第四十一話:逃げ場なき包囲網
丸の内の巨大な本社ビルを後にした山下が向かったのは東芝の本社ビルだった。
「……山下さん。あちらの石川常務は、これを『コスト優先の紛い物』だと切り捨てたそうですね」
応接室で対峙したのは、東芝の半導体事業部を支える実力者、岩崎事業部長だ。その傍らには、若き精鋭エンジニアたちが、食い入るように山下の提示した技術概要説明書を見つめている。
山下は、あえて「先方に門前払いされた」という事実を隠さなかった。それが、技術で世界を獲ろうとする東芝の闘争心に火をつけることを知っていたからだ。
「ええ。彼らはDRAMの微細化こそが唯一の正解だと信じて疑わない。……ですが岩崎さん。先行する巨人と、同じ土俵で真っ向勝負を続けて、あと何年で彼らを追い抜けるとお考えですか?」
岩崎の眉がピクリと動いた。東芝は常に「次の一手」を探していた。巨人の後を追うのではなく、盤面そのものをひっくり返すような一手を。
「……この『擬似SRAM』のライセンスを、我が社に『独占』で売るという話ですか?」
岩崎の目が、鋭い光を放つ。
だが、山下は静かに首を振った。
「いいえ。独占ではありません。……私はこの技術を、あちらの会社を除く、すべてのメーカーに提供するつもりです」
その言葉に、応接室がしんと静まり返った。
独占ではない。それは東芝にとってもライバルが増えることを意味する。だが、山下の意図はその先にある「共通規格化」だった。
「考えてもみてください。あちらだけが、旧来の『使いにくいDRAM』に固執し、それ以外の全メーカーが、この『安くて、つなぐだけで動く擬似SRAM』を標準にする。……市場のルールが書き換わったとき、孤立するのはどちらでしょうか?」
岩崎は絶句した。
山下が狙っているのは、単なる特許料ではない。「巨人を、市場全体で包囲し、孤立させる」という、極めて大胆なデファクトスタンダード戦略だった。
「……恐ろしい男だ」
岩崎の隣にいた若手エンジニアが、震える指で回路図の一角を指した。
「部長、これ……リフレッシュ制御のロジックをチップ内部に完全隠蔽しています。外部のコントローラを一切介さず、アドレスバスに直結するだけでSRAMとして振る舞う。……こんな回路、普通は設計の複雑さを恐れて逃げますよ。それを、これほどシンプルにまとめ上げるなんて」
山下は不敵な笑みを浮かべたまま、さらにもう一枚の書類を取り出した。
「岩崎さん。この技術、『国際特許(PCT出願)』に共同出願しませんか?」
岩崎が書類を手に取り、眉を寄せる。
「共同出願……。発明者はその中学生だが、出願人に東芝の名を連ねろと?」
「ええ。個人では、海外の巨大資本に特許を潰されるリスクがあります。ですが、そこに『TOSHIBA』の名があれば、誰も軽々しくは手を出せない。東芝には、世界中から集まるライセンス料の分配を約束します」
岩崎の隣のエンジニアが息を呑んだ。これは、東芝というブランドを「盾」に使い、世界中から技術使用料を徴収するプラットフォームビジネスの提案だ。
「……山下さん。貴方は東芝を、『用心棒』にするつもりか」
「いいえ。世界標準を共に支配する、最強の『パートナー』ですよ。あちらの石川常務が、国内のシェア争いに現を抜かしている間に……我々は海の向こうまで、すべてを塗り替えてしまいましょう」
岩崎は、しばらく黙って山下の目を見つめていた。
「……面白い。あちらが『王道』という名の停滞に浸っている間に、我々はこの『覇道』で世界を塗り替えてやるとしましょう。山下さん、その賭け、東芝が乗らせてもらいます。」
岩崎の手が、力強く差し出された。
日本の半導体史を塗り替える巨大なうねりに変わった瞬間だった。




