが半年前。
そして現在、敦子はまたしても大都会・東京に放り出されていた。
元・事務所の入口前でへたりこむ敦子は、目に涙を溜めて「なんで……私だけ」と繰り返していた。
出社してきた他の事務所の社員は、変なものを見るような目で敦子を見るも、無言で敦子から離れていく。
それに気付いた敦子は直ぐさま立ち上がり、顔を上げずに走り去るが、前を見ない為、看板に頭をぶつけた。
一瞬動きが止まるも、回れ右をして本気走りをして消えていった。
〜紅茶カフェ STAND〜
「スタンドブレンド、お待たせ致しました」
白ぶち眼鏡をかけた短髪黒髪の青年が、カウンターに座る敦子に注文品を差し出す。
「柏木ぐーんっ……!!ぎいでよぉー!!なんであだじだげーっ!!」
敦子はボロボロ涙を流して、柏木という青年の黒エプロンに泣きつく。
「……以上でよろしいですね。それではごゆっくり」
柏木は冷たく言い放ち、擦り付ける敦子の顔を右手で払いのける。
黒エプロンには涙と鼻水の染みがびっしり着いていた。
「こらっ!!敦子、備品汚さないでよ!!」
カウンターには茶葉を見極めていた猫目の女性が敦子を叱り付ける。声が幼いので、あまり怖さは無く、逆に可愛さが出ていた。
「だってぇ……いいじゃんかぁ、芽衣は家に愛しの旦那が、仕事では若い男の子と一緒にいてさぁ……たまには私にも男っ気に触れさせてよ」
「何言ってんの、敦子だってその気になれば彼氏出来るって」
「……何を武器に?」
「今の涙と鼻水で崩れた顔じゃダメだけどさっ、ちゃんとしてれば美人なんだし、それに……」
「それに?」
「それ」
芽衣は人差し指を、敦子の胸に向けて、そのまま指を胸に埋める。
敦子は何気に巨乳だった。
貧乳な芽衣には、それを羨ましがっている為、よく触ったり揉んだりして遊んでいたので、これはスキンシップの一部である。
「ひぁっ!!」
「もっと胸元を広げて谷間作って、アピールしながら男の前に立てばイチコロだよ」
「そんな……そんな身体目当てヤダーッ!!」
またわんわん泣き出す敦子。
「マスター。あんまり虐めちゃ駄目ですよ」
柏木はマスター、つまりは芽衣に注意し、敦子にハンカチを上げた。
「ありがとう……柏木君。泣いたらちょっとスッキリしちゃった」
「いえ、それじゃあマスター、休憩入ります」
「はいはい」
柏木はエプロンを脱いで、そのまま出ていってしまう。
「相変わらず……不思議だね。柏木君は」
柏木はいまいち、冷たいのか優しいのか分からない行動と発言をする。
それはこの店の常連だった時と変わっていない。
それが芽衣にとって不思議であり、アルバイトさせている理由でもあった。
「クスッ、そのギャップがいいんだけどね。もう少し優しくしちゃえば、敦子なんて簡単に落ちゃうのに」
「なにそれ。私はそんな簡単な女じゃありません。それに……まだ20歳じゃない。若すぎるよ」
「今時七ツ差なんて気にするほどじゃないのに。真面目だねぇ」
ニヤニヤ笑う芽衣を尻目に、ぶつくされる敦子。
これでも敦子にはちゃんと理想があるのだ。
顔は坂口憲二似のワイルドなイケメンで、高身長の筋肉質。性格は優しくて私だけを愛してくれて。大卒で年収は……やはり良いほうが希望。
となると仕事はやはり、弁護士とか医者とか……と考えている。
断言するが、そんな人間は中々いない。
というか、そんな人間は敦子を相手にはしないだろう。
不細工とは言わないし、綺麗な部類なのだが、如何せん華が無い。
その場にいても、どこか目立たない。それが敦子だった。
「はぁー……」
「溜息つくと幸せ逃げるよ」
「もう逃げ出してるわよ」
まだ湯気の立つブレンドティーに手を伸ばし、匂いを嗅いで飲む。
芳醇な香りと濃厚な味わい。苦味が強いわけではなく、ほんのりと紅茶本来の甘味を舌が感じる。
毎回思うが、一体何をブレンドしているのだろう。何杯飲んでも飽きないこの味を作れる才能を持つ芽衣を本当に羨ましく思う。
デザイナーは、見る者を決して飽きさせない物を創る事が仕事だからだ。
職種は違えど、芽衣はある意味で敦子の目指すべき姿だった。
「敦子さん」
「うわぁぁっ!!」
ぼーっと考えていた所に後ろから急に話し掛けられ、前のめりになった敦子はカップを落としそうになった。
「か、柏木君、急に話し掛けないでよっ!!」
「これ」
柏木は謝りもせず、敦子に一枚の紙を手渡した。
薄っぺらな紙には、簡素な文字が書かれていた。
「何これ?“女性人員求む 詳しくは下記まで”って求人広告?にしてはすごく怪しい……」
「時給見て」
敦子は目線を下げ、驚愕した。
「時給……五千円!?」
一日五時間働いて、それを週休二日でも一ヶ月あたり、約五十万円の収入だ。
家賃、保険、年金にデジタル機材のローンを支払っても、十分に暮らせる。
「……さらに怪しいね。敦子は行かないでしょ?」
「ははは……そうよね。怪しいよね……」
芽衣は訝しい目で敦子を見る。
(でも……これならデザイナーの勉強しながら楽々東京で暮らせる……)
「と、とりあえず……」
必死に電話番号を携帯のに写し、アドレス帳に登録しておく。
「でも、これどこで配られてたの?」
「……ちょっと……言えないです」
芽衣にとって、少しだけ目を見開いて焦る柏木の姿を見たのは初めてだった。
(なんか……怪しい。秘密があるよね……絶対に)
最近の柏木は少し変わっていた。
昔は無表情で無感情に徹していて、第三者的目線で物事を見ていた。
でも今は……なんというか、主観が少しだけ混じったり、時々一点をずっと見ていたりしていた。
だが本人には聞けない。
どんな秘密があるにせよ、それは他人が好奇心から暴いていいものではない。
誰だって触れられたくないものはあるのだから。
柏木も、敦子も、そして芽衣自身も。
芽衣が考えに耽っている間に、敦子は面接日をメモし、カフェを出ていた。
帰り際に「絶対怪しいから止めなよ」と芽衣は注意しようと思っていたのに言いそびれてしまった。
(まぁ、大丈夫よね……)
そう思って、芽衣は店の仕事に戻っていった。
そして敦子は、何度もアドレス帳に登録した番号を画面に出して、電話をかけるか悩んでいた。
確かに怪しい。それは確実だ。
こんな危ない仕事などせず、もっと安全な仕事を探せばいい。
しかし、それでは家賃などの出費すらも賄えない。
となれば北海道の実家に戻るしかない。
つまりは、夢を諦めると言うことだ。
世界は残酷だ。
夢という生きる希望を与えておいて、叶えられない絶望を喰らわせる。
(しょうがないよね……。やっぱり現実は上手くいかないよ……)
そう思った瞬間、携帯の画面にポタッと水滴が落ちた。
「あ……れ?なん……で?」
ポタッポタッと水滴は止まらない。
敦子の目から滴り落ちる水。
自分の心に、嘘をついた罰として流される涙。
頬から滑り落ちる雫は止まらず、携帯の画面に水滴を作っていった。
どれほど必死になろうが、叶わない事がある。
良いことも何もなく、ただ枯れ果ててしまう事がある。
それを知らないほど敦子は子供ではないが、それに納得出来るほどの覚悟を持てるほど、大人でもない。
「嫌だ……」
呟く言葉。
それは自分に向けた、自分勝手なわがまま。
「嫌だ……嫌だよ。諦めたく……諦めたくないよ!!」
気付いてしまった真実は、塞きを切ったように頭を埋め尽くす。
夢は諦められない。
その真実に。
諦めるくらいなら、死んだほうがマシだ。
敦子は涙も拭かずに、電話番号にコールする。
これが、新たに始まる悲劇とも知らずに。