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五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す  作者: 正宗


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第七十六話:五万のパズルと新しい窓

1983年、10月。


秋の気配が深まり、窓の外の空気は日を追うごとに冷たさを増していた。


だが、東芝の開発室の重い扉を開けると、そこには季節とは無縁の熱気と、煙草とコーヒーの入り混じった淀んだ空気が漂っていた。


「……ダメだ。またタイミングエラーだ。第七パスでクロックに間に合っていないノードが三箇所ある」


メインフレームのプリンタが吐き出した分厚い連続用紙に埋もれ、大門が血走った目で文字の羅列を一行ずつ指でなぞっていた。


用紙を手に取り、大門の隣で睨んでいた斎藤が天を仰ぐ。


「一晩かけてメインフレームをぶん回して、たった三箇所のバグを見つけるだけか。……これじゃいつまで経っても論理検証が終わらんぞ」


この頃の論理検証は、現代のように数秒で終わるものではない。


数万行のネットリストを大型計算機に投げ、結果が出るのを半日待ち、出力されたエラーを手作業で探すという、途方もない苦行だった。


「こっちも限界です!」


部屋の反対側から、関根の怒声が飛んだ。


巨大な製図台の上に広げられたマイラー紙に向かい、関根と小林が赤と青の色鉛筆を握りしめている。


五万個のトランジスタを手描きで配置していく物理レイアウト作業だ。


「マイラー紙に描いた端からデジタイザで座標を入力して、DRCを走らせれば容赦なくエラーが出る。ほんのわずかでもズレれば弾かれて、またマイラー紙に戻って引き直しだ!」


小林の指先は、色鉛筆の芯の粉で真っ赤に染まっていた。


「お疲れ様です」


忠夫が鞄を置くと、西村が空になった栄養ドリンクの瓶をゴミ箱に放り投げた。


「おお、来たか……」


西村が充血した目をこすった直後、部屋の奥から今川の楽しげな声が響いた。


「佐伯くん。来たか、ちょうどいい。これを見てくれ」


ホワイトボードの前に立つ今川の背後には、複雑なアセンブリコードではなく、奇妙な図形がいくつも描かれていた。


四角い枠。

その中に並ぶ小さなアイコン。

そして、矢印のマーク。


その声に反応し、作業の手を止めた技術者たちもホワイトボードの前へ集まってくる。


「……これは」


忠夫が静かに呟くと、横に立った高村が顔を引きつらせた。


「今川さん……まさか、本気でそれを?」


「ああ。私が作ろうとしているOSは、文字だけを打ち込む端末じゃない。画面全体をピクセルの集合として描き出し、利用者が画面上のウィンドウを直感的に操作する……完全なGUI型だ」


その言葉に、技術者たちが一斉に息を呑んだ。


1983年現在。

GUIは一部の超高価な研究用計算機や、アップル社が今年始めに出した数百万円する特殊なマシン(Lisa)にしか搭載されていない、未来の技術だった。


「正気か……」


高村が呆然と呟く。


「そんな重いOSを動かしたら、CPUの処理性能もメモリも一瞬で食い潰される!」


今川が静かに返した。


「だから、この石が要る」


部屋が静まり返った。


「複数のウィンドウが同時に動くということは、複数のタスクが同時に走るということだ。それを破綻なく制御するには、割り込み応答が速くなければならない。優先度の切り替えが確実でなければならない」


高村が低く呟いた。


「……だから、割り込み応答を極限まで速くしようとしていたのか」


「ええ」


忠夫が続けた。


「重いGUIの処理も、命令を削ぎ落としたこのCPUなら捌けます。……そのために僕たちは、この石を設計してきたんですから」


西村と高村が、弾かれたように忠夫を見た。


忠夫は方眼紙の束と、ホワイトボードの窓を交互に見つめる。


部屋に、深い静寂が落ちた。


斎藤が連続用紙を置き、低く言う。


「……やれるか」


西村が笑みを浮かべ、シャープペンシルを握り直した。


「やりますよ。その重ったるいグラフィックごと、最高速で処理できる石に仕上げてやります」


「おう!」


関根と小林が吼え、大門が再び端末を叩き始めた。


秋の夕日が窓の外で沈んでいく。


冷え込む夜の気配とは裏腹に、開発室の熱だけは、まだ落ちていなかった。

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